スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

資本主義から降りるための「仮想コミュニティ経済」

クラウドファンディングは、「持続可能なファイナンス」と思いましたが、もしかしたら、間違いであることに気がつきました。オーナーも支援者も、負担にならない範囲で実行してみるという意味では、持続可能だと思ったのです。しかし、ちょっと違うかもしれません。

理由は、仮に今回私がプロジェクトをやり切り、その後、また来年新しいプロジェクトをはじめて、同じ方に支援をお願いできるでしょうか。私にはできません。そうです。クラウドファンディングは、人生の「ここぞ」という時の勝負に使うべきだったのです。今さら気がつきました。

そして、ここからが重要です。では持続可能にするにはどうすればいいのでしょうか。一人ではダメだということです。仮に今回の支援者の誰かが、クラウドファンディングをはじめたら、金額の多寡は別にして、私は速攻で支援すると思います。そして、また別の支援者がプロジェクトをはじめたら、また支援するでしょう。まるで保険の原点の共済に似ています。

そして、このコミュニティの中で、支援者が次々と資金調達をして、プロジェクトも成功していくとします。そうすると、そのコミュニティの中で、いろいろ融通し合って、またコミュニティ全体が発展していくわけです。クラウドファンディングは、このような方法で既存の資本主義の枠組みとは違う利活用ができるのかもしれません。

今までの資本主義は、みんなが「一人勝ち」を狙っています。競争が善であり、常に自分が競争優位を築くためにはどうすべきか、頭を悩ませます。でもクラウドファンディングの共済的な活用法であれば、コミュニティ全体の発展がなければ、自分の豊かさもないわけです。だから必然的に仲間を支援したくなります。他人を出し抜こうなどということもないので、疲弊もしません。

そういう意味で、今回支援してくださったどなたかが次のクラウドファンディングをはじめていただきたいと感じました。そして、みんながどんどん豊かになっていきます。コミュニティ経済というのは、地域に根差した経済を意味するので、これは、既存の資本主義にNOをいう、「仮想コミュニティ経済」なのかもしれません。

クラウドファンディングを実行する心理的負担

日本国内にある社会人大学院を、どのように活用していくか、メンバーで研究していくコミュニティをつくろうと考えています。仕事の質を上げる、キャリアアップする、人生を豊かにする、いろいろ目的は異なるでしょうが、参加者にとって新しい発見や驚きがある研究会にできれば理想です。

そして、その設立趣意書ともなる本の出版も計画いたしました。資金調達は、80万円を目標に、リンクのクラウドファンディングを使ってみました。

社会人大学院に関する本の出版と研究会の立ち上げ - CAMPFIRE (キャンプファイヤー) (camp-fire.jp)

審査を通すのに何度も修正が必要だったのは大変でしたが、それは想定内。問題は誰に案内するかです。単刀直入に「金を出してくれ」という話です。お願いできる相手を選ぶのも慎重になります。

人によっては、「お金あるのに、なんで他人にお願いするの」と思われないかとか、「要は金融詐欺でしょう」とか考える人がいるのではないかと気になります。「こいつもついに物乞いか」なんか最悪のパターンです。

ちなみに、お金はありません。お金はあっても、どんどん出ていきます。子どもの入学金や授業料が大きいかもしれませんね。贅沢な暮らしをしているわけでもありません。車はないし、お酒も飲まない、食事も質素でも文句はなく、服も長く着れるものを買い無駄にしないなど、それなりに清貧の思想が染みついています。それがいいことかどうかわかりません。「だからお金が流れないだよ」とかセレブからいわれそうです。

しかし、自分が支援をお願いされた過去2回を考えると、それほど深くは考えなかったかもしれません。すぐにクレジット・カードで支払い、本人に連絡いたしました。1万円以下の支援ですが。結局、自分が気にするほど、相手は何も思っていない可能性もあります。よって、あまり考えずに、連絡の取れる友人・知人に一通り案内しました。

やってしまえば、大したことがないのがクラウドファンディングかもしれません。自分にも相手にも負担にならない程度に「やってみなはれ」の精神でやってみるということでしょう。株式上場を前提に資金調達するのとは違います。それこそ金融詐欺みたいな事例は身近に散見されます。それに比べればかわいいものです。

ということで、クラウドファンディングは、他人に迷惑をかけない範囲でやっている分には、ゲームと思って気軽にやってよいとの結論に達しました。

お金に関する解釈は、別途リンクにまとめていますので、ご参照ください。

お金のエネルギーが降り注ぐかな | 見えない世界を知る (ameblo.jp)

ジョブ型雇用が日本に浸透しないある理由

ジョブ型雇用が日本社会で浸透しにくい状況が続いています。その理由が二つあると思います。その一つに、経営者がジョブ型雇用を理解していないことです。もう一つが、ジョブ型雇用の旗振り役であるはずの人事部が、ジョブ型人材ではないということがあります。

まず経営者ですが、日本の経営者は、経営のプロ人材ではありません。日本の場合、従業員という雇用契約の状態で、同じ会社に所属しながら出世をしてきた人が、そのまま経営者になるというのが一般的です。経営者になったとたんに、会社との委任契約になりますが、突然マインドを切り替えることはできないですし、委任契約の法的な理解もほとんどできていないと思われます。

委任契約といのは、弁護士が顧客と契約するときに締結するものと同じ法的性質で、雇用契約とはまったく別物です。会社に対して、善管注意義務や忠実義務を負います。会社の利益と自分利益が対立した場合、自分の利益は捨てなければなりません。「捨てるべきだ」ではなく、捨てなければならないという「義務」です。

このような基本的認識を欠く経営者は多いと思います。それは役員報酬の開示規制に現れます。会社法が改正されるたびに、いつも議論になりますが、役員個人の報酬額を開示することに関して、強い抵抗があります。プライバシーの侵害だという理屈がよく出されます。しかし、会社の資金の出し手である株主との関係では、会社の資金使途の開示として、役員報酬を開示することはプライバシーの侵害ではありません。

さらに考えると、上場会社という「公共の器」としての性質を持つ組織の経営者は、自分の報酬額を開示することによって、適正な評価にさらされるべきともいえます。悪いことをしているわけではないのですから、正々堂々と報酬額を開示し、評価されてもいいのではないでしょうか。しかし、現実は違います。報酬額は開示せず、業績と報酬の検証から逃れるわけです。そのような経営者が従業員に対して「これからはジョブ型雇用だ!」といっても迫力がないでしょう。誰も従いません。

そして、人事部ですが、こちらも多くの人がジョブ型人材ではないので、どのようにジョブ型雇用を導入すべきかわかるわけがないと思います。メンバーシップ型で最後まで会社にお世話になろうという方が楽なはずです。自身も人事部から人事異動によって、数字で厳しく評価される営業部にいつかは戻るかもしれないと思えば、メンバーシップ型で、みんな仲良くの方がいいに決まっています。これでは、ジョブ型雇用が浸透するわけがありません。

そして、多くの人は、ジョブ型雇用が導入できない阻害要因をいくつも探してきて言い訳として使います。この点は、日本のビジネスマンの得意分野ではないでしょうか。できない理由を探して、できる方法を探さない。毎日忙しい業務を遂行し、忙しい自分に酔う、ということが永遠に続くわけです。

日本の労働市場はどうしたら変わるのでしょうか。おそらく今のままでは変わらないでしょう。唯一変わるとするなら、多くの企業が経営破綻しだして、経営者が責任追及訴訟を提起され、労働者が労働市場に投げ出されたときかもしれません。そのような悲惨な結末を誰も望まないわけなので、手前で手を打てばいいのですが、残念ながら人は痛い目に合わないと変われないものだと思います。

一方、痛い目に合っても、他人のせいにして、周りを批判している人が多いのも事実ですので、それでも変わらない可能性はあると思います。日本の良いところでもあり、悪いところでもあるでしょう。

未知の通信技術「5G」は危険なのか

最近、変なめまいがしており、何が原因かと考えていました。そこで、いくつか想定できそなことのうちの一つが、新しく購入したiPhoneでした。今まで個人の携帯電話はガラケーで通してきましたので、よく持ちこたえたと思いますが、時代の流れに逆らえず買い換えたところです。

そして、めまいがはじまった時と、iPhoneに切り替えたときが、およそ同じタイミングで、もしかしたら5Gが原因なのではないかと思ったわけです。その後、設定を4Gにして、5Gを使えないようにしたら、めまいの症状が緩和されてきました。果たして因果関係があったのでしょうか。

アマゾンで検索しても、それらしいことをテーマにした書籍は、ほとんどありませんでした。特に信頼できる著者によるものがないのです。ただ、一つだけ冊子があったので購入したのが、古庄弘枝『5Gから身を守る』(鳥影社、2020年)になります。500円で50頁程度しかない小冊子です。

たしかに、5Gは第5世代移動通信システムといわれるように、新しいシステムで、未知のことが多いと思います。しかも、もともとは、アメリカ国防総省旧ソ連との電子戦争を想定して開発されたものを民生用として使っているということです。つまり電磁波の武器です。

学者による研究では、自然流産や自閉症が増えたということもあるそうです。電磁波放射線を浴びると、頭痛、めまい、耳鳴り、吐き気、胸痛など多彩な症状が出ることもあります。動植物についても悪影響が出ている研究は世界中で報告されています。簡単に5Gは危険という結論を出すにはいけませんが、それなりに研究の積み重ねが進むまで、個々人は警戒感を持って接する方がよいのではないでしょうか。特に子ども要注意だと思います。

リンクのBBCの記事のとおり、2011年にWHOによって、携帯電話は脳腫瘍を引き起こすリスクがあることに警鐘を鳴らしていました。

Mobiles 'may cause brain cancer' - BBC News

しかし、日本ではほとんど報道されませんし、知らない人が多いと思います。マスメディアも通信業界から広告収入をもらうので、通信業界が不利になるような報道はしないのかもしれません。

なおさら、これから普及するであろう、5Gについては慎重につき合う必要があるということでしょう。利便性の裏に潜む危険性を想定しておくことも大切です。ベルギーのブリュッセルでは、5Gの導入を中止しています。スイスでも健康被害を理由に5Gの使用を停止しているそうです。

5Gは、大量の情報を送ることができるものの、近距離しか届きません。よって、100メートルごとに基地局が必要になり、どこでも利用可能にするには、街中に基地局を設置する必要があるそうです。それを聞いただけでも、私たちの住環境に健康被害をもたらす電磁波が飛び交うことをイメージできますが、やはり、通信業界に利害関係のない研究者よる中立的な研究が望まれるとことです。

とりあえず、めまいが完全に治るまで、5Gの設定は外そうと思います。完治したら、5Gを入れてみて、そこでめまいが再発するようであれば、因果関係ありと考えてもよいと思います。しばらく様子をみてみようと思います。

大手経済紙を購読する価値はなくなった

大手経済紙の調査能力はいかほどのものでしょうか。大学生の頃、就職活動のために購読すべきであることがいわれました。よって、自分も当然購読していました。企業側の面接官も読んでいるし、話題になった時に対応できるようにということなのでしょう。

しかし、経済紙に掲載されている記事は、ミスリーディングなことが多く、内容も浅いので、私は読む価値があったのか疑問です。経済界全体で、経済紙を読むべきだという雰囲気を醸成して、販売部数を確保しているというのが、実際の背景なのではないでしょうか。

たとえば、2023年1月31日の日本経済新聞によると、「役員賠償保険値上げ続く」という記事があり、保険料率が5年で2.7倍に上昇し、気候変動をめぐる訴訟の増加で、今後の上昇の可能性があるといいます。この記事は真実でしょうか。過去の事情も事実か疑わしいし、今後の予想はミスリーディングです。

まず、役員賠償責任保険の保険料上昇のピークはもう過ぎており、少しずつ落ち着いてきています。しかも世界的には保険会社の新規参入で供給過剰になり保険料が下がりだしています。新聞社が取材して記事にしようと企画してから時間が経過したので、少しタイミングのズレた記事になったのでしょうか。

そして記事の内容は、日本企業も気候変動訴訟のリスクが高まると煽ります。見せかけの環境対策、すなわち、「グリーンウォッシュ」によって、虚偽記載の訴訟が増えることが懸念されるといいます。

しかしこれは、外資系の保険会社が役員賠償責任保険のニーズ喚起のために使われるマーケティング材料であり、それが記事になってしまっただけです。不実開示で金商法違反だというのは、理論的にはあり得ますが、日本ではそう簡単に訴訟は起きないと思います。

このように、業界の情報を鵜呑みにしたのか、それとも意図的にリスクを煽り、保険のマーケティングをサポートしているのかわかりませんが、実態を知るものにとっては、何か特別な意図が働いて、このような記事が出てくるのかと勘繰りたくなりました。こうなると、その他の記事についても疑わしくなり、経済紙といえども経済の専門家ではないということが推察できるわけです。

昔、経済紙のインサイダー取引の記事に「チャイニーズウォール」と表記すべきところを、「ファイヤーウォール」と誤用していたことがあり、会社の上司がクレームの電話を入れていたことがあります。そんな電話を経済紙にかける上司もどうかと思いましたが、経済紙の記者といえども間違えるわけです。時間に追われて校正の暇もないのでしょう。

本来、証券会社の引受部門と営業部門の間に、不正な取引を回避するために設けられる情報障壁は「チャイニーズウォール」なわけです。ファイヤーウォールは、銀行と証券の垣根のことです。毎日、大量の情報を記事にして、次々と取材をこな記者の大変さというのも理解できますが、経済紙の記事の質はこのような水準になります。

私も過去に一度だけ、役員賠償責任保険について取材を受けたことがあります。自分のコメントが記事になり、はじめて自分の名前が日本経済新聞に掲載されたことで、知人に賞賛されたことがあります。しかし、新聞が発刊される前に、記事の内容を確認することは許されず、誤っていようと修正や訂正することはできませんでした。このような状況ですから、記事の信頼度も疑わしいわけです。それを大学生に読めと煽るわけですから、まっとうな仕事といえるか疑わしいとも思えます。

それでもニーズがある限り、新聞という業界は存続するのでしょうが、さすがに代替のメディアも出てきているので、今後も必要性があるのかわかりません。大学生が読む分にはいいでしょうが、社会人が読む価値はほぼなくなってきているのではないかと思いました。

優生思想と同根の「Fランク大学」切り捨て論

あるSNSで、ボーダーフリー(以下「BF」)の大学不要論が主張されていました。Fランク大学ともいうようです。私は、少し違う考えもあるだろうと思い、BF大学も意味があって、現時点で存在しているのであり、税金の無駄だから潰せだとか、無気力な学生は大学に行く必要がないというのは、短絡的な結論ではないかと思い、SNS上にコメントしました。

まず、一点目ですが、どのような人でも大学に行く機会があるのであれば、行くべきだし、学力がないのに進学するのは無駄だというのは、思い込みだという考えです。BFの大学に行ったとしても、そこで学問の面白さに気づく人がいたり、急にスイッチが入り、努力をはじめる人がいるかもしれません。その可能性をわざわざ摘んでしまう必要はないでしょう。

二点目は、教育年数が1年増加すると所得が9%増加するという経済分析に基づくと、大学進学率を上げることは、国をけん引する力になるという考えです。すべての国民が高度な教育を受けることに意味があるし、やる気があろうがなかろうが、あらゆる学生の向上心に火をつけるのが高等教育の役目でもあるでしょう。そして、大学で高等教育を受けた多くの人が、日本全体の労働生産性を上げることにより、国民全体の所得を増やして税金を払うことで、良い循環が生まれることになります。

しかし、以上の2点について、2名の方からそれぞれ反論のコメントがありました。まず一点目については、私の見解には、視聴者は明らかに違和感を感じるし、BF大学への補助金も無駄だという主張です。二点目については、BF大学の学生を母集団にしないと、本当に所得が上がるのかわからないし、おそらく無気力な学生の所得が上がるという有意なデータは得られないだろうということでした。

まず一点目の反論は、SNSの弱点でもあると思うのですが、一つのコミュニティには同質な人、類似した思想の持主が集まるので、そこで異質な見解が出ると、違和感があるとい結論が導き出されます。この方には多様な考えがあることの想像がつかないようです。ここでは、参加者がみな同じ志向の持ち主であるという前提になっています。あるコメントに対して、「いいね」でも押してもらって、みんなで調和を得て喜んでいるような世界です。これでは、ますます自分の信念を強化するだけで、違う世界をみることができません。

また、BF大学への運営費交付金の支給も無駄だといいますが、これは国家としての投資です。投資は通常、ポートフォリオを組んで行われますから、無駄ではありません。戦略的な投資です。BF大学から技術革新が生まれるかもしれないし、その大学の学生がイノベーションを起こすかもしれません。それを否定していては、投資のポートフォリオの意味がありません。そもそも、日本においては、もっと別な分野で、税金の無駄使いが発生しており、BF大学への支援など、かなり少額な部類に入るでしょう。

二点目の反論ですが、BF大学の学生を母集団にして、データを取れば、有意な差が出ないだろうというものです。しかし、あくまでも仮説に過ぎませんので、誰にもわかりません。一方、一部の優秀な大学に投資したところで、国力が上がる証拠もありません。小泉純一郎政権以来、新自由主義の旗印のもと、国立大学は法人化され、苛烈な競争が繰り広げられました。その結果現場は疲弊して、日本の研究力はがた落ちです。一部のエリートだけで国力が上がるほど単純ではないわけです。もし、一部のエリートにだけ投資をしろというのであれば、もう結果は出ています。失敗という結果です。今の日本と日本企業の凋落をみれば結論は出ています。

私の見解に反論してきた2名の方は、おそらく優秀な方なのでしょう。学力もあり、有名大学に在学しているか、卒業された方かもしれません。しかし、日本の現状をみれば明らかなように、選択と集中は失敗だったのです。競争原理も貧富の格差が固定されて、6人に1人が貧困ライン以下の生活ということで、もうどうにもならない状況があるわけです。一人勝ちなど幻想で、国民みんなが浮上しなければならないのです。

さらに、BF大学を潰せという主張は矛盾しています。本当に競争が善と思っているのであれば、市場原理に任せれば、そのうち自然に淘汰されます。無理して切り捨てる必要はないのです。あなたたちが議論するまでもないので、放っておけ、ということです。少なくとも今は意味があるから存在しています。それは、文部科学省天下り先としての意味かもしれません。それでも意味はあるのです。善悪二元論で片づけられるほど、現実は単純ではないのです。

今回のSNSにおける反論には、私は少なからず驚かされました。BF大学や大学生は切り捨てろという考えや、一部のエリート大学に税金を使えという、ある意味で、選民思想や優生思想と変わらない信念が、ネットの世界に存在しているということです。非常に恐ろしい世界が形成されているし、それに対して反論もあまり出てこないという現実です。いつから日本はこんな冷たい国になったのでしょう。

現実の世界では、様々な考えや信念の人と対峙せざるを得ません。実際の職場でも異なる議論が百出するものです。そのように考えると、SNS上に作られたコミュニティに浸かりすぎるというのは恐ろしいことだと思いました。この仮想の世界に作られる、精神性の貧しい、あるいは霊性の低い議論にこれ以上かかわるつもりはなかったので、沈黙を維持することにし、その場を離れました。

私は、BF大学の学生の情熱に火をつける優秀な教員がもっと増えてもらいたいし、付加価値の高い労働を提供できる人の裾野を広げて、人材の層に厚みを持たせるためにも、国家が広く投資してくれることを望んでいます。そして、どうせ議論するなら、どうやって無気力な学生のハートに、情熱というエネルギーを注ぐのかということをテーマにしてもらいと思いました。最後に、コメントいただいた二人の方には、ノブレス・オブリージュnoblesse oblige)というフランス語を人生の指針として差し上げたいと思います。

資本主義から降りるという選択肢

あらゆることのインセンティブが「お金」という世界から降りることは可能でしょうか。もしそれが実現できれば、かなり快適な人生が送れます。日々の生活には最低限のお金が必要です。それすらも欲しない人生というのは、逆につまらないかもしれません。

まずはっきりさせておきたいのは、金儲けがいけないことであるなどと思う必要はないということです。お金はエネルギーなので、もし自分のところにお金が集まってくるのであれば、それは適切に使うことで、またお金が循環すると思います。そして、さらにお金が集まるように再投資をするとよいでしょう。

ただし、ここで踏まえておかなければならないことがあります。お金は、いくら稼いでも、いくら儲けても、それで十分といえる水準がないことです。そうです、青天井です。ですから、お金を中心に人生を組み立てると厄介なことになります。そして、もし資本主義から降りることができた場合は、おそらく「自由」が手に入り、幸福感を味わいやすくなるのではないかと想像します。

なぜ、このようなことを考えたかというと、政治、経済、医療、教育、防衛など、あらゆることのインセンティブが「お金」に起因しているのではないかと感じるからです。経済は当然お金が原動力なのは当たり前ですが、政治も医療も教育、そして軍事までもがお金を中心に回っています。表向きは主義主張や思想などで偽装されていますが。

とても警戒しなければならないのは、最近、日本が戦争ができる国になるための準備を、着々と進めていることです。北朝鮮のミサイル問題がありますが、北朝鮮がわが国にとって脅威であることが強調され過ぎます。本来、北朝鮮が脅威ではないことは、冷静に考えればわかることです。あの小国が、日本に攻め込むほどの国力があるはずがありません。

戦争においては兵站が肝になりますが、北朝鮮と日本の間の補給、輸送、整備、衛生、人事、行政管理など維持できるでしょうか。どう考えても無理なわけです。でも脅威を煽ることで、軍備増強につながるし、そこからビジネスも生まれるので、やはり北朝鮮は脅威であってもらわねければ困る人たちがいるわけです。

あらゆる分野で恐怖はビジネスを創造します。私の専門分野である保険もそうです。あらゆるリスクを列挙して、そのリスクの対処法を考えさせて、顧客に保険を売り込みます。医療もそうです。健康診断で、基準値から外れていますので危険ですと煽り、薬を売り込みます。たとえ、その基準値が恣意的に設定されているとしてもです。

教育はどうでしょうか。いい学校に行けなければ、いい会社にも入れないから、もっと塾に通わなければいけないといい、お金を使わせます。社会人にもリスキリングだといい、当人にとって有用かどうかわからない教育や研修を受けさせます。一方で、1990年代以降、対GDP比の教育に対する一般政府支出は約3%となり、それ以前の約5%から減らされていますので、庶民はますます困窮するわけです。

このような社会を作り出す源泉はなにかと考えると、やはり「お金」でしかありません。資本主義をベースにする限り、私たちは常に競争し続けます。学校でも会社でも、とにかく死ぬまで競争です。ですから資本主義から降りるという選択肢が必要になります。自分自身、まだ降りる方法を知りませんが、いつかみつけたいと思っています。

きっと近い将来、資本主義から降ります、という人が急激に増える時代がくるでしょう。5年経過すればその兆しがみえ、10年経過すれば、それが確信に変わるのではないかと思います。私の子どもたちの世代は、かなり違う風景になっていると思います。もちろん、今よりも良い時代になっていると思っています。