スペシャリストのすすめ

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優生思想と同根の「Fランク大学」切り捨て論

あるSNSで、ボーダーフリー(以下「BF」)の大学不要論が主張されていました。Fランク大学ともいうようです。私は、少し違う考えもあるだろうと思い、BF大学も意味があって、現時点で存在しているのであり、税金の無駄だから潰せだとか、無気力な学生は大学に行く必要がないというのは、短絡的な結論ではないかと思い、SNS上にコメントしました。

まず、一点目ですが、どのような人でも大学に行く機会があるのであれば、行くべきだし、学力がないのに進学するのは無駄だというのは、思い込みだという考えです。BFの大学に行ったとしても、そこで学問の面白さに気づく人がいたり、急にスイッチが入り、努力をはじめる人がいるかもしれません。その可能性をわざわざ摘んでしまう必要はないでしょう。

二点目は、教育年数が1年増加すると所得が9%増加するという経済分析に基づくと、大学進学率を上げることは、国をけん引する力になるという考えです。すべての国民が高度な教育を受けることに意味があるし、やる気があろうがなかろうが、あらゆる学生の向上心に火をつけるのが高等教育の役目でもあるでしょう。そして、大学で高等教育を受けた多くの人が、日本全体の労働生産性を上げることにより、国民全体の所得を増やして税金を払うことで、良い循環が生まれることになります。

しかし、以上の2点について、2名の方からそれぞれ反論のコメントがありました。まず一点目については、私の見解には、視聴者は明らかに違和感を感じるし、BF大学への補助金も無駄だという主張です。二点目については、BF大学の学生を母集団にしないと、本当に所得が上がるのかわからないし、おそらく無気力な学生の所得が上がるという有意なデータは得られないだろうということでした。

まず一点目の反論は、SNSの弱点でもあると思うのですが、一つのコミュニティには同質な人、類似した思想の持主が集まるので、そこで異質な見解が出ると、違和感があるとい結論が導き出されます。この方には多様な考えがあることの想像がつかないようです。ここでは、参加者がみな同じ志向の持ち主であるという前提になっています。あるコメントに対して、「いいね」でも押してもらって、みんなで調和を得て喜んでいるような世界です。これでは、ますます自分の信念を強化するだけで、違う世界をみることができません。

また、BF大学への運営費交付金の支給も無駄だといいますが、これは国家としての投資です。投資は通常、ポートフォリオを組んで行われますから、無駄ではありません。戦略的な投資です。BF大学から技術革新が生まれるかもしれないし、その大学の学生がイノベーションを起こすかもしれません。それを否定していては、投資のポートフォリオの意味がありません。そもそも、日本においては、もっと別な分野で、税金の無駄使いが発生しており、BF大学への支援など、かなり少額な部類に入るでしょう。

二点目の反論ですが、BF大学の学生を母集団にして、データを取れば、有意な差が出ないだろうというものです。しかし、あくまでも仮説に過ぎませんので、誰にもわかりません。一方、一部の優秀な大学に投資したところで、国力が上がる証拠もありません。小泉純一郎政権以来、新自由主義の旗印のもと、国立大学は法人化され、苛烈な競争が繰り広げられました。その結果現場は疲弊して、日本の研究力はがた落ちです。一部のエリートだけで国力が上がるほど単純ではないわけです。もし、一部のエリートにだけ投資をしろというのであれば、もう結果は出ています。失敗という結果です。今の日本と日本企業の凋落をみれば結論は出ています。

私の見解に反論してきた2名の方は、おそらく優秀な方なのでしょう。学力もあり、有名大学に在学しているか、卒業された方かもしれません。しかし、日本の現状をみれば明らかなように、選択と集中は失敗だったのです。競争原理も貧富の格差が固定されて、6人に1人が貧困ライン以下の生活ということで、もうどうにもならない状況があるわけです。一人勝ちなど幻想で、国民みんなが浮上しなければならないのです。

さらに、BF大学を潰せという主張は矛盾しています。本当に競争が善と思っているのであれば、市場原理に任せれば、そのうち自然に淘汰されます。無理して切り捨てる必要はないのです。あなたたちが議論するまでもないので、放っておけ、ということです。少なくとも今は意味があるから存在しています。それは、文部科学省天下り先としての意味かもしれません。それでも意味はあるのです。善悪二元論で片づけられるほど、現実は単純ではないのです。

今回のSNSにおける反論には、私は少なからず驚かされました。BF大学や大学生は切り捨てろという考えや、一部のエリート大学に税金を使えという、ある意味で、選民思想や優生思想と変わらない信念が、ネットの世界に存在しているということです。非常に恐ろしい世界が形成されているし、それに対して反論もあまり出てこないという現実です。いつから日本はこんな冷たい国になったのでしょう。

現実の世界では、様々な考えや信念の人と対峙せざるを得ません。実際の職場でも異なる議論が百出するものです。そのように考えると、SNS上に作られたコミュニティに浸かりすぎるというのは恐ろしいことだと思いました。この仮想の世界に作られる、精神性の貧しい、あるいは霊性の低い議論にこれ以上かかわるつもりはなかったので、沈黙を維持することにし、その場を離れました。

私は、BF大学の学生の情熱に火をつける優秀な教員がもっと増えてもらいたいし、付加価値の高い労働を提供できる人の裾野を広げて、人材の層に厚みを持たせるためにも、国家が広く投資してくれることを望んでいます。そして、どうせ議論するなら、どうやって無気力な学生のハートに、情熱というエネルギーを注ぐのかということをテーマにしてもらいと思いました。最後に、コメントいただいた二人の方には、ノブレス・オブリージュnoblesse oblige)というフランス語を人生の指針として差し上げたいと思います。