スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

日本は監視社会を受け入れるのか

コロナ対策で各国の対応が分かれる。スマホから得られる情報を利用して個人の行動を監視し、感染症の拡大をコントロールしようとする社会が中国や韓国、台湾、シンガポールなどで、都市封鎖によるコントロールを試みているのがヨーロッパやアメリカの一部の州である。どちらも普通の人にとって不都合であるし、できればその渦中に入りたくないと思うであろう。日本の対策は中途半端なようにもみえるが、実は絶妙なバランスを取っているもっとも望ましい対応なのかもしれない。

とくに、スマホでの監視は自分の行動履歴が追跡され、ほとんどプライバシーなどないに等しいし、ある一定の感染リスクに達したと判断された場合、突然、レストランや公共施設を使えなくなるというシステムである。日本人の感覚からイメージすることが難しいが、普段はクレジット・カードで買い物ができるのに、あるとき突然クレジット・カードが使えないように国によって管理されるとしたら、それは不便であるし、そのような不安定な状態に置かれることはそれなりにストレスであろう。シンガポールに住んでいる知人の話だと、シンガポール政府は定期的に人の動きを監視するために、政府に雇われた人がスマホに電話をかけてきて、どこにいるのか確認するということであった。さすがに統制のとれた管理国家であるが、自由は奪われ常に監視されている緊張感があり、そのストレスたるや相当なものだと思われる。また、街中には日本と比較にならない数の監視カメラが設置されている。市民の行動はどこかで監視されているのである。

このように、中国やシンガポール、あるいはヨーロッパ諸国に比べると、日本社会は非常に自由度が高い。そして、コロナ対策という観点からは、日本の対応は緩いとう批判も出てくるであろう。しかし、国家権力により行動の自由に制限を加えられ監視されるとについて、だれも歓迎するはずがないと思う。そう思いたいがどうであろうか。そういう意味で、日本は国家による市民の統制が効きにくい、あるいはできない社会でもある。この点、自分たちがいかに恵まれているかをもっと冷静に考えてもよいと思うし、対応が緩いと批判するのであれば、中国やシンガポールのような監視社会に移行することも受け入れるのかをじっくり考える必要がある。

そして、日本は監視社会を採用していない結果、何が起こったのか。一つに、緊急事態宣言の後に営業しているレストランやパチンコ店に嫌がらせをする、他県ナンバーの車に嫌がらせをするなど陰湿な行動がみられた。今は、マスクをしない人に対して正義を振りかざし非難することもあるであろう。これはまるで戦時中の隣組と類似した行動であり、市民による相互監視社会と同じである。隣組はもともと江戸時代の五人組を継承した市民による相互扶助の制度であるが、戦時中には思想の統制や相互監視としても機能し、市民の多くは窮屈に感じ、場合によっては恐怖も感じた。うかつな発言が憲兵隊に密告されれば、拘束されて尋問や拷問されるということもあった。

極論だという人もあるであろうが、一度、監視社会を受け入れると、歯止めが効かなくなる。太平洋戦争がはじまる前、まさかあのような社会になるとはだれも想定しなかったはずである。コロナによる感染者数や死亡者数が増え続ければ、そのような自粛警察の活動も活発になり、それが正当化されるような社会もくるかもしれない。

今、戦時中の苦い記憶や経験というものがどんどん薄れている。戦後に社会が解放されたときの清々しさというもの忘れ去られている。自由を手に入れ思想や行動に制限が加えられなくなったとき、まさしく自律することが要請された。それはそれなりに他律と比べると難しい点もある。しかし、日本人はそれを欲したのであろう。そして時代は過ぎ去り、今は他律をむしろ心地よいと思う人も増えているのかもしれない。自分で自分をコントロールするより、他者に自分のコントロールを任せるほうが楽であると思う人が増えているのだろうか。しかし、他律を選んだ社会の悲観的な結末は容易に想像がつくのではないだろうか。

筆者は他律より自律を好むし、思想や行動の自由も確保したいと思うほうである。公共の利益と私的利益のバランスを取るための模索は続きそうであるが、公共の利益を優先するために監視社会を受け入れる気にはなれない。中国やシンガポールのような監視社会で人生を楽しむこともできそうにもない。各国が暗中模索の状況であるが、日本の対策も狙いが定まらない状況が続く。しかし、正解がない状況で試行錯誤しているのであるのだからそれは仕方がない。むしろ正解があるかのように断定的な見解を表明する人のことを疑うことも必要だと思われる。全体主義を心地よいと思うのであれば別であるが、ときが過ぎれば後悔することが多いことであろう。