スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

「まっとうな仕事」など存在しない

阿部彩『子どもの貧困』(岩波新書、2008年)を再読してみた。貧困を扱う書籍としては古典といってもいいくらい有名ではないだろうか。その書籍から重要な気づきを得た。その本の中に、私あるいは世の中の多くの人が勘違いしているキーワードをみつけた。それは次のような一節に出てくる。

「すべての進学したい子どもが大学へ進学する必要はないと考える。すべての進学したい子どもができるようにするべきである。そして、それと同時に、進学を選ばない子どもたちにも、「まっとうな仕事」を獲得できるだけの「最低限の教育」を身につけさせるべきある。」

ここで、はたと思った。「まっとうな仕事」??? 何だろう。「まっとうではない仕事」はあるのだろうか。たしかに、殺し屋を職業とすることはできない。公序良俗に反するし刑法に違反する。しかし、世の中の職業のすべてはまっとうな仕事である。

手もとの辞書には、「本来正しいとされる方向に従うようす。まとも。まじめ」とある。ここでは「まとも」の意味がしっくりくると思われるが、「まともな仕事」とは何であろうか。もしこれを仕事の種類で使うのであれば、まともな仕事も、まともでない仕事も世の中には存在しない。なぜなら、世の中に存在する仕事は、すべて必要だからあるのであり、それは誰かが担わなければならないからである。端的に「職業に貴賤なし」である。

そもそも尊い仕事も、卑しい仕事もない。あらゆる仕事は必要にして不可欠なのである。しかし、私たちはどこかで勘違いしていないだろうか。阿部氏の文脈では、大学に進学し多くのことを学べば、よりよい仕事につけ、大学に進学しない人は、望ましくない仕事に就くことを暗示しているようにも思える。しかし、何度もいうがまっとうでない仕事は世の中に存在しない。

問題は、現実の社会において高学歴の人は大企業に入り高給をもらえ、高学歴ではない人は、非正規雇用ブルーカラーの仕事について、給与も大企業の人たちに比較して低いとい事実があることである。そして、先日、子どもたちと話しているときに気がついた。

子ども:「お父さんの仕事はどんなことなの?」

私:「会社の役員を守るための保険とかを買う仕事だね」

子ども:「それはどんなことなの?」

ここで考えて、ちょっと違う答え方をしてみようと思ったら、自然に次のようなことをいってしまった。

私: 「たいしたことはないよ。もしお父さんの仕事がなくなっても世の中の大半の人は困らないと思うな。でも、毎週ゴミを収集してくれる人やビルの清掃、トイレ掃除をしてくれる人が仕事をやめたら世の中大変なことになるよ。ヨーロッパの国の中には、それで街の機能が麻痺している地域もあるんだ」

なぜ、職業によってあるいは組織のポジションによって、こうも違うのだろうか。子どもの貧困を解消するために、教育を受ける機会の平等を確保することが望ましいのは百も承知である。しかし、そこに意識を集中している限り、問題の解決にはならないのではないだろうか。むしろ世の中の「公正」さを確保することに注力することのほうが近道ではないだろうか。

なぜ私たちは、いくつかの企業の社外取締役に就任し、好き勝手をいっている人が、複数の経路で収入を得て経済的に豊かになり、政治的にも影響力を行使して、さらに豊かさを得ようとしている事実を許しているのか。一方、毎日朝早くビルの前で待ち、ビルのシャッターが開いたらフロアの清掃をしている人、あるいは体力や精神力の限界を行き来しながら、高齢者の介護をしている人、このような人たちの給与が低く抑えられている事実を許しているのであろうか。正直わからない。

人は私にいうかもしれない。「そういうあなたは、なぜ2度も大学院に行き学び、何を得ようとしているのか。お金であろうか?」。

大学院に行ったところで収入が増えるわけではない。副次的効果として、定年後に非常勤講師の職があるかもしれない。あるいは、定年のない仕事に就くかもしれない。自分で事業をするかもしれない。いろいろ可能性はあるが、収入は副次的効果でしかない。

それでは何か? 情熱をもって探求したいテーマがあり、今の仕事を「まっとうな仕事」にしたいからである。この場面でこそ「まっとうな仕事」というフレーズが使える。多くの人は会社から、あるいは上司からいわれて仕事をやらされ、長時間労働やハラスメントに苦しみ、まっとうな仕事ができていない。それを少しでもまっとうな仕事にするため、付加価値を創造するつもりで学んでいる。

よって、世の中にまっとうな仕事とまっとうでない仕事があるのでなく、自分の担っている仕事がまっとうでないときに、まっとうな仕事にする、このようなときにこの言葉が使えるのだと思った。

ただ、世の中に「公正」さが欠如して、職業やポジションによって大きな所得格差が生じることの答えは見出せない。職業によって価値の差があるわけではない。なぜ格差が生じるのか。ある人たちがあるいはある特定の制度が、格差があるとみせかけているだけではないかと思えてきた。本当に自分の仕事は隣の人の仕事以上に価値があるのか。おそらく差はないのだと思う。

大学院はリモート博士の時代

論文を書くことが多くなり、一般のテーマで文章を書く時間がなくなった。今年から論文博士を断念し、課程博士に切り替えたからである。しかも学ぶ大学院は、横浜在住でありながら神戸である。すなわち、リモート博士である。これは明らかにコロナのおかげといってもいい。コロナに感謝である。

自分の研究テーマで審査してくれそうな先生のいる大学院を探していたとき、当初は首都圏しか頭になかった。しかし、考えてみると仕事でさえリモートでできるのだから、博士論文くらいリモートでできて当然だと思えた。そして、京都のある私立大学に知り合いがいたので相談すると、保険法の博士論文の指導・審査体制は国立大学のほうが整っているであろうといわれ、さらに別の知り合いを通じて神戸大学につながった。

まったく縁もゆかりもない大学であるが、首都圏だけで研究者を探していたのでは制約があったものが、日本全国から探すとなれば明らかに選択肢が広がった。しかも結果的には研究体制や教授陣をみると、自分のテーマにピッタリのベストな選択であった。

これからは、しっかりした考えをもっている高校生であれば、自分の学びたい研究テーマを極めた研究者が日本のどこにいるかを調べて大学を選ぶ時代がくるのかもしれない。たとえば、北海道の人が九州の大学に入るなどもあるであろう。

もしかしたら、高校生ではそのような成熟した判断ができないかもしれないが、大学院であればさすがに自分の研究テーマについて、その分野の専門家がどの大学にいるのかくらいはわかるであろう。しかも論文指導がメインになるので、リモートでも十分可能である。研究テーマについて一緒に考え探求してくれる研究者を選び指導を受ける時代である。偏差値やブランドで大学を選ぶ時代は、リモート時代にはなくなるのかもしれない。そもそも大学にとってキャンパスを維持するコストは膨大である。たしかに、大学の校風や学生文化というのは、キャンパスから生まれるのかもしれないが、学生を100%収容するための施設は不要なように思われる。

1980年代後半、私が学生であったころ、大講義室の授業など普段は閑散としているのに、試験前になると立ち見が出ることがあった。そもそも履修している学生数を全員収容できていない講義室だったのではないだろうか。そんないい加減な時代であったが、今であれば講義室で授業を受ける人とオンラインで受ける人が混在していてもいいように思う。

アメリカのミネルバ大学などは、キャンパスがないので、全世界から優秀な人材が教授として招かれている。キャンパスまで行って講義する必要がないので、地理的な制約がなく、優秀な教授が集まるようだ。生徒も世界から集まり、世界のいくつかの都市を移動しながら一定期間その土地に滞在して学ぶというユニークな大学である。ハーバード大学を蹴ってミネルバ大学に行く学生も多いようなので、学びのあり方は大きく変わっているといっていい。

よって、日本人が大学院に行こうと思う場合は、自分の住んでいるところから通える大学院という制約を外すことをお勧めする。大学院側にしても全国から優秀な人材を集めることができるメリットがあるので、遠隔地の人をどんどん受け入れるとよい。とくに地方の大学が東京や大阪の人材を受け入れるメリットは、ビジネスの中心地の情報を取り込むよい機会だと思われる。また、全国から学生を集めることができる教員の給与は、当然上がるべきだと思われる。大学院なのでしっかり論文指導できなければ学生も集まらないし、学部のように単位を簡単にくれるからという理由で人気があるという世界ではないので、その点心配ないであろう。

あるいは、海外の大学院であれば、オーストラリア、シンガポール、マレーシア、フィリピン、インド、スリランカなども英語で履修でき、時差もないのでよい。あるいは、時差があるほうがよい場合もある。午前は仕事で夕方から授業であれば、ヨーロッパの大学は最適である。日本の夕方はヨーロッパの朝だから、指導を受けやすい。とにかくコロナのおかげで時代は変わった。選択肢が格段に増えたといっていい。あり得ないということをやってみると、意外にできてしまう時代になったといえよう。

そろそろ旅に出て新たな発見を

3月末に米子、松江、出雲へ家族と一緒に旅をした。やはり旅行をすると様々な発見や気づきがある。外出自粛もほどほどに、そろそろ旅に出ることをお勧めしたい。

私としてはどの街も初めての訪問であったが、まず気がついたことにホスピタリティというものがあまり感じられなかった。JRの職員、ホテルのスタッフ、バスの運転手、レストランのスタッフ、いずれも首都圏で体験する顧客対応よりもあっさりしていた。地域的特性なのか、コロナで疲れているのかわからないが、顧客を心地よく迎える感じではなかった。

商店街は閑散としており、人口減少はどうしても止められない印象はぬぐえないといったところである。出雲大社の参道も近代化され、昔の風情がないのが少々残念であった。タクシーの運転手の話によると、世代が変わり地元の人が経営していないそうで、行き詰ればすぐに撤退してしまうであろう。おそらく、ここで有能な市長や知事が出てきても、人口減少の流れは止まらないであろうし、衰退するのはやむを得ないのかもしれない。ただ、山陰地方という地理的優位性を生かして、韓国や中国からの観光客を招くことはできそうな感じはする。

一方、ポジティブな印象をもった点は、地方都市の心地よさというのがあった。人混みがなく基本的な都市機能は備えており、街並みに落ち着いている。とくに松江は風情があり、小泉八雲が愛した街というのは理解できた。お城も天守閣が残っている点で、かなり売りになる。武家屋敷や庭園も存在し、日本の伝統が活き活きとして残っている。

羽田空港から1時間20分の飛行時間で行ける地域であり、予想以上に近く、日本の風情に触れることができる。首都圏に住んでいると、そこがすべてのように思えてしまうが、地方でたくましく生きている人もいるし、多くの文化遺産が存在して、食文化も豊かなこともある。また、米子には高島屋百貨店が存在していることに驚き、日本で最古の客車が街中の公園に展示されていた。日本で最古、日本で唯一、日本でトップなど、東京よりも秀でた点をみつけられるのは楽しい。

これからの地方都市は、東京を経由せずに直接世界とつながるとよいと思う。姉妹都市なども人の縁などを使えば、意外に提携先はみつかるのではないか。それによる経済効果の計測は難しいであろうが、住んでいる人同士が交流しつながりを感じるだけでも、人々の世界観は広がると思う。

昨年春の緊急事態宣言直前の奈良旅行についても学びが多かったが、人生を変えるほどの衝撃は得られないとしても、日本の地方の良さをしみじみと感じることができるのはよい。そして、自分が自治体の長であればどんな施策を打つのか、自分がここで事業をするならどのように展開するかなど、勝手に夢想することになるので、やはり旅の効用は日々の考えを豊かにするという点でもあると思えた。

 

ベーシック・インカムは日本で馴染まない?

竹中平蔵氏のYouTubeチャネルの評判が悪い。日本の貧富の格差を作り出した張本人の一人といわれているが、さすがに多くの人が彼の考え方に辟易しているのだろうか。コロナ禍によって、貧困層はさらに窮地に追い込まれているので、なおさら竹中氏に批判的な人が多いのかもしれない。

そして、日本社会の高齢化が進み、高齢化が所得格差の広がる原因であるといわれている。また、コロナ禍をきっかけにベーシック・インカムの議論も盛んになってきた。そろそろ日本も貧富の格差の是正に取り組まなければ、手遅れになる、あるいはもう手遅れなのかもしれない。

井上誠一郎「日本の所得格差の動向と政策対応のあり方について」RIETI Policy Discussion Paper Series 20-P016(2020年)によると、日本で年齢とともに所得格差が大きくなる要因は、年齢とともに賃金格差が大きくなる傾向を反映しているためという。これは2000年代に入ってから、若年層を中心に非正規雇用が増えて、所得格差が拡大し始め、当時の若年層が壮年期、中年期に入りだしており、所得格差の勢いが加速しているためとのこと。

図表はOECDの統計であるが、各国のジニ係数を比較すると、オレンジ色の棒グラフの通り、日本はアメリカやイギリスに追いつきそうな勢いにある。OECD平均のジニ係数は0.315で日本は0.339であり平均を上回る。イタリアの経済学者の名前からきたこのジニ係数の値は0から1の間をとり、係数が0に近づくほど所得格差が小さく、1に近づくほど所得格差が拡大していることを示す。明らかに北欧諸国は理想的であり、日本の数値をみるとかなり恥ずかしい気持ちになる。ちなみに、黒のダイヤは相対的貧困を表しているが、日本の全人口の10%が相対的貧困状態にある。

このような実態がある中で、各国の国民の意識を調査したInternational Social Survey Programme: Social Inequality IV - ISSP 2009によると、比較的所得格差が少ないフランスでも「自国の所得格差が大きすぎる」と考える人は、「そう思う」と「どちらかというと、そう思う」を合わせると91%もおり、ドイツでは89%いる。一方、アメリカはそのように考える人が66%しかおらず、イギリスでも77%しかいない。すなわち、アメリカやイギリスは所得格差が厳然と存在しているにもかかわらず、それを受け入れる傾向があり、フランスやドイツは所得格差を受け入れない傾向があるということになる。日本はどうであろうか。明らかにフランスやドイツより所得格差が存在しているにもかかわらず、78%の人のみが「自国の所得の格差は大きすぎる」と考えている。これは、日本がヨーロッパ大陸の影響よりも英米の影響を強く受けてきた結果なのかもしれない。

英米の影響を強く受けた日本社会は、「所得の格差を縮めるのは、政府の責任である」という意見についても、「そう思う」と「どちらかというと、そう思う」を合わせると54%しかいない。一方、フランスは77%、ドイツが65%、イギリスが61%であり、日本よりも高く、アメリカは33%で日本よりも低い。日本の54%以外の人、すなわち46%の人は誰が所得格差を是正すべきと考えるのであろう。

この結果を踏まえると、英米の影響を受け自助努力とか自由競争市場を掲げている日本社会では、ベーシック・インカムが機能しないように思われた。ベーシック・インカムは就労せず、納税していない者にも無条件で支給されるが、仮にベーシック・インカムを導入した場合に、就労せずに所得税を支払わない者が増えた場合はどうなるのであろう。

この場合、同額の給付を維持するには就労者の納税負担を増やすことになるので、納税者の理解が得られないのかもしれない。しかも貧困層にも富裕層にも一律に一定金額を給付しても、格差是正につながらない。むしろ生活必需品の値段が上がり、いずれベーシック・インカムでは最低限の生活も維持できなくなることにもなる。よって、ベーシック・インカムよりも、人間が生きていくうえで最低限必要な衣食住を満たす社会的共通資本の整備のほうが重要なのかもしれないと思うようになった。

正直、私には解を見出す能力はないが、もう何とかしなければならない、という思いだけはある。なんでも自己責任で済ませようとする日本は、あまりにも寂しく冷たい社会ではないだろうか。

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母子健康手帳とインド占星術

先日、必要があって麻しんと風しんの抗体検査を受けに病院へ行った。麻しんと風しんの予防接種を受けている証明になるかと思い、母子健康手帳を持っていたが、ジフテリア、百日風、破傷風、BCGなどは確認できたが、残念ながら麻しんと風しんの予防接種はしていなかったようだ。1968年(昭和43年)生まれの私の時代には予防接種はなかったのであろう。

そこで、実家の母に確認したところ、どちらも罹患しているということなので、おそらく抗体はあるだろうとのこと。そして、医師が驚いたことには、私の古い母子健康手帳が残っていたという事実である。医師がいうには、彼自身の母子健康手帳をみたことがないとのこと。この点、自分の母に感謝しなければならない。

私の母子健康手帳が手もとに残っていた理由に、実はインド占星術が関係している。1996年8月に、有名なインドの予言書、アガスティアの葉を探しにいった。当時、青山圭秀『理性のゆらぎ』(三五館、1993年)や『アガスティアの葉』(三五館、1994年)がベストセラーになっており、その予言書は日本でも有名になっていた。あることがきっかけで自分も自らの予言書を探してみよう思ったわけである。

そして、自分の予言書を探す手がかりとして、自分の生まれた場所と時間が必要であり、それで27歳のときに実家の母に依頼して、自分の生年月日と生まれた時間がかかれた手帳を自分が当時転勤で住んでいた青森県弘前市に送ってもらった経緯がある。

予言書のある場所はアガスティアの館といわれ、インドに何か所かあるようである。私が訪れた館は、当時マドラスといわれた、現在のチェンナイから車で2時間くらいのところにあるカーンチープラムというヒンドゥー教の7大聖地の一つにあった。

その村にアガスティアの館があり、ナディリーダーといわれる予言書を探す専門家がいる。ナディリーダーは館に5人くらいおり、代々、人々の親指の指紋から予言書を探し出す技術を受け継いでおり、教養と知性のある人たちだという。

そして、アガスティアの葉は古代タミル語で書かれているので、ナディリーダーは少なくとも古代タミル語が読めなくてはならない。よって、予言の解読には古代タミル語から現代タミル語に翻訳し、そして英語にして日本語にするという面倒な作業が必要になる。

予言はヤシの葉に書かれており、ナディリーダーに男性は右手親指の指紋、女性は左手親指の指紋を渡し、その指紋を拠り所に予言書を探し出すことになる。アガスティアの予言書は、インドの聖者アガスティアが残したもので、探しに来た人の70%くらいは自分の予言書をみつけるという。世界のどの国の人の予言が多いかというと、当然インド人のものが圧倒的に多いが、日本人の予言も少なからずあるという。また、欧米人のものは非常に少ないようだ。

結局、アガスティアは読みに来る人の分のみ予言を残している。いつ、何歳の時にくるのかも含めて準備をしている。読みに来ない人の予言を書き残しても無駄になるだけだからである。

予言探しのとき、ナディリーダーには、生年月日や経歴、両親の名前はもちろん、自分の名前も教えていなかった。よって、私の右手親指の指紋だけから探索することになる。そして、机の上には、アガスティアの葉の束が一つ置かれた。ヤシの葉であり、長さ40センチ、幅3センチ前後であり、一枚の葉に平均二人分の情報が書かれている。その葉をナディリーダーが読み上げながら、次のような質問をしていき、私は「イエス」か「ノー」のみで返事をする。

「あなたは、ソーシャルワーカーですか」

「ノー」

「あなたは土曜日に生まれましたか」

「ノー」

「あなたのお父さんの名前の最後の文字はサ行ですか」

「イエス

「あなたは政府の仕事をしていますか」

「ノー」

「お父さんは病気ですか」

「ノー」(実は父が病気であることに後で気づいた)

「お母さん名前の最初の文字はヤ行ですか」

「ノー」

「お母さんは先生ですか」

「ノー」

「お母さんの名前は三文字ですか」

「イエス

「あなたの名前はタカシですか」

「ノー」

「お父さんの名前はヒロキですか」

「ノー」

おおむねこのような質疑が40分くらい続き、一束目に該当する葉はなかった。そして、二束目の葉がナディリーダーによって読まれる。

「お父さんの名前でヤ行という文字はありますか」

「ノー」

「お父さんは病気ですか」

「イエス」(前の質問で誤って「ノー」といっていたのでホッとする)

「あなたは10日に生まれましたか」

「イエス

「あなたの名前で財産がありますか」

「イエス」(車がある)

「お父さんは自分の家を持っていますか」

「イエス

「お母さんの名前はユウコですか」

あれ!?

「イエス

「民間企業に勤務していますか」

「イエス

「二人兄弟ですか」

「イエス

「二人は独身ですか」

「イエス

「11月には生まれましたか」

「イエス

「お父さんの名前はマサジですか」

「ノー」

「マサジュ」

「ノー」

「マサズ」

「ノー」

「マサカズ」

「ノー」

「マサ・・・、マサ・・・、マサフジ」

「ノー」

ここで一気に、

「あなたの名はセイジ」

「イエス

「あなたは大学を出ている」

「イエス

「あなたは28年目を生きている」

「イエス

「お父さんの名前はマサトシ」

「イエス

「あなたの名前はセイジ」

「イエス

「1968年11月10日生まれ」

「イエス

「お母さんの名前はユウコ」

「イエス

「兄弟がいて姉妹はいない」

「イエス

「あなたは大学で法律を専攻していた」

「イエス

ここでナディリーダーは、

「OK?」

こんなやり取りで自分の予言をみつけることになった。私の場合、葉探しの時間は1時間半くらい。おそらく短い方ではないだろうか。ナディリーダーとのやり取りにおける回答は、すべて「イエス」か「ノー」で行われる。

興味深いのは何年目を生きているかを当てることである。もし、私が25年目あるいは30年目を生きているときに、カーンチープラムを訪れても自分の葉はみつからなかったことになる。紀元前3000年に実在したといわれる聖者アガスティアは、私が28年目を生きている27歳のときに、決意して日本の弘前からインドに来ることを知っていたことになる。

また、質問の中には私以外の名前がいっぱい出てくる。将来、「タカシ」さんという人が葉を探しにくるのか。あるいは「ヒロキ」さんという父親の子どもも葉をみにくるのだろうか。興味は尽きない。

そして、自分の予言がみつかった後は、ナディリーダーが自分の過去、現在、未来を読み上げてくれる。しかも、自分の過去には過去世も含まれており、私の前世はスリランカクシャトリヤ(武士・貴族)だったということ。当時、NPOを通じてスリランカの子どもを支援していたし、別の占星術師にも、前世はインドからスリランカに渡った僧侶であるといわれた。これは偶然なのだろうか。

自分の予言がどの程度当たっているか、25年近く経過した今から顧みると、およそ50%というのが客観的評価ではないかと思う。細かい点を突けば、間違っていたという部分も多いが、それでも大きな流れは正しいように思う。

間違いはいくつかある。たとえば、29歳で結婚するというが、34歳で結婚している。31歳のときに家を購入するというが、いまだに借家である。31歳で子どもが生まれるというが、35歳で第一子が生まれている。34歳のときに起業するというが、転職はしても起業はしていない、などである。

このアガスティアの葉に対する世間の評価はさまざまだと思う。私の評価は、人生のある時期にこのようなスピリチャルな旅をするのもよいと思う。できれば、若くて好奇心旺盛なときにインドを訪問するのがよい。しかし、その予言の内容に縛られることはない。やはり人生はある程度自分で創造できるようであるし、自由意志によって、ある程度の幅で運命も変えることができると思うからである。

50年以上前の自分の母子健康手帳からアガスティアの葉の話題になった。インドを訪問したのも25年前。時間というのも本当に存在するのか疑いたくなるくらい、過去のことが身近に感じられる。結局、過去にも未来にも生きられないので、今この瞬間が大事なのであろう。ある哲人は、未来は変えられるし、過去も変えられるという。未来も過去も存在しないのか、私たちの生きている世界の時間は、別の次元の時間と同じ流れなのか、いろいろ興味は尽きないが、しょせん自分の頭では結論にはたどり着けないということだけは確かである。

 

等価値制度に向けた働き方

これから労働者はスペシャリストになっていく。雇用形態も多様になり、今までのように労働者が会社と労働契約を締結する形態と、個人事業主として業務委託契約を締結する形態の間に位置するような複合的な契約形態も出てくるかもしれない。いずれにしても旧来型の労働者からスペシャリストになった人は、会社と一対一の対等な当事者として契約を締結するようになる。また、一つの会社に所属するというよりも、自分の経験や知見、ノウハウを社会に提供するような働き方が一般的になる。

SFの世界の話のようであるが、ある星の生命体の進化した社会経済システムについて、坂本政道『激動の時代を生きる英知』(ハート出版、2011年)に記述されている。その進化した経済システムは「等価値制度」という。

その星の住人は、必要なものがあればスーパーに入って必要なものを必要なだけカゴに入れ、そのままスーパーを出る。お金を支払う必要はないという。そして、今度は自分のところに誰かが来て、自分が提供できるサービスを求めてきたら、そのサービスを無償で提供する。等価値制度と呼ばれる仕組みでは、みなが自分の提供できるサービスを必要とされるだけ無償で提供することで成り立つことになる。それぞれが自分の提供できるサービスをわかっていて、お互いが助け合う社会である。

このような社会経済システムが、すぐに地球上で実現するということではないが、等価値制度というシステムは今後人類が向かう方向であろう。このとき人々の能力や専門性は、みえる化されるわけで、現在の地球上においては、誰もが自分ができること、貢献できることを表明できなければならない。遠い将来には、自己アピールすることもなく、お互いがお互いのことをテレパシーで理解し合えるような世界もあるのかもしれないが、われわれが生きている間の時間軸で考える限りは、何かしら能力や実績のみえる化は必要になる。

今までの会社人間のように、いわれたら何でもやりますではなく、私はこれができますということを開示する必要があることになる。しかも人によって能力も性格も得意とする業務も違うのであるから、本来は競争することなくお互いが補完し合って世の中に価値を提供していけるはずなのである。しかし、今の経済において競争は善であり、怠惰は悪であるとされ、自由競争を通じて生産性を上げて技術革新をもたらすことができると信じられている。でも前述の等価値制度を前提に考えたとき、本当に競争は必要なのか? ということになる。

これからは仕事についても教育についても、それぞれの違いを生かすやり方が主流にならざるを得ないであろう。みなが同じことしかできなければ相互補完できずに競争で疲弊するからである。学校も30人くらいの生徒が同じ教室で授業を聞いて同じ試験を受けて評価されるというのもナンセンスになってくる。

仕事もそれぞれの得意な技術を磨いて、お互いが協働することで最高のパフォーマンスを引き出すことが大切になるであろう。企業の組織も軍隊型や官僚型のピラミッド構造は、現場の情報がトップまで届くのに時間がかかりすぎるので、現場に近い人がリーダーとしてプロジェクトを動かすような時代がくるであろう。テーマによってリーダーになる人は変わるので、いわゆる管理職というものは消える。

これからは、仕事についても教育についても自分のキャリア・プランも受け身ではなく、自分で積極的に動いていく必要がある。今までは会社が提供してくれる仕事をこなし、研修を受けて終わりであったものが、自分で自分のキャリアを計画的に設計していくようになる。

私の場合、30代半ばでスペシャリスト職という職種を選び、その後、所属した会社や雇用形態に変化はあったものの常にスペシャリストであることを意識し、人と競争しない分野で生きるように心掛けた。いつでも成功し続けたなどということはないが、一ついえることは非常に心地よく楽しい働き方ができているのではないかということである。他の働き方と比べれば競争というものにさらされていないように感じられる。

他者とは居場所をずらして黙々と、そしてひっそりと情熱をもって働き、常に他者との協働で何か成果を出せないか考えていくのは楽しいものである。会社への帰属意識以上に社会への帰属や貢献を意識しているほうが、自分の意識の広がりは圧倒的に安定してくる。しかも未来に向かっても広がりを持ち始める。そういう意味でスペシャリストとしての生き方は多くの人にすすめたいと思う。他者と競争することなく居場所をずらして協働する働き方が、人の潜在的な能力を引き出すであろうことを確信する。もうそろそろ競争という信仰を捨てて、それぞれのわずかの違いを最大限に生かす社会経済システムを目指したほうがよいと思う。

管理職の権限は使い方しだい

管理職は組織の中で社内規則に従い一定の権限が与えられている。仕事における特定の事柄に関して管理職は承認する権限を持っていることが一般的であるが、この管理職の権限は使いようによって、大胆にビジネスを創造する場合と、ビジネスの停滞をもたらす場合の二パターンに機能することがある。

まず、大胆にビジネスを創造する場合の使い方は、管理職が自分の裁量でできることを部下に伝えて、その範囲内で部下に自由に活動させる場合である。部門のメンバーに権限移譲することで、メンバーは伸び伸びと自由な発想で仕事をして、そこからイノベーションを起こしていくように使うことで、限られた予算と人員で最高のパフォーマンスを出すことになる。

もちろん、権限を逸脱していないか、法令違反がないか、公序良俗に反していないか、倫理的に問題ないかなどのチェックはする。しかし、基本的に部下を信頼して、あらゆることに口出しをするようなことはない。イメージとしては、どっしりと構えて大きな成果を待つような管理職である。

一方、ビジネスの停滞をもたらす使い方は、管理職が自分の権限を部下に示して、あらゆることに許可や承認を求めるやり方である。部門のメンバーは自分に裁量がないと思い、大きなことでも小さなこともいちいち管理職にお伺いを立てることになる。もし、管理職の承認なしにプロジェクトが進みそうになり、それをみつけると、かならずといっていいほどそのプロジェクトを止めることになる。別にそのプロジェクトの良し悪しを判断できているわけではなく、自分の権限の効き目を確かめるようにプロジェクトを止めることになる。組織におけるヒエラルキーを相互に確認し合うことが重要な目的になる。

このような管理職は、仕事の結果や部門のパフォーマンスへのこだわりよりも、自分の権限、すなわち組織内のパワーにこだわりがあるので、むやみに部下に承認を求める。そして、枝葉末節にまで判断業務が生じてしまい、自分がどんどん忙しくなる。さらにまずいことに、自分がこんなに忙しいのだ、ということを常にメッセージとして周囲に伝えたがるのも、この手の管理職の特徴である。

どちらの管理職が望ましいかは明らかである。もし大胆にビジネスを創造する管理職であれば、枝葉末節は気にしないし権限を誇示することにも興味がないので、プロジェクトを止めることはない。部下が考え出したプロジェクトが大化けするかもしれないという夢をみながら、部下の背中を押すことであろう。類型化するなら、部下を止めるのが仕事と思う「権限執着型」の管理職か、部下の背中を押して最高のパフォーマンスを達成する「ビジネス創造型」の管理職のといってもよいであろう。

そもそも権限執着型の管理職は、管理職になる前から権限にあこがれて下積み時代を過ごしている。よって、管理職になったとたんに、うれしくて権限行使をしてみたくなる。結果的に度が過ぎて業務は停滞して、自部門から優秀な人材も育たないことになる。一方、ビジネス創造型の管理職は、下積み時代から仕事の成果や顧客への貢献度、あるいは社会への寄与を意識しているので権限などに興味はない。権限は組織を潤滑に回す道具であり社内のルールではあるものの、それだけで仕事の成果は出ないことを知っているので、権限行使は最低限に抑えて、多くを部下に任せることになる。

このように組織内は階層的に権限が決められ、それに対して承認を与える管理職がいる。そして、この管理職が権限執着型になるのかビジネス創造型になるのかは、社内教育や企業文化が大きく影響することと思う。最初はビジネス創造型の管理職が多かったのに、組織が肥大化する過程で権限執着型の管理職が増えてしまうことも多い。

私はこの権限執着型の管理職の増殖を許す原因の一つに、日本の稟議書があるのではないかと思っている。形式を重んじる稟議書では、立案者が時間をかけて立派な書式で作成し、承認者である管理職が一発で承認も否決もできるシステムである。

一方、私が勤務していた外資系保険会社の承認プロセスは電子メールのみである。たとえば、承認してもらいたい事項の根拠を示して、最後に “I would be grateful, if you could support me on this business.”(このビジネスに関してあなたの承認を頂ければありがたいです。)などと書き、海外にいる上席者が一言 “You have my support”(あなたを支援する)とか、単に”Approved”(承認した)とか、“Agreed”(同意した)とか、あるいはもっと簡単に、ただ ”Noted”(了解した)などと書いて承認してくる。そして、承認しない場合は論点の照会があり、そこから内容に関して対話がはじまる。もし最後に承認されれば前述の英文が読めることになるし、もし承認されない場合は、”I would pass this business”(本件は見送る)などと書かれて終わる。

しかし重要なのは、承認のプロセスが対話型になっており、日本のようにセレモニー型になっていないことである。上席者は偉そうに承認のハンコを押したり、否決して差し戻したりするようなことはない。承認依頼をされている事項を理解し対話できるだけの専門性が必要なわけである。そのような視点でみると、アメリカの管理職は日本の管理職をみてどのように思うのであろうか。よく専門性もなく仕事を回せるな、という驚きと、やけに接待が多くて家族との関係は大丈夫なのかという余計な心配かもしれない。