スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

コロナ禍による分断を統合へ

世の中の分断が止まらない。飲食店に対する時間短縮要請、企業に対するテレワークの要請、不要不急の外出自粛要請、いろいろ出てくるが、いずれの当事者にとっても生死にかかわるほど重要な問題なので、素直にコロナ対策優先で行こうという結論に一直線にはならない。

政府の後手に回った対応に批判する人も多いが、批判するのは簡単なので、どの批判を聞くのも嫌になってくる。箱根駅伝の沿道での応援に対する批判、年末年始のカウントダウンに集まる人への批判、年末年始の帰省者に対する批判、どれも怒りに満ちた批判である。この「怒り」に満ちた想念はどこからくるのであろうか。自分は正しいという確信、あるいは正義感であろうか。東京から田舎に帰省した人がお土産を持参したところ、「東京のお土産など受け取るな!」といった地方の人もいるという。本当に当人の怒りが伝わってくる話である。

しかし、このような怒りに同調する必要はない。少なくとも何が正しいか、何が正義かなど誰にもわからないのであるから。しょせん、独りよがりで狭い了見での認識である。

今の分断の状態をどのように解釈したらよいのだろうか。一つ見方を変える必要はないのか。怒りを表現する前に一呼吸置く必要はないのだろうか。

たとえば、関西では、エスカレーターに立つ位置は右側で、左側は急いで歩く人のために空けておく。一方、関東を含めたそれ以外の地域では左側に立つ。どちらが正しいというわけでもない。大阪に出張すれば自分だけ左側に立っていても悪いことをしているとも思わないし、右側に立つのが習慣だと気がつけば臨機応変に変更する。筆者の知る限り、ロンドンもパリも人々はエスカレーターで右側に立つので、左に立つ東京のほうがめずらしいのかもしれない。

現在の分断をこれと同じようなことと思えば、自粛しない人も、マスクをしない人も、夜の街で飲み続ける人も、だれも批判しなくてもよくなる。人を批判することで世の中を変えられると思う人がいるのであれば、それでもよいが、単なる批判にそんな力はない。政治の世界の野党をみれば明らかである。

少なくとも夜の街で飲み続ける人を止めさせる権限は誰にもないし、それを仕事として日々の糧を得ている人にとっては死活問題である。それでも止めさせろという人には、自分が逆の立場になったときのことを想像してみてほしい。日本国憲法では営業の自由、人身の自由というものが保障されている。その権利は侵されることがあってはならない。現在のコロナという緊急事態であったとしても。そして、それが必要な場合は法改正が必要である。しかし、もしこの基本的な権利が失われたとき、われわれの生活や人生は戦時中のように一変する。少なくとも誰もそんなことは望んでいないのではないだろうか。

このようなことをいうと、また批判する人も出てくる。批判に批判を重ね合わせていくことで、争いは永遠に終わらない。そして、世の中をよい方向に変える力はますます消耗されることになる。

このような不毛な議論で時間を浪費することに嫌気がさし、つくづく人間が嫌になったときはどうするべきか。希望を捨てる必要はない。むしろ希望をもって自分の心の中に自然と対話する場所と時間を確保するとよい。緑のある公園、散歩道、ハイキングコース、どこでもよいので自然と対話し、メッセージを受け取るのもよいであろう。人類は自然の一部でしかないこと、ウイルスや細菌も自然の中で必要があるから存在していることに思いを馳せるのである。プラスの思いで心を満たし、肯定的な思考で対話を続ければ希望もみえてくる。

おそらく一人ひとりの前向きな思いは集合意識に働きかけ、地球全体を変える力を持つかもしれない。百匹目の猿現象というのがある。どうも科学的根拠がないと否定されたようであるが、プラスの思いの人の数がある閾値に達すると、社会が変わりはじめることがあることを、われわれは経験から知っているのではないだろうか。たとえ科学的根拠はないとしても。

今の筆者が思いつく、分断から統合へのシナリオは、多くの人が心の中で対話をはじめ、コロナ禍という現象をプラスに解釈することができ、その思いで世の中を統合していくことくらいしか思いつかない。少なくとも理屈全開で叫んだところで、何も生むことはないように思えて仕方がない。