スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

博士号の取得者より優秀な学士助手

最近、東京大学のある教授が、博士号を取得していないのに大学教授というポストに付き、SNS上で、博士号を持っている他の在野の研究者を貶めているということで、博士号について議論が沸いているようです。

私は、保険契約法の分野で博士(法学)を授与されましたが、博士号を取得したから、博士号を持っていない人より優秀だとか、実力があるなどとはまったく思いません。ですから、博士号の有無で人を評価することもないです。

この結論には、簡単にたどり着けます。たとえば、私の専門分野における著名な教授に、落合誠一教授、山下友信教授がおられます。お二人とも偶然、研究会や座談会でご一緒する機会があり、その学識の深さと広がりには、とにかく驚かされ、自分の中では尊敬する研究者になります。論文や著書もとにかく深いです。そして、お二人とも東大法学部のご出身ですが、博士号はお持ちではありません。

さて、博士号を持っている私は、このお二人の重鎮よりも優秀でしょうか。より優れた業績を残しているでしょうか。結論は言うまでもありません。そもそも比較すること自体がおこがましいです。

博士号を取得していない人が大学教授になるというのは、日本の大学の世界における慣習の問題がとても影響していると思います。かつては、東大を筆頭に、一部の大学で助手制度というのがあり、若い優秀な人材が、官僚や優良企業に流れないように、大学院にいかずとも助手として採用されて、大学に残れるということがありました。

大学院に行かないので授業料は払わなくてよく、助手ですから給料ももらえるので、特に東大法学部では、この助手制度を使って優秀な人材を引き留めたようです。これを学士助手というそうです。今はいろいろ批判もあったようで、学士助手というのは存在していないようです。

このような制度のもとでは優秀な人材は学士助手に、そうでない人は大学院に行くことになります。ですから、大学院に行って博士号を授与された人以上に、博士号はなくても学士助手になった人の方が優秀であることになります。不思議な制度で、海外からみると、博士号を持たない教授が多い日本の大学は奇異に見えることでしょう。

このような慣行のもとでは、博士号の有無にいかほどの意味があるのかとなります。もちろん、博士号を取得するには、それなりに努力は必要です。それでもせいぜい限られた分野で「よく研究しましたね」ということで授与されるもので、博士号の有無で優秀さを判断できるようなことはありません。レッテル貼りをするのが大好きな人は、SNSで展開されるそのような話に盛り上がるのでしょうが、私には博士号の有無に大きな意味はないと思います。レッテルで人を判断できるほど世間は単純ではないのではないでしょうか。

社会人大学院生が増えるために

向後千春「社会人の学び直し - オンライン教育の実態と課題」日本労働研究雑誌721号(2020年)を読む機会がありました。本論文によると、大学院における社会人の数は2000年から2008年まで増加しましたが、それ以降は増加していないということでした。
論文 社会人の学び直し──オンライン教育の実態と課題|日本労働研究雑誌 2020年8月号(No.721) (jil.go.jp)

2000年に増加に転じたのは、大学院重点化という文部科学省の施策のおかげだと思います。定員を増加し、教員も大学の学部教育から大学院教育にシフトしていったのでしょう。このころから「○○大学教授」ではなく、「○○大学大学院教授」という呼称が増えたと思います。

当時は、大学院制度の弾力化を目指して、博士課程の目的を研究者養成だけでなく、社会の各方面で活躍できる高度な人材の養成とすること、大学院教員として優れた知識経験を有する社会人の登用、夜間修士課程の設置などが提言されていたそうです。

しかし2008年以降、社会人学生の増加は頭打ちになったわけですが、振り返ってみると、当時の金融危機の影響は大きかったと思います。大学院どころか、そもそも仕事を失う人も増えたわけで、自己啓発や学び直しどころではなかったのだと思います。そこで冷めてしまった社会人は、その後も大学院に戻ることはなくなった。

2018年の内閣府「経済財政白書〔平成30年版〕」において、自己啓発・学び直しを行った人は、しなかった人よりも年収が2年後で約10万円、3年後で約16万円増えているという調査結果を示しています。しかし、社会人が大学院に戻ることはない。彼らを躊躇させている障害は何なのでしょう。

2016年の文部科学省の調査によると、学び直しの阻害要因としてあるのは、費用が高すぎること、勤務時間が長くて時間がないこと、自分の要求に適合した教育課程がないこと等が挙げられています。すなわち、「高い、忙しい、自分に合わない」ということです。

この「高い」というのは事実なので仕方ありません。一方、「忙しい」は言い訳かもしれませんし、「自分に合わない」は先入観の可能性もあります。そうすると、「高い」という問題を解消すれば、社会人大学院生は増えるのでしょうか。そうかもしれません。

しかし、私が最大の障害だと思うのは、企業の姿勢だと思います。社会人の生涯教育を積極的に支援していこうという企業風土は、まだまだ日本では脆弱です。OJTが主流の日本企業において、外部の高等教育機関を活用しようとはしていないし、そもそも信頼していないのではないでしょうか。そのような発想の日本企業に所属しながら、社会人が大学院に進学するというのは、結構勇気がいることなのだと思います。

私の場合、英会話学校に通うのに、会社に許可をもらう人はいないのと同じで、自分の意思で研究するのだから、好きにさせてもらいました。また、そのようなことでもまったく問題ない職場環境でもあり恵まれていました。しかし、これはかなり例外なのかもしれません。より日本企業が自社の従業員の自発的な学び直しを支援し、多くの社会人が自己研鑽のために投資をすることができるようになればいいと思います。

言い訳に便利な "Nobody is perfect ! "

先日、一般書と専門書を出版し、三人の子どもたちにもそれぞれ献本しました。そして、意外にも一般書を読んでくれた大学1年生の長男が誤植をみつけてくれました。誤植というよりも、そもそも私自身の原稿が誤っていたものです。

本の内容には、読者の読みやすさのために、為替の正確さよりも一読して数字の規模感をつかめるように、1ドル=100円で表記した部分がありました。そして、1兆2000億ドルを120兆円と書くべきところを、122兆円と書いていたのです。

実はこの部分の表記は、文脈の関係で、一般書でも専門書でも両方の本で使っています。一般書と専門書は、それぞれ別の出版社なので、専門家である二つの出版社が見落し、そもそも私も素通りした誤りを、大学1年生の長男がみつけたことになります。自分にとって、このエピソードは意外な気づきが含まれいました。

すなわち、どんなに専門性があっても、どんなに長い人生を生きていても、自分の注意が向かない真実には、決して気がつかないというものです。私など、プロがチェックしているのだから大丈夫だろうとか、この人が書いている文章だから正しいだろうという思い込みで、真実や誤りを素通りしてしまうことがいくらでもあるのだと思います。おそらく、長男はそのような先入観もなく、書かれてあることを素直に読んでいったところ、その誤りをみつけたということでしょう。

そのように考えると、今も起きている様々な事象について、人それぞれ気づく部分と気づかない部分があり、それは、人生で多くの経験を積んでいるからとか、いろいろなことを学んできたからとか、あまり関係ないのだろうと思いました。きっと、人それぞれに「時」というのものがあり、同じ現象をみても、捉え方や気づき方は大きく違うのだと思います。よって、たまたま気づいた人が正しく、気づかない人が間違っているということでもなく、人それぞれで異なっていていいのだと思えるのです。

私は長男に、"Nobody is perfect ! " とLINEでメッセージを送り、言い訳をしておきました。この英語も時々に使いたい便利で好きな表現です。

自分の外側に対する怒りから内省へ

長崎に原爆が投下された当時、秋月辰一郎医師は、長崎の浦上第一病院の医長でした。秋月医師は、自らも被ばくしながら、多くの人の治療に当たりました。特に有名な逸話は、自然塩を多く使った玄米おにぎりや、塩辛い味噌汁を摂ったことにより、彼自身や彼の患者たちは原爆症にならなかったという話です。

爆心地に近ければ近いほど、外観に損傷もなく、火傷もないにもかかわらず、一昼夜にして死んでしまう状況について、当時、秋月医師にしても、長崎医科大学の教授陣にしても放射線の知識はなかったのでよく理解できなかったそうです。よって、よほどひどく頭や胸を打撲したのか、という程度にしか思わなかったわけです。

放射線による死亡例は、爆心地から徐々に外側に向かって時間差で現れており、浦上第一病院にも迫ってきていることが感じ取れました。それを秋月医師は、「死の同心円」と表現しています。典型的な症状は、髪の毛が抜ける、肌が紫色になる、口内がただれる、下痢になる、胸がむかつくなどです。

その辺の経緯は、秋月辰一郎『長崎原爆記 被爆医師の証言』(日本ブックエース、2010年)で知ることができます。当然、当時の凄まじい状況や、秋月医師たちの想像を絶する苦難を理解する証言として参考になる書籍なのですが、私が注目したのは、秋月医師の内省による心の動きでした。最初は、アメリカに対する憎悪や、戦争を遂行した軍部に対する批判があったのにも関わらず、時間が経つにつれて秋月医師の内面にも変化が現れたと思える部分がありました。

それは、秋月医師の恩師である永井隆医師の著書の抜粋が付録として掲載されている部分です。原爆投下から2年後の秋月医師と永井医師の対話で、秋月医師は次のように述べます。

「ねえ。私らは何かといえばすぐに、無一物からこれまでに復興したんだと見えをきる。この根性が恐ろしいと私は気づいたのです。」

秋月医師の内面の変化が感じ取れる一言です。アメリカ軍にどんなにひどいことをされても、日本の軍部が愚かな戦争を遂行して犠牲になったとしても、憎悪や憤怒は、時間とともに変容し、思考はより深く内面に入っているようです。

論理的に考えれば、私も含めて多くの人は、なぜ原爆投下が必要だったのか、戦争をはじめた要因は何だったのか、アメリカが善で日本が悪なのか、戦争で金儲けした連中は誰なのか等、突き詰めたくなります。しかし、結局起きてしまった現象に対して、それに意味を与えるのは、私たちの思考そのもののようです。

現在の自分に置き換えると、朝鮮半島有事などで日本が戦争に巻き込まれるのではないかという懸念があります。愚かな政治家がとか、背後にいる戦争屋がとか、いろいろ言いたくなりますが、結局何が起きても、まず自分の内面の問題で、外側に答えを求めても自分自身の答えは見つからないということかもしれません。これからいろいろな点で、緊張が高まるのでしょうが、しっかりと自分自身で内省していくことを心がけなければいけないのでしょう。

「谷町」としてのクラウドファンディング

今回、クラウドファンディングを初めて試み、いろいろな学びがあったのでまとめてみます。

1.究極的な直接金融

まず、クラウドファンディングは「究極の直接金融」であり、大きく分けて、寄付型、購入型、投資型という分類があります(三菱UFJ信託銀行クラウドファンディングとその特性」資産運用情報2015年9月号)。私が実施したプロジェクトは本の購入型ですが、購入型と寄付型のハイブリット型といっていいかもしれません。なぜなら、出資者が本を購入した、あるいは情報を買ったといっても、3万円や10万円を出資した出資者にとっては、その値段や価値以上の出資をしていることになるからです。実質、寄付と思っていただいた方が多いのではないかと思いました。

 

2.寄付型と購入型の規制は緩い

また、やってみて感じたのですが、購入型と寄付型に関する法的規制はあまりないことは意外でした。特に資金調達者である私には、大きな負担は生じていません。ただ、購入型では、通信販売に当たるので、特定商取引法の規制がかかりました。価格の表示や支払方法、商品の引き渡し時期などの表記に関して厳格なルールに従っています。不当表示にならないように、景品表示法にも注意が必要でしょう。また、欠陥品が販売された場合は、民法の契約法に基づき、商品の交換や損害賠償請求など発生するかもしれません。ただ、商品が本なのでそのようなリスクは僅少だったことでしょう。そしてある程度、良識従い、誠実に対応することで十分でした。

一方、投資型になると、金融商品取引法の規制が出てきて、途端に難易度が上がります。よって、個人や小規模事業者が投資型クラウドファンディングで資金調達するのは現実的ではないかもしれません。おそらく、私たち一般人が検討するのは、寄付型や購入型になるのだと思います。

 

3.参加型クラウドファンディング

そして、もう一つ私が注目したいのは参加型です。今回立ち上げたコミュニティの「働きながら社会人大学院で学ぶ研究会」が典型ですが、購入型と連携しながらプロジェクトにも参加いただくというもの。参加には毎月の会費が必要ですが、まるで部活の部費を納めるようなもので、参加者自らもプロジェクトに貢献するという参加型になります。たとえば、今後共著の出版を模索していますが、全員で継続的・持続的に活動し、その成果物の一つとして共著を世に出していくことになります。理屈上は月1000円の会費で15名集まれば、継続して年に一冊オンデマンドの共著を出版できることになります。資金不足が生じた場合、通常の購入型クラウドファンディングで予約販売機能を持たせた資金調達で補完することも可能かもしれません。

community.camp-fire.jp

 

4.応援に値する社会性や将来性

井上徹クラウドファンディングを巡る諸問題:展望」横浜経営研究38巻2号(2017年)によると、クラウドファンディングに関する研究が極めて少ないのは、投資型については、既存の議論で十分であり、あらためて議論する必要性がなく、一方、寄付型や購入型に対する理論的アプローチは、心理的な問題や、感情、満足度などの要素があるので、難しいからだと指摘します。

なるほどと思いますが、銀行に事業計画を提出しても審査が通らない案件が、「この案件は応援したい」、「この人を支援したい」あるいは「このプロジェクトに参加したい」という支援者のおかげで成功するわけです。このように人々の動機を分析して、成功の秘訣を探るのは難しいと思いますが、経済的なリターンを度外視したファンをどれだけ集められるのかがカギになるのでしょう。

5.「谷町」性は浸透するのか

「谷町」あるいは「タニマチ」は、現在の大阪市中央区谷町に実在した医師が、幕下力士に無料で治療を提供していたことに由来する言葉です。その医師は、一貫して「貧乏人は無料、生活できる人は薬代1日四銭、金持ちは2倍でも3倍でも払ってくれ」を通したそうですが、この谷町の医師の精神に通じるものがクラウドファンディングにもあるように思います。結局、同一の商品・サービスに対する対価が人によって一定ではなく、収入の多寡や資産の大小によって変わることになります。しかもそれは出資者の自発性に拠ります。寄付型・購入型では、世の中でこの「谷町」性がどこまで浸透するのか、ということが今後の発展の要になるのかもしれません。

私にとって今回の小さな挑戦から得られた経験は貴重でした。現時点で次のクラウドファンディングにつながるかわかりませんが、ひとまず自らの体験を整理しておこうと思いました。

書評: 國部克彦=後藤玲子編著『責任という倫理』

6名の専門家による國部克彦=後藤玲子『責任という倫理』(ミネルヴァ書房、2023年)を恵贈いただき、読了したので、書評です。

責任という概念について、経営学会計学、経済学、法学、哲学など各分野の専門家による分担執筆です。内容は深く、読み手にとって難しいですが、おそらく書き手にとっても困難な執筆作業だったのではないかと思われます。

全体的に、法の経済分析やゲーム理論に素養があり、哲学的・思想的な訓練を積んだ人であれば、理解は大いに進むかもしれませんが、それ以外の人には難しい面もあります。しかしそのような専門知識がなくとも、各分野の第一人者が、学術的な分析道具を使用し、今回のパンデミックを検証しようとすると、総じて良心などの道徳的な価値観に依拠し、弱者への配慮のもとに行動するといった倫理的な価値にたどり着いていることに気がつきます。

現代社会は、科学を過剰に信じ、依存する傾向がありますが、どうも科学と道徳あるいは宗教は統合されていく必要があるのかもしれません。あるいは、自然にそちらの方向に進んでいるのでしょうか。科学を使って徹底的に分析するうちに、人間の内面の問題に行き着いている。どの著者も科学的・学術的な分析手法で、ある程度まで責任を論じるものの、どこかで限界にたどり着き、次の価値観が必要になり、新たな次元の議論に展開していきます。そういう意味では、すべての執筆者は、自分の専門領域に踏みとどまることをせず、果敢に外に打って出ているようにみえます。

また、一読者としては、これだけの専門家が理論的に緻密な分析をしているのに、明確な答えが一つ出ないということに、むしろパンデミック期間中の真実が見出せます。当時の専門家による断定的な発言や提言が、いかに軽く、迂闊なものであったかということを思い知らされるわけです。本書の各分析・理論の十分な理解ができなかったとしても、その真実を知れただけでも価値がありました。

本日『学び直しで「リモート博士」』が発売されました

単著としては4冊目のリンクの本を出版いたしました。

学び直しで「リモート博士」 : 働きながら社会人大学院へ (アメージング出版) | 山越誠司 |本 | 通販 | Amazon

今回、本書を出版してたどり着いた一つの結論は「楽しむ」ということでした。学び直しとか、リスキリング、リカレント教育など、どれも努力するとか、辛いけどがんばるイメージです。しかし、実は「楽しむ」ことが一番大切なのではないかというのが、今回の到達点でした。自分の子どもたちには、勉強は楽しみ、楽しくなければ止める、という方針を伝えようと思います。

たとえば、歴史が好きであれば京都、自然が好きであれば北海道、商人魂が好きであれば大阪など、自分がワクワクする土地に、自分のテーマに合致する指導教授がいないか探してみる。修士課程であれば、そのぐらいの軽い挑戦でもいいのんではないかと思いました。そして、年に数回指導を受けに現地に訪問してみる。かなり贅沢で楽しい学びになると思いますし、そこから新しい出会いもあることでしょう。

今からは20年くらい前に、私はある占星術師から過去生について次のようにいわれました。

1800年頃の男性でスリランカの僧侶。厳しい修行に費やす生き方をしていた。今回は、過去生で放棄してしまった、結婚をして家庭をもうけるという生き方を選んだ。今回の人生の目的は、抑圧的な生き方をした過去生とは逆に人生を大いに楽しむこと。」

しかも、人生で初めてNPOを通して支援した子どもは偶然にもスリランカ人でした。いいえ、人生に偶然などないと思いました。これからも「楽しむ」を拠り所に、いろいろ取り組もうと思います。

(注)本ブログは、できるだけ論理的に左脳を使って記述しようという方針ですが、どうも直感や右脳を使ったテーマでもあるので、同じ内容を別のブログ「見えない世界を知る」にも掲載しています。