日本の大学における財源確保のために大学基金の設立よりも、公共投資として大学への予算配分を大幅に増やすべきだと思う。これは長期的な投資であり、リターンは必ずあるであろう。
図表は過去の大学の初年度納付金の推移を、国立大学と私立大学に分けて比較した表である。1975年(昭和50年)では、国立大学の初年度納付金はわずか86,000円であった。それが、2020年現在はゼロが一つ多くなり、817,800円である。45年で約10倍である。その間、国民の所得は10倍になったであろうか。
筆者が大学生になった1987年では、国立大学と私立大学の初年度納付金の差は1.7倍まで縮まっている。たしかに、自分の初年度納付金は、私立大学でも比較的安いほうだったと記憶しているが、70万円ちょっとはあった。そのとき親の経済的な痛みは想像できなかった。親が払ってあたりまえ、とでも思っていたと思う。そして、2000年には、1.4倍までになっており、現在は1.7倍まで開いたものの、私立大学の授業料にも格差がでているので、その影響で私立大学の平均が上がっただけだと思われる。もし、中央値で比較するともっと差はないと推察する。
初年度納付金80万円という世界は、もう「国立大学」とは呼べないと思う。なぜ、ここまで大学の授業料等が値上がりするのを国民は黙ってみていたのだろう。授業料が値上がりする一方で、近年の家計所得は低下傾向にあったというのに。フランスであれば、間違いなく学生のデモがはじまるであろう。
このようなことをしていれば、わが子のために家計支出を減らして、将来の子どもの教育費のために備えようとなり、間違いなく消費は冷え込む。子どもの数は増やせないので、ますます少子化に拍車をかける。国立社会保障・人口問題研究所の調査によれば、自分たちが理想とする子どもの数を生まない理由として「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」が56.3%で最も多く、内閣府の調査でも、将来、子どもがさらに増えたときの不安として「経済的負担の増加」が70.9%と最も高かった。国民の多くは教育にお金がかかるので、子どもを産めないわけである。
なぜ、日本では税金を教育に使う合意が得られないのであろうか。それは、国民の意識の中に、子どもの教育は親の責任という哲学が刷り込まれているからであろうか。たとえば、矢野眞和ほか『教育劣位社会‐教育費をめぐる世論の社会学』(岩波書店、2016年)における調査によると、増税による「借金のなしの大学進学機会の確保」の施策に対して、調査対象者全体の30%程度しか賛同が得られていない。一方、「年金安定化」には70%の人が賛同している。「公立中学・高校の整備」には50%程度が賛成ということで、意外にも高等教育への投資には興味がないという結果になる。調査対象者の高齢化もあるかもしれないが、結局、わが身が一番なわけである。
昔から道徳教育や修身教育において家族中心主義をもとに、子どものしつけは親の責任、あるいは、子ども教育は親の責任、という表現が日本人の思想に影響を与えてきたのはあると思う。しかし、子どもの教育は親の責任といっても、経済的な負担を親がしなさい、という趣旨ではないと思う。経済的な負担は社会がすべきなのを、どこかで取り違えたのではないか。家族中心主義は冷たい社会を作る。自分の子どもの教育にはお金を惜しまないが、他人の子どもに税金は使いたくない、という本当に「冷たい社会」である。
一方、個人主義が貫徹しているヨーロッパ社会をみてみると、高等教育は社会が責任をもって提供するというシステムが確立されている。ドイツやフランスには、大学への入学金も授業料も存在しない。年間数万円の登録料で終わりである。あとの財源は国が準備し、国の将来の発展のために投資しているのである。この点をみると、ヨーロッパは「温かい社会」で日本は「冷たい社会」と映る。日本人は優しく道徳観があって公共心も旺盛というのは、表面的なことでしかない。内実は冷たい人々による冷たい社会なのである。
図表をみれば明らかである。多くのヨーロッパの国々は、未来への投資として教育に予算を配分しているわけである。日本は下から数えて2番目のみじめな状況である。
これは教育基本法にも端的に表れている。フランスの教育基本法の第1条では「教育は、国の最優先課題である。教育という公役務は、生徒及び学生を中心に置いて構想され組織される。それは機会の均等に貢献するものである。人格の発達、初期教育・継続教育の水準の向上、社会生活・職業生活への参加、及び市民としての権利の行使を可能にするため、教育を受ける権利は各個人に保障さる」とはじまり、国民の権利として規定されている。非常に力強い。
一方、日本の教育基本法は、第1条で「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と規定され、国の責務とされている。ある意味で上から目線である。
1966年の国際人権規約の第13条2項Cでは「高等教育は、すべて適当な方法により、とくに、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じて、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること」と規定された。日本は2012年に批准し、国際公約として政府の努力義務になっている。しかし、努力のかけらもみえないのが今の日本政府といえる。もうそろそろ、アメリカに日本の模範となるシステムはないことに気がついてもよいと思う。
直観的に思い当たる財源は、医療費を削減して高等教育の全員無償化にまわす方法である。日本人の異常なほどの病院好きは、それこそ国民病であり、健康保険制度の見直しは避けられないと思う。シルバー民主主義のための若者の未来を奪うのはもう終わりにしなければならないのではないか。いつか詳細な検証はしなければならないと思う。