スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

人としての能力を奪うIT技術に注意

最近、30年前に書いた修士論文の要約を書く機会があった。30年前の論文は400字詰め原稿用紙に手書きである。幸い、20年前にその手書き論文を業者にお願いして、ワードでタイプしてもらっていたので、ワード原稿で読むことができた。さぞかしひどい論文かと思ったが、内容はともかくとして日本語はまともであった。意外な結果を不思議に思い、いくつか仮説を考えてみたところ、次のことが思い当たった。当時、20代前半の自分には、自説を展開するほどの頭はないので、ほぼ権威のある学者の論文の引用であったこと。もう一つ重要かもしれないことは手書きであったので、文章がしっかり書けていたという仮説である。

川島隆太スマホが学力を破壊する』(集英社新書、2018年)によると、脳の活動を計測する実験で、手書きで手紙を書くと前頭前野は活発に働くのに、パソコンや携帯電話で手紙を書いても、前頭前野が働かないそうである。なんとも恐ろしい事実ではないか。前頭前野は、人間を人間たらしめている脳の一部で、考える、記憶する、アイデアを出す、感情をコントロールする、判断する等、人間にとって重要な機能を担っている。この前頭前野が衰えると、感情的になったり、切れたり、考えることができなくなったりする。

川島氏の実験結果による仮説は、パソコン等を使っているときは、キーボードを入力して出てきた文字を変換するだけでいいのに、手書きであれば複雑な漢字を思い出し、手書きしなければければならないので、前頭前野が活性化するというのも。IT技術を使うことによって便利になったものの、その分、前頭前野の機能を使わないことになると、その機能は明らかに衰えるという事実に危機感を感ぜずにはいられない。その他、手書きでメモする学生とパソコンでメモする学生を比較すると、手書きの学生のほうが、記憶が定着して成績がよいという研究も複数あるので、やはり手書きをあなどってはいけないということである。

このような背景を考えると、30年前に書いた論文は前頭前野をフル回転させていたので、日本語の文章も比較的しっかりしていたのかもしれない。少なくとも自分の感覚からすると、30年の間に自分の文章力に進歩は感じられなかったといえるぐらい、自分の30年前の文章は今の文章と遜色はないというのは驚きである。

また、重要な発見に日本語の誤りが極端に少なかった。たとえば、一例でしかないが、多くの人が誤る「○○に鑑み」を間違うことなく書いていた。その後、社会人になって「○○を鑑み」という誤った表現が身についてしまっていた自分は、学生時代よりも日本語力が衰えていたことになる。ここでも一つの仮説が成り立つが、昔は文章を読むときは書籍や雑誌、論文しかなかった。それは練りに練って書かれた文章だったので、私たちは良質で洗練された文章しか読む機会がなかったといえる。ところが、インターネットが普及し、悪文も含めて様々な文章を目にする機会が増えた。その結果、私たちの文章も乱れてきたということはあり得るであろう。インターネットで簡単に情報が取れるのは良いことであるが、その副作用として読まなくてもいい情報まで読んでしまっているということかもしれない。あるいは質の悪い文章も読まされているということかもしれない。

また、最新のIT技術の弊害にWeb会議がある。人と直接会わなくなることでも前頭前野が衰えることがある。実際に対面で話をすると前頭前野は大いに活性化するのに、Web会議であると前頭前野はほとんど働かないということである。対面であれば空気を読むという高度なコミュニケーション技術をフルに活用する必要があるのに、Web会議では不要になるということかと思われる。

最近、カナダのトロントでお世話になった英語の先生と20年ぶりにWeb会議システムで話をした。たしかに懐かしく楽しかったが、思ったよりも感動がなかった。久しぶりに人と会うときに感じるときめきというのもがなかった。そして、感動の余韻も意外に残らなかった。あまりにもあっさりした後味に自分でも意外な印象を持った。おそらくWeb会議システムというIT技術のためだと思われる。

このように、在宅勤務が増えて働き方も変わってきているが、IT技術がすべてを解決することはないようである。むしろ、IT技術も抑制的に使っていかないと、人間は脳の重要な部分を使わなくなり衰えるとともに、人間らしさも失われてしまうのかもしれない。最新技術を活用して効率的な仕事をして生産性を上げることも大切ではあるが、あえて非効率と思われる手書きを取り入れることや、対面による会話を心がけるということも重要かもしれない。テクノロジーに100%依存していれば万事うまくいくということではないのであろう。何事も中庸が大切ということか。