スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

文藝春秋のワクチン後遺症の記事を読んで

福島雅典「コロナワクチン後遺症の真実」文藝春秋102巻4号を拝読しました。後遺症に関する内容はそういうこともあるだろうなと想定がつくものが多かったので、驚くような新発見はありませんでした。よって、私が読んで気づいた希望について整理しておこうと思います。

日本国民の8割が接種しており、妻も2回、母も4回、その周りの親戚や友人もそれなりに打っています。自分自身は最初から懐疑的だったので見送り、3人の子どもたちにも打たせないと判断しました。

それは、各種論文を読んで判断したなどということではなく、人類を絶滅させるウイルスなど論理的にこの世に存在することができない、というシンプルな理屈からそのように考えたということです。マスクについても直感として、人間以外の動物でマスクをしないから絶滅しましたなどという生き物はいないわけで、道理に合わない専門家の意見にも賛同できませんでした。

ただそれだけなのですが、これだけワクチン後遺症と思われる事象が相次ぐとどうしたものかと考えてしまうわけです。しかし答えはシンプルなようです。福島氏による8割の日本国民へのアドバイスは、食事、運動、睡眠、心のあり方を整え、免疫機能を低下させないことでこれに尽きるといいます。これは残りの2割の国民、すなわち万人に共通するとてもシンプルな助言です。拍子抜けしますが真実なのでしょう。

井上正康『きょうから始めるコロナワクチン解毒17の方法』(方丈社、2023年)でも、カテキンターメリック、納豆、食物繊維を摂るなど提言され、また、16時間断食をするなど、何かすごい打開策があるわけではなく、過去から一般論として提言されていたものが多いわけです。

そういう意味では体によいことを淡々と実践するだけなのですが、それができないのが現代社会なのかもしれません。ある意味このような簡単なことを実行させてくれない社会を強制的に修正するのがワクチン問題なのかもしれません。これからは働き過ぎない、勉強しすぎない、遊び過ぎない、運動もやり過ぎない、何ごともバランスが大事ということです。あるいは、権力、お金、地位や名誉などに対する欲望もほどほどにしましょうということでしょうか。

文藝春秋の記事は実家の母にも送りました。「コロナワクチンも色々わかって来ると恐ろしいですね。コロナも一度なったら免疫が出来ると良いのに… コロナにならない様気をつけないとネ。」とメッセージをくれました。内容は理解してくれたようですが、まだコロナは怖い病気と刷り込まれています。本当にコロナ問題の根は深い。だからこそ世の中を変える力があるのかもしれません。

今年から来年にかけてワクチン情勢も大きく変化するのでしょう。私もこれ以上パンデミックの残滓に時間を取られる余力もないので、自分の周囲や社会が希望が持てるようなことに微力ながら取り組ませてもらおうと思います。善悪の判断や裁きよりも、少しでも前に進める人生や社会を願いながら。

競争社会が正しいという幻想から降りる

ビジネスの世界も学術の世界も常に競争すると成果が出るようにいわれていますが、私はどちらの世界も徹底的に競争を回避してきました。その結果、どちらの世界でも満足のいく成果を出すことができました。

競争を回避するとは、競合の少ない分野をみつけてコツコツ継続するだけのことです。継続の先には、当該分野におけるダントツの一位が待っています。「一位」といっても競合がいないだけのことなのですが。私の結論は、もう競争社会から降りた方がいいということです。それでも競争が善だと思う人は続けたらよいと思いますが、その先にあるものは疲弊だと思います。

他社あるいは他者と比べるというのはベンチマークとして便利なのですが、そもそも自分の成果と他社あるいは他者とは何の関係もないはずです。自分のやった仕事や研究が、果たしてどれだけ人を支援できたかが重要で、利益が出たとか○○賞を受賞できたというようなことは、後から結果としてついてくるものです。

隙間分野を探してそこで専門性を高めれば、その情報や知識を必要とする人に頼られます。その後、自分がやりたいと思うことは、いろいろ実現しやすくなります。

たとえば、特定分野についてダントツの強みがあれば、やりたい仕事ができます。サラリーマンをやっていると人事異動でやりたくない仕事もさせられたり、そもそも仕事が与えられないというようなことも生じるわけですが、そのようなことがなくなります。

あるいは、学問の世界で研究成果を公表したいと思えば出版という形で情報発信もできるようになります。ダントツの分野があれば、世の中でその分野のテーマで書籍を執筆できる人がいないわけなので、自分がやらざるを得ないことになります。声をかければ手を挙げてくれる出版社も出てきますし、研究素材を提供してくれるサポーターも出てきます。

このようにニッチな分野でスペシャリストをめざしておけば、おおむねやりたいことが実現するようになります。競争をしなかったからこそ確保できた立ち位置で、自由に好きなことをさせてもらっていることに感謝できるし、その幸運をテコに周囲に尽くしていけば幸せも感じられるわけです。よって、私には競争を煽る人のことが理解できないのです。その先に幸せがあるとうは到底思えないからです。

知識やノウハウの面や立体をつくる

長女の大学受験のために読んでいた本で、興味深い記述に接しました。全国個人敏腕塾長会編『地方名門国公立大学合格バイブル』(コスモ21、2022年)によると、点の知識を点で終わらせないことが大切といいます。学んだ点と点をつなげることで線にすることが求められます。そして、その線を面にし、さらには立体にする。

たとえば、「イチゴ」を考えます。イチゴは甘い、で「イチゴ」と「甘い」が線でつながります。イチゴは赤い、で「イチゴ」と「赤い」が、また線でつながります。イチゴは果物で、「イチゴ」と果物が線でつながります。このように知識を線でつなげると、徐々に二次元的な面になってきます。

さらに深い知識で、イチゴは約90%が水分で約10%が糖質、日本で年間20万tの出荷量、糖度は冬季で10.3以上で春季で9.3以上などとなれば、かなり立体的な体系的知識へと変化していきます。

今までは点の知識を大量に蓄積してきましたが、それを線にし、面にし、立体にする技能を軽視してきたそうです。これからはより探求が重視され、総合的な思考能力が問われる時代だということです。

たしかに、そうなのでしょうね。丸暗記の時代は終わり、あるテーマについてどこまで深く考えめぐらせることができるのかが重要に。過去にはある問題で回答が得られなければ、そこで終わりでした。すなわち一つの点がわからなければ、そこから前には進めない。しかし今は、他の点を増やしていけば、いつかわからなかった点もわかるようになるので、落ち込むことはないということかもしれません。世界はいろいろなところでつながっているので、一つの点の不知について気にする必要はないのです。

私も論文を書いていると知識不足で筆が止まることがあります。ある一点で行き詰るということです。そんなとき、しばらく別の周辺テーマの調査を開始します。すなわち周辺分野で他の点を増やしてみる。そうすると、増やした点が行き詰まっていた点につながり線となり、さらに面となって立体を形成することがあります。その結果、論文の序論、本論、結論がきれいに流れるように構成される。不思議なものです。

また、高校数学を勉強しているのですが、数学Bの後半でつまずきました。でもしばらく放置して、数学Ⅱをやってみると、数学Bの公式の意味が理解できるということがありました。わからないこと、知らないことに執着せず、放置しておくことも必要ということを知りました。

何となくとりとめのない話になりましたが、これからの学びはわからないことがあってもいいということ。知らないことがあっても大丈夫ということ。子どもの大人も、追い詰められながら勉強する時代ではないということだと思います。のびのびと好きなことから学び、自分の中に知識やノウハウの面や立体を作ることが大切なのでしょう。

 

共著の校正ほど難しいものはない

現在、今年の夏頃に出版する共著の校正をしています。すべての執筆者には執筆要領を事前にお渡ししていますが、そのとおり書いてくれる人は少ないものだと理解しました。読んでくれてはいても、書きだすと自分の世界に入っていくものなのでしょう。

校正を専業にされている、大西寿男氏の『校正のこころ〔増補改訂第二版〕』(創元社、2021年)を読んで、自分の原稿を校正するときに有用なポイントをいくつか挙げてみたいと思います。

まず、原稿やゲラを繰り返し読むのは当然として、いろいろなシチュエーションで違った心身の状態で読み直すのが良いといいます。そうなんです。自分という一人の人間が何度読んでも見つけられないミスというのはどうしてもあります。一人で校正していると違う自分が欲しいと思いますが、時間や場所を変えるということで、少し違った自分を手に入れることができます。

また、文字に指先やペン先で触れながら確かめるということです。目だけで確認していると素通りすることなどいくらでも生じます。勝手に思い込みながら流さないためにも、赤ペンなどを使ってなぞることは有用です。

辞書を引く手間を惜しまないことも大切です。漢字の変換ミスなどもあるので、自分の知識や感覚をあてにしないことですね。さらに、データや事実関係は裏付けをとることも重要です。論文を書きなれている人であれば、この点は大丈夫でしょう。

紙に印刷して校正するというのもかなり重要です。モニター上では目が疲れるし、流し読みをしがちなようで、必ず見落しが生じます。

そして、共著に校正の難しさはどこまで本に統一感を持たせるかということだと思います。各著者の個性を潰さない程度の統一感ですが、さじ加減が検討つきません。各人には執筆要領を渡した以外は、自由に書いてくださいと伝えてあります。ただ、執筆要領に記載されている形式的要件すら忘れるもののようです。あえて無視する人はいないと思うので、執筆要領を一瞥するものの、その後は自分の世界に入ってしまうのだと思います。

大西氏によると表記やスタイルがバラバラのまま本を出版すると、たとえ内容や表現に誤りがなくても厳しい目を持った読者や批評家あるいは同業の出版社から、ろくに校正もせずに作った本と見なされてしまうといいます。一部の誤りのために、本全体の価値が損なわれることはないはずなのに。たしかに、私も読書をしながら日本語の誤り等をみつけると著者の実力を疑ってしまうことはあります。一部が全体の評価につながるというのは怖いものです。

結局、人間がやっている限り、間違いは生じます。校正というのは、本を完璧にするための作業ではなく、その間違いを可能な限り減らす業務と考えるしかないのだと思います。無理をしてもストレスがたまるだけです。時間切れということもあるでしょう。やれるだけはやった、という思いがあれば、あとは手放して本を世に出してしまうということなのでしょうね。

日本人にMBA教育が向いていない理由

経営管理修士号、すなわちMBAについて批判的な本はあるもののそれほど多くはありません。そこでめずらしく批判的にMBAを評価している本があったのでご紹介しておきます。ご自身が経営大学院の教員も経験された、遠藤功氏が『結論を言おう、日本人にMBAはいらない』(角川新書、2016年)で、辛辣な次の二点の指摘をみてみましょう。

①    日本企業はMBAの価値を認めていない
②    日本のMBAの質が低すぎる

①は、たしかにそうかもしれません。それは、日本企業の人事制度のおかげで、わが国においてMBA教育の必要性が明確に存在するとはいえない点にあると思います。

たとえば、ビジネススクールで学べる主な科目は、経営戦略、マーケティング、会計、ファイナンス、人的資源管理などがあります。しかし、日本企業であれば、経営戦略は経営企画部、マーケティングは営業部、会計は経理部、ファイナンスは財務部、人的資源管理は人事部などで身につくスキルです。

そして、日本企業の多くは人事異動でこれらの部署を経験する機会を与えてくれます。人によっては一通りすべての部署を経験した、などという人もいるかもしれませ。そのような人にとってはビジネススクールに行く意味が薄れるでしょう。

それでは、なぜ、アメリカではビジネススクールが必要なのか。その理由は私が外資系企業で働いた時に、海外の同僚をみて感じたことに見出せるかもしれません。すなわち、彼らがみなスペシャリストで、自分の専門領域における経験しかできていないという点です。いわゆる、多くの人材が「職人」なわけです。ですから会社の経営全体まで見ることができない。

おもしろいことに、アメリカ系の企業の職場では、各人のデスクがパーテーションで仕切られて、同僚が何をしているのかわからないことが多いようです。日本のようにデスクの島があり、みんなで仲良くという雰囲気がありません。とても象徴的ですが、アメリカでは職人であるために経営管理の知識や技術が不足し、それを補う意味でもMBAの必要性はあるということです。

②に関しては、日本とアメリカの高等教育の違いがあるので、私は当てはまらないと思っています。アメリカは学部教育で教養教育、すなわちリベラルアーツ教育があり、その次の専門職大学院があります。研究大学院もありますが、専門職大学院の伝統があります。

一方、日本では戦前からヨーロッパの高等教育を取り入れ、戦後にアメリカ型の教育制度も取り入れています。よって、ヨーロッパ型の学部教育の上にアメリカ型のプロフェショナル・スクールを乗せたことになります。日本の大学では学部レベルですでに専門教育が始まっておりアメリカとは違います。そして、アメリカ型の専門職大学院と従来型の研究大学院の二本立てになり、明らかに大学院教育に混乱が生じています。

これは文部科学省のミスリードだったと思うのですが、何でもアメリカを見習えばよいというものではありません。経営大学院や法科大学院、教員養成大学院が今一つ成果を出せていない点で結論が出ています。そういう意味ではMBAの質が低すぎるというよりは、アメリカの制度を模倣したために混乱が生じているというのが私の感想です。

リクルートはやはり凄かった: 内発的動機とは

株式会社リクルートの創業期のメンバーに大沢武志さんという方がいます。私も存じ上げなかったのですが、労政時報4061号(2023年)の特集「人的資本の可視化・情報開示への対応」の記事の中にリクルートの事例が出ており、大沢さんの言葉に接することができました。

「人は自律的に行動し、自分らしく生きたい(≒内発的動機)と思う生き物である。内発的動機に基づいて行動する時が最もパフォーマンスが高い」という考えのもと、「個をあるがままに生かす」というもの。

1935年生まれの方で2012年に77歳で亡くなっていますが、昭和の時代に活躍されていながら明らかに当時の一般的な考え方とは異なる発想であることがわかります。

当時は目標数字が決められ、マネジメント層が部下に対して徹底的に点検・追及して、数字をやり切るという時代だったと思います。あのような時代に内発的動機に基づく行動の結果、最も高いパフォーマンスを引き出すなどということをいわれていたわけで、おそらく時代は追いついていなかっただろうと思います。

時代を先取りした大沢さんの言葉は、これから誰もが目指すマネジメントになっていくのではないでしょうか。経営者は従業員を常に監視し働かせて結果を出すなどというのは、かなりナンセンスになってくるでしょう。むしろ100%信頼して任せていかなければならない。

経営者自身は、株主から経営を「委任」されて、自らの裁量で自由に経営することができているのに、従業員には雇用という奴隷制度でモニタリングを通じて労働を強いていたんでは、辻褄が合わないわけです。従業員も自律的に行動し、ある程度の裁量の中で自分らしく働くことが必要です。その時、結果は後からついてくることになります。生き生きと自分らしく楽しそうに働いている人のところには、数字も人もエネルギーも近寄ってきます。結果は必ず伴うものです。

リクルートという会社が凄いと思うのは、自信に満ち溢れているところだと思います。私が読んだ記事によると、会社自体を出入り自由で、リクルートの垣根を越えて協働・協創を生み出す場に進化させていくため、Co-Encounterという意味で『CO-EN』という概念も創ります。公園という意味もあるようですが、人が集まる場の意味があるそうです。

注目すべきは、「出入り自由」という点。自信がなければいえないわけですが、去っていくのも自由なわけです。多くの優秀な人材を輩出している組織として際立つ特徴だと思いました。経営者は従業員が活躍する場を確保するだけで、余計な管理やモニタリングには依存しない。そんな経営がリクルートの真骨頂なのだと理解いたしました。

作文の技術: 日本語というのは論理的だった

本や論文の執筆するようになってから、もっと若い頃に読んでおけばよかったと思った本があります。それが、本多勝一『新装版 日本語の作文技術』(講談社、2005年)です。文庫本も出ているので多くの方が参照されているのだと思います。『学び直しで「リモート博士」』(アメージング出版、2023年)でも必読書として紹介しました。

正直に言うと本多氏が提示している技術の8割以上、私は実践できていないと思うし、覚えきれてもいません。ただ、日本語というのはこんなにも論理的な言語なのかと気づかされ、その後の自分の執筆に大きな影響を与えたのだけは事実です。

日本人の中には、日本語に対する劣等感のようなものがあるのでしょうか。明治時代初代文部大臣になった森有礼は、日本語を廃止して英語を公用語にしようと提言しています。森有礼の孫でパリで日本語を教えていた哲学者の森有正も、日本語は文法的言語ではないといいながら、フランス人に日本語を教えていました。

文豪の志賀直哉が日本語は不完全で不便なので日本語を廃止し、世界で一番美しい言語であるフランス語を国語とすべきと主張しました。しかも、志賀自身はフランス語が読めたわけでも話せたわけでもないようですが、フランス文学に共感を抱いていたのかフランス語を国語とすべきとしていました。

しかし、この本多氏の本を読めば、日本語は論理的で文法的な言語であることを痛感します。話し言葉として曖昧な表現は日常的に使用されますが、書き言葉としてはそうはいかないということです。いくつかわかりやすい例を挙げてみましょう。

たとえば、修飾語において「白い横線の引かれた厚手の紙」だと、「白い横線」の引かれた紙、つまり横線が白いことになってしまいます。では反対にすると「厚手の横線の引かれた白い紙」となり、横線が厚手であるとも読めます。残された並べ方は次のとおりです。

①白い厚手の横線の引かれた紙
②厚手の白い横線の引かれた紙
③横線の引かれた白い厚手の紙
④横線の引かれた厚手の白い紙

この中で誤解を招きやすいのが①②で③④なら誤解は生じません。「横線の引かれた」という節(クローズ)が先で、「白い」「厚手の」の句(フレーズ)が後にくる。よって、「句よりも節を先に」とルール化します。

また、修飾語に節が続く場合はどうでしょう。「長い修飾語を前に、短い修飾語は後」にといいます。

①明日はたぶん大雨になるのではないかと私は思った。
②私は明日はたぶん大雨になるのではないかと思った。

直感的に①のほうがイライラすることなく読めます。「主語と述語を近くすべし」という原則もいわれますが、「修飾する側とされる側の距離を近くせよ」というのが原則だそうです。次の文はどうでしょう。

①明日は雨だとこの地方の自然に長くなじんできた私は直感した。
②この地方の自然に長くなじんできた私は明日は雨だと直感した。

明らかに②のほうがわかりやすいです。日本語において主語・述語の関係を考慮して作文をするのは百害あって一利なしで、ヨーロッパ言語の発想だそうです。

そして、テン(読点)の打ち方もいろいろルールがありました。気分で打ってはいけないということです。

「私をつかまえて来て、拷問にかけたときの連中の一人である、特高警察のミンが、大声でいった。」(『世界』1975年6月号105頁)。

この文章に3つの点がありますが、すべてなくても問題なく、2番目の点(・・・一人である、特高・・・)に至ってはテンを打ってはいけないことになります。実際に修正してみるとわかります。

「私をつかまえて来て拷問にかけたときの連中の一人である特高警察のミンが大声でいった。」

このように何の不都合なく読めます。次の例文はどうでしょう。

「本当の裁判所で裁判を一度も受けたこともないのに十五年もあるいはそれ以上も投獄されているという、年配の男の人や女の人に何人もあうことができた。」(同109頁)。

この文章では、「投獄されているという」の後に仮にマル(句点)がきても「投獄されているという。」となり語尾がかわりません。よって、マルと誤解されないようにテンを打ってはいけないところとなります。もしテンを打つとするなら「十五年も」の前であり、修正後の文は次のとおりです。

「本当の裁判所で裁判を一度も受けたこともないのに、十五年もあるいはそれ以上も投獄されているという年配の男の人や女の人に何人もあうことができた。」

このような感じで本多氏はテンの打ち方の複数のルールを提示してくれます。おそらく、本多氏にかかれば、私の論文など赤字だらけになるだろうということだけは理解できました。

すべての原則を自分のものにできていませんが、自分が日本語と向き合うときの姿勢は大きく変わりました。そして、少なくとも私が接してきた編集者や校正者のうち、2名の方が「私も傍らに置いて参照しています」といっていましたのでそれなりに影響力のある本なのだと思います。もう一度、読み直したいと思う本の一冊です。