職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

お父さんは YouTuber 第3弾:出版記念座談会

共著『なぜ社会人大学院で学ぶのかⅠ』(アメージング出版、2024年)の発売記念として座談会が開催されました。

社会人が大学院に行く意義と魅力をお伝えします!『なぜ社会人大学院で学ぶのかⅠ』発刊記念著者座談会、開催しました! - YouTube

企画会議から約半年で出版できたのは、やはり「数の力」。10名の執筆者の方には感謝しかありません。

そして、来年に向けて2冊目の準備に入り、すでに関西で打ち合わせを済ませてきました。非常に順調ではありますが、それでビジネスとし儲かっているわけではありません。むしろお金は失うばかりです。

しかし、それ以上に人とのつながりができたのは収穫でした。自分と違う世界の人と本を出版し、その後ネットワークとして意見交換も続きます。自分の見えていない世界も見えてきたということで、私にとっては価値がありました。

今後の展開はまったく未定です。とにかく成り行きに任せます。おそらく、社会人大学院のテーマで3冊出せば、それなりの第一人者です。世の中に多くはないから、それこそニッチです。お金になるならないは別です。

結局、私にとって嬉しかったのは、参加してくれた皆さんが本の出版を喜んでくれたことです。素直にそれが成果だったといえます。本を出せるといことに実は価値がある。それが一番でした。

その本はこちらか入手できます。ご興味があれば意外な出来栄えを感じ取っていただければ幸いです。

Amazon.co.jp: なぜ社会人大学院で学ぶのか Ⅰ  ー人生100年時代の学び直しー : 山越誠司, 藤本研一, 働きながら社会人大学院で学ぶ研究会: 本

科学が発達しても未来予測はできない

「ブラジルで一匹の蝶が羽ばたくと、テキサスで竜巻が起こる」というのは、バタフライ効果といわれます。アメリカのエドワード・ローレンツという数学者で気象学者がいった言葉ですが、数学的な説明は難解なので省略いたします。

それを簡単に説明すると、方程式を解いても答えが決められないということを説いた言葉でした。なぜ答えが決められないかというと、最終的な計算結果が方程式に代入する初期値に大きく依存するからです。最近の例であれば、コロナ対策をしなければ40万人死亡するという大外れの予測を出した大学教授がいましたが、あれなども典型的なバタフライ効果の事例ではないでしょうか。

地球上のどこかで羽ばたく蝶や動きをすべて把握すのが不可能なのと同じように、温度や対流の強さなど初期値を完全に知ることはできません。小さな初期値の差異で計算結果が大きく変わるので、未来の予想は不可能ということです。今の技術では現実的に不可能なのではなく、原理的に未来予測は不可能ということになります。

そして、現実の世界は「カオス」なわけです。カオスな世界ではXとYの因果関係等は明確ではありません。ブラジルで羽ばたく蝶のような現象が無数に存在するのがこの世です。ですから未来の予想など当たるはずがない。自分の未来に不安を感じても仕方がないとも解釈できますね。そう考えると気楽になります。

「○○の成功法則」とかのタイトルで本が出版されることもありますが、カオスの世界では万人に当てはまる成功法則は存在しないことになります。同じような努力をしたのにもかかわらず成功していない、と文句をいっても始まらないわけです。大小様々な要素が人の成功に影響しているわけです、そのような要素をすべて忠実に再現するのは不可能なわけです。

そして、酒井敏『京大的アホがなぜ必要か』(集英社新書、2019年)によると、カオスの世界において、この因果には偶然の要素も含まれることがあるといいます。酒井氏は著名な地球流体力学の専門家です。私にしてみれば、そのような生粋の科学者が、最後は「結果オーライ」なので、適当にアホなこともしておきなさいといってくれるのは大変嬉しい限りなわけです。

何でも頑張れば報われるわけでもなく、頑張っていなくても偶然の要素のおかげで成功する、あるいは生き残れることもあるわけです。この世界は生存競争で必死にならざるを得ないようにみえます。でも適当にアホで無駄なことをしていても、成功することはあるということでしょう。このことを知ってから、生きることが少し楽になった気がします。

自治会のあり方の再検討は断念

自治会の副会長を期中で辞任しました。以下の資料が握りつぶされたので、これ以上かかわる必要はないと判断しました。私は平成になってから社会人になっており、もちろん自治会の重鎮は昭和に活躍された方々です。それはそれは深い溝です。会議中には説教され、怒鳴られ、以下の書面の最後にある「切り札は離脱」となりました。こんなに早く切り札を使うとは思いませんでした。

                     2024年7月8日

自治会のあり方の再検討

山越誠司

1.自治会は任意団体である

  • 自治体が本来果たすべき責任が果たされておらず、行政が自治会に下請けさせている事業が多い。
  • 防災・防犯・ゴミ収集は自治体が担う責任があり、自治会が住民に対して責任を負うことができない。
  • 市町村など地方の公共部門のリストラにより、「緑のおばさん」という学童養護員も廃止された。
  • 最高裁の判決で自治会は権利能力のない社団であり、強制加入団体でもないとされる(最決平成17年4月26日集民216号639頁)。

2.自治会は防災で機能しない

  • 内閣府の『平成26年版 防災白書』によると、データ①として阪神・淡路大震災の救助主体は次のとおり、「近隣住民等1%」「消防・警察・自衛隊等22.9%」となっており、データ②として生き埋めや閉じ込め等からの救助主体では、「自力34.9%」「家族31.9%」「友人・隣人28.1%」となっている。救助主体は自治会ではなく自分や家族である。
  • ある市において台風時に避難指示が出ているにもかかわらず、5つの自治会で会長が公民会において情報収集や状況確認等を指示しおり逃げ遅れている。しかも決壊するかもしれない川に様子を見に行かせたり、家にいるように命じたりしている。

3.連合体の勘違い

  • 民生委員・国勢調査の調査員などの推薦を自治会に依頼する場合、連合会から強迫じみた電話があった。「あなたのところだけ決まっていない」「民生委員がいないと、団地から孤独死が出るよ」等。
  • 民生委員を選ぶ法律上の責任は、大臣、知事、推薦会で自治会ではない。
  • 連合体は各自治会の連絡調整事務係であるのに、自治会の上部組織として行政が便利に使っているケースがある。

4.新しい任意参加の自治

  • 自治会を廃止し、無理な動員はかけずに、やりたい人が実行委員となって参加したい人が参加する、新しいミニ自治会を立ち上げた。
  • 夏祭りと防災を一緒に開催して「おまとめ事業」とし、夏祭りの代わりにバーベキュー大会とした。また回覧板を廃止している。
  • 自治会において発言し、それでも変わらなければ、切り札は離脱。

参考文献: 紙屋高雪『どこまでやるか、町内会』(ポプラ新書、2017年)。

「選択と集中」は間違っていたかもしれない

最近、酒井敏氏の考えに共感しています。酒井氏の『京大的アホがなぜ必要か』(集英社新書、2019年)によれば、学術の世界でもビジネスの世界でも「選択と集中」は誤りではないかといいます。カオス理論によるとこの世の中の事象は予測不可能で、どんなにコンピューターが発達しても長期的な天気予報でさえ正しい答えを出せないといいます。

私たちは常に物事を原因と結果で考えます。しかし偶然のなせる技が非常に多いのがこの世なのだそうです。ですから戦略的に特定分野に経営資源を配分するビジネスでも、その分野が成長しなかった場合に、次の手が打てなくなります。だから「選択と集中」などせずに、分散させておいた方がよいということのようです。

学術に世界も既存の分野を深く研究していく「選択と集中」型と、一発逆転ホームランが出るような分散型の研究があるそうです。どちらも必要にもかかわらず、文部科学省は「選択と集中」という戦略をとってしまいました。その結果、手っ取り早い研究で成果を出し、論文を何本も出していくことがよいということになり、大胆な研究や突飛な着想のユニークな研究がなくなってしまいました。

私自身も専門職人材になるために、特定分野に集中して、自分の力を注いできました。その結果、仕事でも研究でも一定の成果を出せたと思っていますが、結局イノベーションといえるような大きな成果は出せていないと思います。もっと発散型でいろんなことに手を出して、まったく関連性がない取組みが、どこかでつながりイノベーションを起こすようなことをしておけばよかったのかもしれません。ですから、本記事のタイトルを「間違っていたかもしれない」としているわけです。

よって後悔しないように、今は何の役に立つかもわからない勉強や仕事上の取組みもするようにしています。人脈も役に立つ立たないで判断することなく、とりあえずご縁があればお会いしておくというように、あまり戦略的なことは考えないようにしています。そうすることで気楽になるし、何か化学反応が起きてイノベーションが期待できるかもしれないとワクワクできるので、精神的にもとても安定します。

生産性や効率性を意識してばかりの人生では疲れます。一度しかない人生、多くの無駄と余計なことをしながら、自分の中に起きるイノベーションを期待しつつ生きていこうと思います。酒井氏のような優秀な研究者が、結局未来なんてわからないんだ、といってくれていることは、私たち凡人にとってはとても安心できる材料だと思います。

昭和の重たい時代には戻らない

この写真の方は、長崎県高島炭鉱労働組合書記長です。1986年に閉山しておりますが、最後の書記長ということです。彼は残務整理を終え、北海道の仲間と会った後、雲仙にて自らの命を絶ちました。彼にとっては仕事が全人生だったのでしょう。

実はこの写真の出所は、鵜沼享『REMEMBER TAKASHIMA』(忘羊社、2015年)の1ページになります。軍艦島へクルーズ船に乗って上陸した後、株式会社ユニバーサルワーカーズが運営する軍艦島デジタルミュージアムで見つけてものです。その場で購入することはなかったのですが、買いそびれたと自宅に戻ってから後悔し、その後同社に連絡して取り寄せ購入いたしました。それぐらい私にはインパクトがあったということです。

私は昭和の時代に働いたことがありません。1993年に社会人になった時はすでに平成です。ですから昭和時代の働き方を知らないといっていいでしょう。昭和天皇崩御した時は、大学3年生でした。ですから平成の働き方しか知らないということです。

しかし、私の20代では昭和の働き方は強く残っており、上司や先輩は明らかに昭和の価値観で生きていたと思います。長時間労働がある意味で格好良く、上司に気に入られるための必須要素です。また私はやりませんでしたが、休日のゴルフやマージャンなども重要な要素だったのではないでしょうか。今考えると残された家族がよく我慢していたと思います。それでよく働いたと悦に浸っていた印象です。

ある時、上司が飲みに行こうということでみんなを誘ってくれました。そしてオフィスを出て飲み屋街に向かう時に、同業他社のオフィスの電気が煌々とついていました。そして上司が一言、「今日は負けたな、、、」といいました。何を競っていたのでしょうか。まったく理解不能です。私でついていけないと思うのですから、私より若い世代はもっと理解できない一言でしょう。

話を元に戻しますが、高島炭鉱労働組合の書記長も、今であればいくらでも選択肢があり、自殺に追い込まれることもなかったかもしれません。転職のためのリクルーターが、寄って集って彼に次の仕事を提案したと思います。そう考えると単線のキャリアしか考えられなかった昭和に比べれば、令和はあらゆる可能性が広がっているといえます。もう昭和のサラリーマン奴隷制には戻らないことだけは確かでしょう。

大学の校友会に参加して得た気づき

めずらしく、学士課程と修士課程で在籍していた大学の校友会に参加してみました。実は、自分が20代の頃に一度だけ参加し、その参加者の年齢層の高さに圧倒され、その後参加することはありませんでした。

しかし、55歳になったいま、さすがにそのような違和感はないのかと思い参加してみましたが、引き続き自分は若手の上位10%には入っている様子。明らかに校友会というのは、リタイヤした高齢者のたまり場なのだと思いました。来月は博士課程で在籍していた大学の校友会なので比較するのも興味深いでしょう。

校友会に参加してみようと思ったきっかけは町内会の役員を務めることになり、そこも高齢者のたまり場で、まったく自分の知らない世界を発見できたからなのですが、約30年ぶりに参加した校友会でもいろいろと発見がありました。

私が在籍していた私立大学は、少子化の中にあって比較的経営がうまくいっています。ただし、昨年あることがきっかけで自分の子どもには進学させたくない教育機関だと思う出来事がありました。

それは、図書館を利用しようと思い、大学のキャンパスを訪問したところ、警備員に呼び止められて入れてもらえませんでした。その後、わざわざ警備室の前で記帳させられ、やっと構内に入ることが許されたました。パンデミックはとっくに終息していたにもかかわらずです。

聞くところによるとセキュリティの問題だということ。このような大学の姿勢は管理強化につながり、学問の自由や言論の自由などを奪う端緒となり得ます。実際に数年前に学生がある教授を批判する立て看板を出したところ、大学側に強制的に撤去され、身柄を拘束されるという事件が起きています。

大学の管理強化が学問の自由に危機をもたらす件は、拙著『学び直しで「リモート博士」』(アメージング出版、2023年)の後半でも論じましたので、ここでは割愛しますが、自由を奪う組織は、大学であろうが企業であろうが、長期的な発展は望めないと思っています。そういこともあり、3人の子どもの進学先としては勧められないとそこはかとなく思っていました。

そして今回、何人かの方とお話して、このような管理強化の流れができているのは十分過ぎるほど理解できました。法人としてはコスト削減を進め、学長やその他要職は、法人の言いなりになる人を選出する体制を整える。そうして、財務諸表上は立派な経営をしていますという発信するすることで、大学のガバナンスが利いているように見せかけるのでしょう。

たしかに、私が在学している頃、著名な政治家が経営に参画しており、その後、政治屋や役人が組織に入ってくる流れができたのかもしれません。文部科学省とのパイプもできれば各種の財政的な支援も得やすいことでしょう。しかし、今の経営がうまくいっているようにみえても、将来もうまくいくとは限りません。政府への依存は、大学の自治が奪われることになるし、カネの切れ目が縁の切れ目で、無い袖は振れない時代も来るかもしれません。

結局、割りを食うのは学生や教員たちです。法人が作った鳥かごの中で育った彼らが大物になることはありません。指示待ちの兵隊をいくら量産してもこれからの時代に活躍の場はないわけです。大手企業に何人就職させましたというのも立派な実績なのでしょうが、自分で事業を始めて成功しましたということの方が大切な指標になる時代でしょう。

そういう意味で、私立大学といえども公金が入っているわけなので、開かれた大学というのであれば、物理的にも開けれているべきなのです。大学の内部はカオスで一見無秩序であるぐらいがイノベーションも起きやすいことでしょう。

私が発言したところで何も変わるわけではありませんが、一卒業生として校友会に参加して得た気づきを述べました。ただそれだけですが、大学のガバナンスとはそういことだと思います。多くのステークホルダーによるモニタリングによって統治されるものだと。

ちなみに、開示資料によると当該大学理事長の年俸は1,850万円です。3名の常務理事は1,700万円。学生たちは自分の親が支払っている学費を考え、彼らがそれに見合う働きをしているのか評価していくべきでしょう。当然親も。

保険法研究者という可能性は私にはない

榊󠄀素寛「企画の趣旨、保険法研究者のキャリア・パス、そして保険法研究の概要」損害保険研究86巻1号に接しました。博士課程時代の指導教授ですが、興味深い視点で若い学生を保険法研究者に誘う内容になっていました。

そもそも保険法研究者とはどんな人でしょうか。むかしは商法の一部に保険法がありましたが、今は独立して「保険法」という法律が存在しています。そして簡単にいうと保険会社と保険契約者の間の契約を規律する法律ということになります。その保険契約を研究する人が保険法研究者といえるでしょう。また、保険契約は契約といっても保険約款という特殊な契約になります。

また、保険業法というのもあり、監督官庁が保険会社を規制する法律でこれも保険法の中に含めることができますので、保険業法も含めて研究していることが多いと思います。

実は私も保険法が専門でありながら、学部の学生時代に保険法の講義を受講していません。専任の教員はいましたが興味がなかったので受講していないのです。大学院の修士課程では専任の教員も講義科目もなかったので受講できませんでした。よって、実際の保険法に触れたのは、損害保険会社に入社した後ということになります。

そして、榊󠄀教授の論文で興味深いと思ったことは各大学で保険法を教えることができる教員が不足していて、保険法にプラスして会社法を教えることができるのであれば、これからは職を得やすい分野だということです。採用する側の大学からは口をそろえて「人がいない」という愚痴が出るそうです。

おそらく、その「人がいない」というのは、まだ給与を低く抑えて採用することができる若手研究者の意味だと思いますが、それでも法科大学院に通じた法曹業界に人が奪われ、研究者としては不足気味なのかもしれません。

また、保険法は司法試験の試験科目ではないので、その点、法曹の人にとっても馴染みがないともいえます。自動車事故の解決などで弁護士の活躍の場は常にあるにもかかわらず。よって、法曹出身の人材が保険法研究者になるのも難しいようです。

保険法研究者の世界はこのような状況なわけですが、それではということで、私も手を挙げて保険法研究者の世界に参入しようかというと、かなり無理がありそうです。理由は大学教員が国立であろうと私立であろうと忙しすぎるという実態が感じ取れるからです。原稿の締切もおおむねギリギリで提出する人が多いし、ビジネスマンに比べて納期管理が甘いです。というより、忙しすぎて間に合わないのでしょう。

また、年々国の予算が削減されて教員の報酬も伸びないようです。優秀な人材が海外の大学に移籍するといいながら、予算削減では無理もありません。あれだけの仕事量、すなわち研究と教育の二本立てで、しかも学内行政もあるのであれば、今の年収の1.5倍は確保しないと割に合わない職業ではないでしょうか。それでも何とか成り立っているのは、現在の大学教員に献身的な努力のおかげだと思います。

国立大学の授業料値上げの件が話題になっていますが、医療費が過去最高を更新し、運営費交付金等の教育費が削減されるところに、国の優先順位が見て取れます。政治にとって利があるのは医療なのでしょうね。残念です。