職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

文藝春秋の学歴詐称工作の記事を読んで

小島敏郎小池百合子元側近の爆弾告発」と北原百代「カイロで共に暮らした友への手紙」文藝春秋102巻5号を拝読いたしました。本当は福島雅典「コロナワクチン後遺症読者の疑問に答える」を読もうと思って買ったのですが、その前に掲載されている記事の方に興味が行き先に読みました。

学歴というのはここまで人について回るものなのかと不思議に思います。人が普通に暮らしている分には、誰がどんな学歴であるかなど関係ありません。仕事をしていても、おでこに学歴が表示されているわけでもないし、背番号のように背中に記載されているわけでもないのでわかりません。

私もこだわるかというと、何を学び研究したのか、そしてその結果今の自分があることが示せるという点でこだわることはあると思います。ただそれは自分の専門分野が何かを示すためであり、どこの大学を出たかということへのこだわりはありません。

よって、専門書や一般書を出版する時も、大学名と自分の専攻を記載しています。ただ、一般書を出す時は所属会社は伏せています。社名を出す場合は広報部に承認をもらわなければならないので、その煩わしさを避けるためです。特に職歴を詐称したいとか隠したいということではありません。このブログのプロフィールもそのことに配慮しています。

今回の小池氏に関する記事が真実であるかどうかは別にして、たしかに学歴にこだわる人が身近にもいることに気づかされました。たとえば、博士課程を修了して博士号を取得できているのか不明でありながら博士と表記する人。博士課程に在籍していたでしょうが、博士号は取れいるのかどうか定かではない。博士課程に在籍したと、博士号を取得したでは違いますが、「博士」という表記が何を意味しているのかわかりません。しかも海外の大学であれば確かめようもない。今回の小池氏と同じパターンで、その人のことを思い出しました。

あるいは、東京大学で博士号を取ったといいながら、その記録が出てこない人。法令で博士論文の公表義務があるので、そのような嘘は簡単にバレるのに、それでも東大博士として論文指導などのビジネスをしている人がいます。

また、60歳を過ぎているにもかかわらず、いまだに早稲田大学の稲門会の写真を頻繁にSNS上に投稿している知人もいます。「稲門会=自分」なのかもしれませんが、稲門会と関係ない私には興味もありません。先日、知り合いではないですが電車の中で小さく「早稲田大学」という文字が書かれたキーフォルダーをカバンに付けていた同世代か少し上の人も見かけました。その方も「早稲田大学=自分」なのでしょう。

私は東洋大学出身ですが、そのような思い入れがありません。難関大学でもないし、卒業後に大学のおかげで何か得をしたということもないからでしょうか。それどころか、先日図書館で本を借りるため校友として入構しようとしたら正門でブロックされ、警備室前で入構手続をさせられました。

開かれた大学といいながらこれではいけません。しかも私立大学といえども私立大学等経常費補助金という公金が使われているのですから、大学は文字通り物理的にも開かれていなければならないでしょう。3人の子どもたちにはこうい大学には進学すべきではないとアドバイスしました。このように管理強化をし統制をかけている大学は学問の自由すら怪しいと思うからです。

博士課程は神戸大学ですが、先日あるサークルの学生が旅館における器物破損事件を起こして問題となっていました。それとて私とは関係ないし、私の信用が失墜するこもありません。今は次の博士号に向けて高校数学から勉強している自分にとっては、すでに修了した大学は過去のものです。

「学歴=自分」というのは不思議なものです。本来はその学歴を使って何ができるか、どのように社会に貢献できるか、あるいは今後何を創造できるのかの方が大切でしょうが。何かを創造していくことができないとあきらめた場合に、過去の学歴に紐づけられた自分として生きていくことになるのでしょうか。そうならないためにも、日々研鑽していく自分であろうと思います。