2020年11月27日の日本経済新聞・私の履歴書に元東京大学総長の小宮山宏氏の「信託基金」に関する記事を目にした。ハーバード大学やスタンフォード大学といったアメリカの私立大学では卒業生から寄付を集め、巨額資金によって投資による運用益を得ているという。そして、同じように東京大学でも2008年に120億円の基金を集めて運用したが、リーマン危機により運用益を出せずに失敗したということである。
そもそも、アメリカの私立大学の大学基金は、優秀なファンド・マネージャーがおり、非常に高度な投資手法を駆使して投資運用益を確保しており、日本で同じようなことをしようと思えば、とても120億円などという規模では厳しい。また、有能なファンド・マネージャーを雇うのにも高額な報酬がいる。ハーバード大学の基金の規模は4兆円近くあり、ファンド・マネージャーの報酬も、おそらく1億円以上ではないかと思う。このような世界を夢見て、トヨタ自動車や三菱UFJ銀行など日本の大手企業の支援を得た小宮山氏であったが、残念ながら信託基金への期待は幻に終わったようだ。
信託の歴史を深く理解しているわけではないが、新井誠『信託法〔第4版〕』(有斐閣、2014年)より、信託の起源を簡潔に説明すると次の通りである。
そもそも、信託の発祥はイギリスである。そして、信託(trust)の起源はユース(use)といわれる制度で、13世紀に十字軍や百年戦争のときに、遠征する騎士(委任者)たちが、残される家族(受益者)のために土地を管理するように友人(受託者)に託したのがはじまりである。非常に優れた制度だったので広く普及したわけだが、財産を預かった友人が、債権者から財産を差し押さえられた場合に、預かった財産も同じく差し押さえられる不都合があった。あるいは、友人による横領が発生してしまうことがあった。また、財産名義を他者に移転するという特質を悪用し、封建領主からの負担や課税を回避するために、ユースは濫用されるようになり、王権側からユースを禁止されることになってしまった。しかし、ユースの機能に対するニーズはあったので、その後、そのような不都合を回避するために信託制度が登場することになる。そして、「信じて託す」という概念が、そのまま信託という呼び名になっている。
このような歴史の積み重ねがあり、預かった資産の運用技術も経験と実績に裏打ちされたものであった。そのような基盤の上にあるのが信託であり、大学基金である。イギリスの信託制度はアメリカにも渡って発展しているので、確実に信託の思想と理念、そしてノウハウはアメリカにも継承されている。アメリカでは、フロンティア開拓のための資金調達手段として信託が利用され、イギリスよりも商事的色彩を強くもって発展しているということ。さすが金融大国である。
一方、日本に信託というものが到来したのは、1905年の担保附社債信託法にはじまり、その後、信託法や信託業法などが制定され、信託会社や信託銀行も出現するようになった。今では、投資信託や不動産投資信託で、一般投資家にも信託は身近になったが、せいぜい100年ちょっとの歴史しかないことになる。とてもでないが、何世紀もかけて成熟させてきた信託を使ったスキームを、日本の大学ですぐに成功させるのは無理がある。また、アメリカの大学の卒業生のように、日本の大学の卒業生が多額の資金を提供できるほどの資産家になることはない。必然的に寄付金の規模もアメリカに比べると小さくならざるを得ない。
小宮山氏はアメリカに留学し、博士論文も英語で書いているので、アメリカのことは詳しいのだと思う。そこで、アメリカのビジネスの奥義ともいえる投資ファンドというものを、日本の大学基金として成功させ財源を捻出しようとしたのであろう。日本の国立大学といえども研究費が不足して、良質な教育と研究の維持に苦慮しているので、起死回生のチャンスと思ったのかもしれない。しかし、幸いにもリーマン危機のおかげで断念となったわけである。私が「幸いにも」といったのは、日本の大学には基金などよりも公的資金としての長期的な公共投資が必要と思うからである。もちろん、財産を信じて託すという信託という制度は素晴らしいものあるが、イギリスやアメリカが何世紀もかけて熟成させてきた制度を活用して、日本の教育や研究を復活させるのは難しいのではないかと思う。
水島廣雄『信託法史論』(学陽書房、1967年)によると、1800年代後半から1900年代初期までイギリスのケンブリッジ大学で教えていた信託法の大家であるメイトランド教授が、信託はイギリスの法律家の挙げた最も顕著な功績であり、イギリス人にとっての文明に不可欠なものであり、外国の法律にはこれに相当するものがない、といったそうである。また、ドイツの法学者ギルケは、メイトランドに向かって「私はあなたの国の信託を了解することができない」といったほどユニークなもののようである。ドイツやフランスの大陸法を継受した日本の民法でも、かならず物権法と債権法という権利が想定されているが、信託における利益を受ける人(受益権者)の権利は、物権にも債権にも分類できないという難しさがあるそうである
このように考えると、イギリスやアメリカで発展してきた、信託や大学基金、そして、そのビジネス・モデルである投資ファンドによる財源確保は、日本の大学には無理ではないだろうか。そもそも、肝心の優秀なファンド・マネージャーが日本の大学基金のために働くようにも思えない。有能な人材は金融セクターに流れてしまう。よって、アメリカの受け売りではない日本独自の方法によって、日本の高等教育を復活させる必要があると思うわけである。日本の最高学府の教授たちが、なぜそのような提言をしないのか不思議であるが、アメリカを追いかけている限り、そのことに気がつかないのかもしれない。