職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

ムダな学問が実を結ぶときを期待しつつ

今年の10月に日本保険学会の報告があり、論文を執筆する必要がありました。昨年までまったく筆が進みませんしたが、年末年始に「はじめに」だけでも書こうと始めたら、スルスルと2万字の論文が完成してしまいました。

自分のガラクタのような知識がうまくつなぎ合わさったのか、自分の意識がスポーツ選手でいうところの「ゾーンに入った」のかわかりませんが、とにかく一気に心配事が一つ消えました。とても幸先のいい2025年です。

一方で、課題が一つ解決したので再開をした基本情報技術者試験の勉強は、テキストを読んでも英書よりもわからないです。情報セキュリティの研究で先端をいっているという横浜国立大学大学院の入試問題も閲覧・コピーしましたが、同じく意味不明です。長男が受験するかもしれないので、あらかじめ入手してみました。

それでも失望や不安はないのです。なぜなら自分の専門の法学でも、最初はまったく意味不明だったからです。今から35年前に大学院入試のために勉強した、我妻栄民法講義』は、分厚い書籍で分野ごとに何冊もあります。それをわからないなりに読んでいくと、いつか民法が体系的に「わかった気持ち」になるものです。そして、いまだに「わかった気持ち」であるのは変わりません。それでも法学で博士号をいただけるのですから何とかなるのです。

情報学に必要だと思い子どもたちと一緒に学んでいる数学も、やっと高校2年生を卒業しました。今週から高校3年生に入っていますが、それとて高2までの数学をマスターしたわけではなく、2種類の参考書を通読しましたということでしかありません。解法を何となく理解した程度で、試験問題をスラスラ解けるレベルではありません。大学受験するわけではないのでそれでいいと思っています。

何の役に立つのかわからないムダな勉強のようですが、このムダがいつか実を結ぶときはあるかもしれません。本業でサイバー保険や情報セキュリティに取り組まなければならない機会があれば、当該分野の学問的知見は一気に増加することでしょう。その時、ムダだと思っていた学習が役に立つときです。人生一寸先は闇です。ムダに思えることでも楽しいと思える限り学んでおいて損はないと思います。

量子力学で約30年間のモヤモヤが解消

今から約30年前に、天外伺朗『未来を開く「あの世の科学」』(祥伝社、1996年)という本を読みました。著者はソニーの研究者だった方で、東北大学から工学の博士号を授与されています。本名は土井利忠さんで、天外伺朗ペンネームです。

当時、宗教と科学は統合されるということで、量子力学の観点からあの世を科学的に説明されていました。超ひも理論を用いて、あの世という次元はこの空間に畳み込まれているという説明が印象に残っています。ただ、その説明も量子力学や物理学などに知見のない私には腹落ちするほど理解はできずに時が過ぎていきました。

そして今回の年末年始に、村松大輔『自分発振で現実を変える「量子力学的」願望実現の法則』(サンマーク出版、2024年)と同『現象が一変する「量子力学的」パラレルワールドの法則』(サンマーク出版、2022年)を本屋で手に取る機会があり、約30年ぶりのモヤモヤがかなり解消されました。

まず量子力学古典物理学の違いがわかりました。古典物理学は、物質レベルの大きな世界の法則をみつけます。一方、量子力学は、分子・原子から小さな世界の法則をみつけます。私にはこの説明で十分です。

そして量子力学の観点から、私たちは「フォトン」という「光の素粒子」を日々発しているということです。このフォトンには周波数があり、私たちの意識や感情がポジティブであれば、フォトンの周波数は高くなり、ネガティブであれば低くなります。

そして高い周波数のフォトンを出し続けている人には、その周波数に合った人や出来事が自分に近づいてくるそうです。そして、いつもポジティブな感情を持っている人は、高い周波数の世界で生きていることになります。

よって、「ありがたいフォトン」「楽しいフォトン」「優しいフォトン」を常に飛ばしている人は、そうでない人と違う世界に生きていることになります。一見すると同じ世界にいるのですが、量子力学の視点では、その人が持っている周波数が違うと別の世界を生きていることになるそうです。それがパラレルワールドなのでしょう。

しかも、自分でポジティブなフォトンを出していると周囲に伝播していきます。その場の雰囲気を変えるようなオーラの人がたしかにいますね。この辺の説明は集合意識の理解に役立つと思います。

この年末年始は、村松大輔氏のおかげで約30年間の曖昧な理解がクリアになりました。今後は、「ムリだフォトン」「ダメだフォトン」を出すのではなく、ポジティブなフォトンを飛ばしながら日々生活していこうと思いました。

無名であるが偉大な史学研究者の村山節

年末に村山節『波動進化する世界文明』(博進堂、1992年)を読了しました。希少本で合理的な価格での入手ができなかったのですが、どうしても原典を確認したくて、初めてメルカリで購入しました。歴史に詳しくはないので難しい内容に感じましたが、著者の深い知性を感じられるすばらしい文献でした。

残念なことは、村山氏が若い頃病気のために高等教育を受ける機会がなかったということです。よって、学術書としての構成が弱く、正統派の研究者から受け入れらない、あるいは顧みられない可能性はあったことでしょう。

ご本人は、1911年生まれで2002年に亡くなっています。書籍は1979年に執筆され、1992年に改定版として出版されています。文明800年周期説については、緻密な分析・評価と解釈によって、高度な水準の説であるにもかかわらず、学会などで議論されていなのではないでしょうか。もしかしたら、それは村山氏の経歴のためかもしれません。

私は、村山氏が大学などで研究する機会に恵まれていれば、偉大な史学研究者として評価されていたのではないかと思います。そして、他の研究者で論理的に彼の説に対して反論できる人はいないのではないでしょうか。世界の通史を研究している人は少ないし、文明を経済、政治、社会、文化、人の潜在意識、さらには宇宙という観点から分析している人は皆無だと思いますので。

そして、これから21世紀に起こる可能性について鋭い指摘が随所にみられます。たとえば経済的視点で、世界の植民地化が16~19世紀に猛烈を極めたわけですが、1945年以降は全世界の西方の植民地支配はほとんど終わりを告げました。そして、14~19世紀の間に西方は全世界の資源を武力と政治力と脅迫によって収奪利用しましたが、20世紀中頃からは一変し、石油の価格と供給でアラブ諸国から脅迫されまでに後退しています。そして、21世紀は西方の長期慢性的停滞に追い込まれることを見抜いています。

文化的側面でも西方の文化的指導力は、18~20世紀前半はおそらく史上最高のものでしたが、1970年以降では、創造力の急速な減衰が現れはじめ、21世紀にはこの文化的減衰は次第に激しくなるといいます。

アメリカにおいてもヨーロッパにおいても大都市では人間関係の冷却化が進行し、孤立と悲しみに包まれ、豊かすぎる物質、鉄とコンクリートの街に何の意味があるのだろうかと嘆きます。

西欧の失業者は空前の量にのぼり、人口は停滞またはイギリス、スイス、オーストリア、ドイツ、ルクセンブルク等では、人口増加率はマイナスに転じ、まもなく西方社会全体が人口減少時代に突入するといいます。

村山氏が慧眼の持主だと思った点は、アメリカはヨーロッパの出先程度の文明でしかないという指摘です。アメリカに深く偉大な文化がなかったといい、あってもさざ波程度のもので、特定の文化型が見つからないといいます。

したがって、アメリカはヨーロッパ文化の海を越えた延長線にあって、あらゆる源泉はヨーロッパにあり、アメリカ独特の文化遺産は、詩・美術・思想・宗教のどの分野でもさざ波型ということです。200年という短い歴史の中で、一般文化層の厚みが形づくられていないということのようです。

これらのことが、1992年に改定されているものの1979年に書かれているという事実に驚きます。今だからこそ、「そうだよな」と思えるのであり、当時の視点でここまで描写できるというのはただ者ではないよう思います。

そして書籍の最後のQ&Aには次のような内容があったので、次に示しておきます。

Q 人間は偉大になりますか。

A 短周期の生活意識では動物型人格ですけれど、長周期の文明意識では宇宙人型人格が必ず育ちます。人にして動物に過ぎない者の多いなかに、人にして聖者である美しい偉大な人格のかたがふえていきます。人間は1歩あるいは100歩、神霊の世界に近づくと思います。

本の編集でわかる人の情報処理

2025年出版予定の書籍『なぜ社会人大学院で学ぶのかⅡ』の編集をしています。そこで気づいたことは、人は多くの情報を受け取り、そこから自分に必要なものと不要なものを取捨選択しているということでした。当たり前のことですが、あらためて感じた理由をご説明します。

共著の問題は書籍全体の統一感がないことです。単に各自の原稿をまとめただけだと思われてもいけないと思い、執筆時に参考になる情報をリンクのとおり共有しました。

community.camp-fire.jp

すでに何名かの方から概要や原稿をいただいているのですが、ここに記載されている助言をまったく考慮していないものが届きました。修正・校正してお返ししたのですが、おそらくいくつか理由はあると思います。たとえば、次のようなことです。

 ① 忙しくて確認していられなかった

 ② 興味がなく自分には必要ない情報と整理した

 ③ 自分のスタイルが確立しているので他者の助言に従わなかった

過去の経験から③の人はかなり珍しいと思います。ただ、プライドの高い人や自分が見えている世界がすべてだと思っている人、過去の成功体験に固執している人などはありうる反応だと思います。

今回の執筆者の方々にそのような人はいるとは思えないので、①か②ではないかと思いました。よって、「再度ご確認ください」という趣旨で2度目の情報共有をいたしました。社会人大学院で学ぶような方々なので、向上心もあるでしょうから、自分の文章を磨くという意味で確認してくれるとは思います。

わたしの場合、常によい文章を書きたいという意識があります。最近、自分の表記スタイルを変えたものは次のとおりです。

・「あり得る」⇒「ありうる」

・「めずらしい」⇒「珍しい」

・「位置付ける」⇒「位置づける」

よって、過去に出版した自著とこれから出版される自著の表記は進化しているわけです。「進化」しているかどうかはわからないので、違っているということですね。

いずれにしても、自分の文章を向上させるためにも先人の助言やスタイルというものを積極的に取り込んでいきたいと思います。

バリバリの元営業マンがみせた「女性性」

バリバリの営業マンだった元同僚が時間貸しのリゾート施設事業を始めました。しかも、利用者が少ない平日は、地域に開放し子ども食堂にするとのこと。これも一つの女性性(femininity)の時代の現われではないかと思いました(女性性については以下のメディアに簡潔にまとめる機会をいただきました)。

www.ceetree-media.net

元同僚だった友澤敏朗さんはどこから見ても生粋の営業マンで、数字のことしか考えていないようにみえる人でした。でも彼の中には、世の中の貧困を解消できればという思いがあったのですね。

リンクの記事のとおり、「「子ども食堂に行くのに抵抗を感じる子もいる。リゾートに遊びに行って、ご飯を食べてきた、と気軽に利用してもらえればいい」と地域の子どもの”城”になることを夢みている。」ということです。

mebuku.city

ピラミッド組織の中で目標数字を与えられ、その達成のためにはあらゆる手を打つ。自分のネットワークや他者のパワーも借りながら力強く数字をやり切る。これはまさしく男性性(masculinity)のなせる技でしょう。

そんな彼の中にも女性性があったわけです。女性性には、感性や優しさ、寛容さ、直観、柔軟性がありますが、一緒にいるときはそのような雰囲気は感じませんでした。

でもここに希望があります。なぜなら私の身の回りにいる圧倒的に男性性優位にみえる人の中にも、女性性を秘めた人がいるだろうということがいえるからです。

時代が変わっていることを直接感じることができないという人もいるかもしれませんが、私たちの内面では大きな変化が起きているのではないでしょうか。お金儲けや出世、社会的地位、名誉など、必死で追い求めていたものの中に幸せはないのではないかと思うのかもしれませんね。

【本記事は「見えない世界を知る」にも投稿したものです】

学問の限界を知るために理論を学ぶ

来年出版予定の共著『なぜ社会人大学院で学ぶのかⅡ』の原稿を書きながら思った結論があります。学問の限界を知るためにある分野を研究してみるということです。

理論の限界にいったんぶつかってみるという経験をすると、安易に人の意見を否定したり、自分が構築した理論を他人に押し付けたりすることがなくなると思います。

私の場合、法学で保険法が専門といっていいと思います。ずいぶんと特定分野については掘り下げて研究してみました。しかし結論は「わからない」というものです。どれが正しいかなどわからいわけです。

理詰めで論文を書き上げ、誰からも批判されないように推敲を重ねます。そして出来上がった論文に満足し、専門誌に掲載いただく。でもそれだけで、それが正しいか、世の中の役に立っているかなどわかりません。

来年は、日本保険学会における報告者でもあります。とても名誉なことなので、理論的にも高度なものを書きたい思うので、なかなか筆が進みません。でも結論は「わからない」なのですから、気負っても仕方ありません。なので、少し気を抜いてボチボチと書き始めようと思います。

誰かに「社会人大学院に行って研究してみようと思うけどどうお思う?」と聞かれたら、「ぜひ学問の限界を確かめに行かれたらいい」と答えると思います。「徹底的に理詰めで論文を書き上げ、あらゆる議論を積み重ねて、限界を知るということは、その後の人生で役立つと思う」と伝えることでしょう。

ピラミッド型組織は危機に弱い

これからの時代に合った組織とはどのような形態なのでしょうか。時代も相当変わり、想像もつきませんが、計画的で規則性がある組織というのは、実は弱いのではないかと思います。

むしろ、無計画で規則性がなく、自然発生的にできたネットワークの方が強いのではないでしょうか。それはもう「組織」ではなく「ネットワーク」です。トップがいるわけではなく、中心もありません。権限とか、職務範囲、社内規則もないわけです。いくつかの事例をみてみると、ピラミッド型組織に脆弱性があることがわかります。

オリ・ブラフマン=ロッド・A・ベックストローム『ヒトデ型組織はなぜ強いのか』(ディスカバー・トゥエンティワン、2021年)によると、たとえば、約500年前にスペイン軍は、中央集権型のアステカ帝国インカ帝国を征服しましたが、その後、アパッチ族には敗退しています。

アパッチ族は分散型で首長がおらず、その代わり、複数の精神的・文化的リーダーがいました。また、首都もなければ中心となる司令塔もなかったため、いたるところで意思決定が行われたそうです。1人のリーダーを殺害しても、新たなリーダーが現れ、戦いは永遠に続き、最終的にスペイン軍の作戦は失敗に終わっています。

これと似たような事例が、安富歩『満洲暴走 隠された構造』(角川新書、2015年)にありました。今から90年以上前の満洲は、中国では珍しくネットワーク性が低くて、ピラミッド型の県城経済システムが支配の構造だったそうです。よって、関東軍が乗り込んで、ピラミッドの頂点から下に支配すれば、簡単に制圧できました。

県城というのは、古代中国の県の役所を守るための城のことです。それに対して中華民国は、分散型ネットワーク社会だったので、県城と鉄道を支配してもどうにもなりませんでした。ゲリラはどんどん村に引っ込んで延々と戦い続けます。いずれ関東軍も疲弊し、消耗して音を上げたというわけです。

たしかに、組織力という言葉あるように、組織化された人たちはベクトルを同じ方向に向けることができるので強いというのはあるでしょう。しかし、トップが誤った判断をした場合は、組織全体が壊滅的なダメージを受けます。

福島原発第一原発の事故でも考えさせられることがあったと思います。当時の現場の所長である吉田昌朗氏は、東京電力本店からの指示に従わず、炉心を冷やすために海水注入を継続しています。もし命令のとおり海水注入を止めていたらどうなっていたか。

事実関係は不明で、情報も十分開示されていないので断定はできませんが、組織のトップや本店が判断を誤るということはいくらでもあると思います。そのとき、危機管理の観点からピラミッド型組織は望ましくないのかもしれないということです。