職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

資本主義: 勝ち組が負け組から収奪しているだけ

森永卓郎『投資依存症』(フォレスト出版、2024年)で再確認できたことに、資本主義は、しょせん強者が弱者から収奪して利益を出しているように見えるという点です。経済アナリストの藤原直哉氏も「詐欺の寸止め」という表現をしていました。詐欺になると刑事責任(刑法246条)を問われるが、そのギリギリのところでビジネスが展開していくというわけです。

もっともわかりやすい例では、完成品メーカーが部品メーカーに購入価格を下げたいと通達してきます。下げられないのであれば他社に行くことになるということで、部品メーカーは価格を下げます。完成品メーカーはそのおかげで利益が出ますが、下請けの部品メーカーは損失が出ることになります。

業界全体では利益が出ていないものの、一部の完成品メーカーが下請けから収奪することで儲けることができることに。そして、おおむねこのような収奪で利益を出せる大企業の株価が堅調で、投資信託も順調に利益を出してくれることにるわけです。

世の中では「勝ち組」だとか「負け組」といって喜んでいる人もいますが、このような詐欺的行為の上に自分たちの報酬が成り立っていることを認識したほうがよいと思います。そのことを理解したら、自分たちは勝ち組だなどと軽はずみなことはいえないくなります。

そして、その勝ち組といわれる人たちも最近は笑えないほど搾取されていることに気がつき始めているのではないでしょうか。大企業に勤務し、世間一般からみれば恵まれているように思われる人々でも、どうも生活が向上しないからです。とにかく可処分所得が増えないわけです。結局、勝ち組だと笑っていた人たちも収奪される側だからです。

2023年度トヨタ有価証券報告書によると社員の年間平均給与は約800万円です。そして、会長の報酬は約10億円です。一人の人間の能力にそれだけの差が生じるものでしょうか。しかし、このようなことはトヨタのみならず、日本の多くの大企業で生じていることです。

さらに大事なことは、この大企業の経営者の上には、さらに資本家がいて、収奪の仕組みを使って儲けている人たちがいるということです。森永氏によると投資はゼロサムゲームで、勝った人の分だけ、負けた人が生まれるといいます。勝ち組が負け組から収奪してるだけの搾取の構図が資本主義の本質なわけです。このような詐欺がいつまでも続くと思う方がおかしいのかもしれません。

森永氏は、バブルが崩壊し資本主義が終わるといいます。しかし、多くの人は資本主義が続くと信じるので投資をやめません。でも冷静に考えると、資本主義の前の封建主義も収奪の仕組みで終わりました。

そして、少し格好良さそうでまともな資本主義が産業革命以降に始まりましたが、結局は収奪の仕組みであることに変わりなく、このまま終わってもおかしくありません。なぜ、資本主義が未来永劫存続すると信じることができるのでしょうか。森永氏はその点に危機感を感じているのだと思います。

「投資依存症」からの脱却は資本主義の否定から

森永卓郎『投資依存症』(フォレスト出版、2024年)を拝読しました。投資で資産を増やせると思っている人にとっては耳が痛い内容です。ポイントは、バブルが崩壊し、資本主義が終わるので、長期分散投資もこれからは意味がないということのようです。もちろん、今までは意味があったことなので、資本主義が終わると確信が持てない人にはメッセージは伝わらないことでしょう。

本書の評価は間違いなく割れると思います。私は読んではいませんが、前作の『書いてはいけない』(フォレスト出版、2024年)であれば、読者は日本政府や日本航空を非難していればよい。前々作の『ザイム真理教』(フォレスト出版、2023年)であれば、財務省を非難していればよい。他人事です。しかし本書は投資依存症の自分自身に対する批判になるので、多くの読者は不愉快になるのかもしれません。

よって評価が割れるか、資本主義を信じて投資をしている多数派の人たちからの低い評価を下されるのではないでしょうか。その点、バブルが崩壊し、資本主義が終わるという森永氏の見解は傾聴に値するし、そのとおりになるかどうかはわからないものの、永遠に資本主義システムが維持できるなど長い歴史から考えればあり得ないことだと思います。

しかし、普通に情報を収集し、過去に積み上げられた知識と経験からするなら、バブルが崩壊し、その後資本主義は終わって株価は戻らないなどという見解に至る人はかなり少数派だと思います。長期分散投資投資信託をやるときの鉄則だったわけで、そのルールに従うのなら、とにかく我慢して長期保有を維持することになります。

森永氏の意見に対して、そういうこともあるかもしれない、と思える姿勢を取れる人はどれだけいるでしょう。すなわち、資本主義が終わるということを受け入れることができる人は少数派だとすれば、やはりこの本の評価は低いままではないかと思いました。

コロナ禍を境にしてみる世界の働き方

先日、外資系企業の役員をされた経歴のある知人にお会いし、そのお父様が執筆された書籍を恵贈いただきました。得平文雄『外資系で成功する人しない人』(中経出版、1998年)という本で、損保業界では著名な方でした。

本の巻頭には、日本マクドナルドの社長だった藤田田氏の記述もあり興味深いです。そこには、本当に優秀な日本人は外資系に入ってこない。多くが、いわゆる「英語屋」的な存在で、意思伝達の道具である英語力に目を奪われ、専門性が二の次になっているという指摘がありました。

たしかに、そのとおりで、日本では専門性と英語力の両方を持ち合わせている人材をみつけるのは難しい傾向にあります。おおむね専門性の高い人は英語が苦手で、英語力のある人は専門性がないというのは外資系によくみられる光景で納得しました。

一方で、外資系に求められる人材は、がんばらなくてもいいから、結果を出してくれる人、という厳しい現実です。たしかに、深夜まで残業をしてがんばっている姿を見せるよりも、結果を出してくれる人が望まれる世界が外資でしょう。しかし、日本企業でも同じことはいえます。特に今は結果を求められるので、この点は外資と日本企業で違いはなくなってきたことでしょう。

また、経営者は従業員よりもより多くの報酬をもらっているのだから、より多く働き、誰よりも早くオフィスに来て働き、誰よりも遅くまで働くということのようです。しかし、これも昨今の生産性を求める働き方からすると、従業員が早く帰れるように、経営者もとっとと帰宅して、帰りやすい雰囲気づくりも大切な時代になりました。

このようにしてみると、本書が書かれた1990年代と今はかなり違ってきているように思います。特にパンデミックの前と後では明らかに変わりました。ど根性だとか、体育会系のノリの営業力、あるいは体を張って勝負するビジネスマン等は減っているし、そんなことで成果を出せる時代でもなくなりました。

書籍は2000年より前の時代の内容で興味深いし、同意できる部分はあるものの、令和の時代の働き方を考えると、すべて当てはめることができるものではないというものだと思います。時代は変わってきています。これから速度を増して変化していくでしょう。無理なことはせずに時代の波に乗りながら前進していくのがよいと思います。

また、ど根性やガンバリズムがまだ通用すると思っている人はそれでよいと思いますが、自分でそういう時代ではないと思うのであれば、無理に合わせることはないでしょう。自分のペースで自分の気持ちに従いながらキャリアを考え働くことが大切だと思います。

表現の自由を奪うポリティカル・コレクトネス

清水晶子ほか『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』(有斐閣、2022年)を読んでみましたが、結局、ポリティカル・コレクトネス(以下「ポリコレ」)やキャンセル・カルチャーについてほとんど理解できませんでした。この分野を研究している人たちは、答えのない問題を必死に解いているような状況ではないかという感想を私自身は持ちました。

様々な表現や発言に「社会的な望ましさ」を求めて解を探すわけですが、そんなものは存在しない、と言われたらそれまでです。いろいろ理屈を付けて論理的に議論を展開しているのはわかるのですが、かなり虚しさを感じます。

そもそも社会的な望ましさや、正しさでも何でもいいですが、時と場所が変われば、その望ましさも正しさも変わります。少なくともこの地球上に世界標準など存在しないので、探すだけ時間の無駄なようにも思います。正しさを求め、それに合致していない表現や発言を誤りだと決めつけることの方が危険ではないかとさえ思えました。

仏教の国、キリスト教の国、イスラーム教の国、ヒンドゥー教の国、それぞれ正しさがあり、単に違うだけです。望ましさや正しさを求めるなら、違いを認識し受け入れる方がはるかに建設的で楽ではないかと思いました。また、古代・中世・近世・現代で正しさなど大きく変化してきたと思います。変幻自在といっていいでしょう。

本書を執筆された執筆者は、構造的問題だとか、社会モデルだ個人モデルだなどと、いろいろな概念を持ち出して、ポリコレを説明しようとします。また、社会学の基本を学んでから議論に参加するべき、などと上から目線の発言もみられます。

結局、私たちは自分が見えている限られた世界をもとにしか語れないわけで、この本の中で展開される議論がどこまで現実社会を豊かにしてくれるか疑問に感じたわけです。あまりネガティブな感想ばかりでもいけませんが、それだけ学問として構築するのは困難なテーマなのでしょう。だからこそ、そこに挑戦する執筆者の努力には敬意を表するわけですが。

いずれにしろ私が警戒しなければならないと思うポイントは、ポリコレやキャンセル・カルチャーが表現の自由を奪うための道具になりかねないということです。そちらの方が、社会的な望ましさ云々以上に危険な香りがいたします。

資本主義の終わりから相互扶助経済へ

バブルが崩壊し、資本主義が終焉を迎えた先に何があるのでしょうか。そもそもそうなるかも確かではありませんが、そちらの方向に向かうと考えてもいいように思います。そして、資本主義ではない世界を想像するのは難しいですが、私たちの生活がある日突然なくなるわけでもなく、何の変哲もない日常は続くのでしょう。

私が今考える資本主義の次の社会は、相互扶助経済や等価値交換経済という概念で整理しています。お互いが不足するモノやサービスを提供し合い、それでバランスが取れている社会です。その理念型社会が到来するのは、千年後かもしれません。でも世の中は今からそちらの方向に進むと考え、自分の生き方もそれに沿って変容させています。

ここではどちらの用語が良いかわからないので、一般的にわかりやすい「相互扶助経済」という表現に統一しておきましょう。このシステムの中では、ある人からモノやサービスを購入したとしてもお金を支払いません。

ただし無償というわけではなく、いつか相手が必要としているモノやサービスを提供します。よって、相互扶助経済の中では、お互いやモノやサービスをお金という機能を通さず融通し合って、トータルで貸し借りがなくなる状態で安定します。

そのようなことが実現可能でしょうか。今の資本主義であれば不可能です。情報の非対称性を利用し、詐欺のギリギリのところで金儲けをする世界では無理です。あらゆる取引に透明性がないので、相手がどれだけ儲けて、自分がどれだけ損したかもよくわかりません。

しかし、ブロックチェーンの技術などが発達し、あらゆる取引が透明になり、すべて見える世界になればお互いの貸し借りが明らかになり、お金を介さない取引が可能になるでしょう。誰に借りがあり、誰に貸しがあるのかわかれば、お互い貸し借りをなくそうと経済活動をするようになるからです。

私は経済学については門外漢です。ここで記述した内容も学術的根拠があるわけでもありません。でもこの資本主義の行き詰まり感や限界を観察していると、資本主義の次の世界が相互扶助経済へと移行していくのではないかと思うわけです。

よって、人に提供できる特技を磨くというのは大事なことであります。人から欲しいと思われるサービスを提供できる。嘘や騙しは一切なく、自分の技能を正当に評価してもらって購入してもらうということです。

今はお金を支払ってもらう必要があるのでしょうが、千年後は100%理念型で、お金を介さず自分の職人技を提供することになります。その点、相互扶助経済では「誠実である」ということも重要な要素になるのでしょう。自分のことをごまかし続けて技能を買い続けてもらうことはできないからです。

共著の執筆者を募集中: 社会人大学院

2025年の共著に関する出版企画を掲載いたしました。先月、1冊目も無事に発売完了し、これから2冊目です。リンクをご参照ください。

『なぜ社会人大学院で学ぶのかⅡ』2025年出版企画 CAMPFIREコミュニティ

自分の中に強い達成感や使命感はありません。やり始めたので、そのまま続けるということなのですが、1冊目の執筆者の方々の満足度も高いようですし、事前に緻密な打ち合わせや企画会議等はしていないにもかかわらず、ちょうどよい感じに仕上がりました。

執筆者の方々を厳選したわけでもなく、集まった人たちがそれぞれ書いたというだけなのですが、バランスが取れました。とても運がよかったともいえますし、それぞれよいメンバーを引き寄せたのかもしれません。

2冊目も同じ段取りで進めていきます。ぜひご興味のある方は、コミュニティに参加し、執筆者になっていただければ幸いです。といっても、社会人大学院というニッチなテーマで、そんなに対象者がいるわけではないと思います。

リカレント教育にも様々な手段がありますが、その中の一つとして社会人大学院も選択肢としてあるということに、多くの方が気づいていただければよいと思っています。

右脳の時代というのは古代に戻ること

これからは右脳の時代ということを理解できる記述に出くわしました。最近、行き詰まり感のあった自分にとっては、一つの道筋を示すくらいに腑に落ちる内容でした。

まず右脳を使うとはどういうことでしょうか。古代の人間を想像するに、森の中あるいはジャングルを歩くとき、なるべく音を立てないで進むでしょう。血に飢えた天敵がいっぱいいるわけなので。こうしている間にも風が自分の匂いを運んでいるかもしれません。

自分は全身の皮膚感覚で大気を感じ、風を感じます。耳から聞こえるあらゆる音に注意を向けます。油断なく周囲を見回し、息を殺して前に進みます。

集中力が高まるにつれ、不思議と恐怖を感じません。これは右脳が恐怖を抑える脳内物質を出しているからだそうです。恐怖に負けて走り出すと確実に襲われ死が待っています。

このとき、頭の中に言葉や思考はありません。命がかかっていて一瞬も気を抜けない状況において思考は邪魔なだけだからです。右脳が左脳の機能を抑えつけて活動させず、思考が消えている状態です。やがて自分の「個」という感覚が消えていきます。

全身の感覚に集中しながら進んでいると不思議な感覚が起こります。視野が広がり、自分という感覚が皮膚を超えて、森あるいはジャングルに広がり一体化します。そこにいる猛獣を含む他の生命も同じように感じ取ります。自分も生命であり、猛獣も生命であるものの、それはもう自分だけの分離した生命ではないということのようです。

そしていつの間にか自分は今日は死なないことを悟ります。代わりにいくつかの生命が猛獣に命を取られており、全体として地球上の生命は維持されています。

つまり右脳の時代というのは太古の人類に戻ることなのです。現代社会のように物理的な安全を確保され、資本主義というルールの中で競争をさせられている現代人は、左脳を酷使しながら生きていきます。

しかし、それも極限状態まできているのだと思います。もう限界なので、右脳の世界に回帰する必要があるのです。あれこれ理屈で考え悩み、ムダな思考で頭を満たしても幸せになれないことはわかってきました。

少なくとも私は理論の世界を追求してみたけれども、それが幸せと直結していないということに確信が持てます。思考を止める、思考を消す、という意味がわかっていませんでしたが、思考を止めて右脳で感じる直観を信じ、それに従う生き方をしていかなければならない時期だということです。

そして、その右脳はどこにあるのかというと逆説的ですが、脳ではなく体の真ん中あたり、あるいはハートのあたりとでもいいましょうか、頭ではない身体のあたりにあるようです。腑に落ちる、腹落ちする、腹を決めるなど、日本語で使いますが、頭ではなく腹のあたりに直観を感じ取る部分があるのかもしれません。

将来のキャリア、経済、投資、病気、戦争、災害等、あらゆる難題を自分の左脳を使い、理論的に解釈しよう、あるいは予想しようという試みは、ことごとく失敗します。理論には限界があるので、そんなことは明らかです。だから古代の人類のような直観に従う生き方、あるいは真実の情報をある次元からダウンロードするような方法を使って生きることが大切なのだと思います。

ただし、生まれてから今まで、徹底的に頭を使って考えろ、という教育を受けてきた私たちにとっては、左脳の逆襲は何度も来ます。理論の世界に引き戻されます。そのたびに、ハートで直観を得るための作業が必要になるのかもしれません。

私が腹落ちしたこの考えですが、ネドじゅん『左脳さん、右脳さん。』(ナチュラルスピリット、2023年)という書籍から得ました。呼吸法に詳しい近所の町医者がYouTubeで紹介していました。

その時は、そんなものかと聞き流しましたが、先日普段はいかない本屋で偶然見つけました。その日は購入しなかったのですが、どうしても気になって翌日購入したというものです。これなども理由はわからないけれども、自分の衝動に従ったおかげで得られた人生のヒントといえるでしょう。