一年以上前に渡辺由美子『子どもの貧困』(水曜社、2018年)を読んで、貧困層にいる子どもたちを支援しようと決めておきながら、そのことを忘れていたことを思い出した。当時、NGOを通じて海外の二人の子ども支援していたが、一人減らして、もっと身近な日本の子どもをと思ったのである。NGOを通じての支援は25年以上続いていたので、何となく惰性もあり、子どもに対する思いも、当初に比べると希薄になっていたので、少し状況を変えようと考えた。
なぜ、一年以上経って日本の子どもの支援を忘れていたことを思い出したかというと、長男の大学受験のために塾代がかかり、私立理系を希望しているので、学費などを調べると、初年度納付金が180万円というのが一般的ということで驚いたからである。自分はある種のおそれを感じた。欠乏のおそれである。日本で大学に行くことがそんなにお金のかかることだったのだということが、自分の目の前の現実によって、あらためて気づかされたというところであろう。以前からおおむね知っていたのに、いざとなるとこれは大変なことになったと感じた。
一方、渡辺氏は、貧困層の子どもに対して無料の塾を運営している。ある時、中学三年生の子どもから彼女のところに、自分がその塾で学んでもよいか問い合わせのメールが入る。そして、塾に通えるなら保護者と相談してぜひ参加してと返信する。数日して、その子の保護者からメールが届く。
「先日、子どもの〇〇が問い合わせした母です。恥ずかしながら、貧乏子だくさんで5人の子どもがおります。夫婦二人で一生懸命働いてもなかなか充分な収入が得られません。○○は一番上で、友達がみな塾にいくから、自分もいきたいと言われました。できることなら、私たちも塾にいかせてやりたいのですが、下の子もいるのでどうしても塾にいかせることができません。「塾にいかせて欲しい」、「塾になんかいかなくても、きちんと自分で勉強すれば受験はできる」と毎晩親子喧嘩をしていました。今回、こちらの無料塾のことを子どもから聞き、本当に涙が流れました。兄弟が多いばかりに、子どもたちに十分にしてやれずにいつも申し訳なく思っているのですが、、、、」
ということである。兄弟が多くて申し訳ない。このようなことを親に思わせる日本の教育システムはどうなってしまったのだろう。何ともいいようがない。
わが家は五人ではないが、三人の子どもがいる。長男の大学受験のための塾には数十万かかった。大学に入るためにすでに数十万で、入学したら180万円である。この無料の塾に通う子どもは、大学に行きたいと思ったらどうするのだろうか。奨学金とかもあるだろうがいばらの道である。
とりあえず、自分は三人の子どもと、このような現実があることをしっかり話し合い、家族として、毎月無料の塾への支援をはじめることにしたいと思う。自分には無料塾で教える時間もないし、できることといえば、毎月のささやかな財政支援しかない。そして自分に対する最大の便益は、そのことを通じて、当初感じた欠乏に対するおそれを払拭することにある。欠乏のおそれは、自分が勝手に感じていることであり、本当は十分にあるということを思い出す必要がある。お金というのは誰にでも必要なだけ十分あるということ。それは精神論ではなく、真実なのではないだろうか。お金は川の流れのように、常によどみなく流れていくものなのだと。