職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

大学院重点化の失敗を成功に転化する

大学院重点化は失敗だった。1991年以降、東京大学大学院法学政治学研究科をきっかけに重点化を実施し、その後、他の国立大学も追随していった。その結果、大学院生は増加するものの、質の低下を招き、大学院修了後の就職先もない状況で、多くの無職の博士号取得者を生み出してしまった。しかもその惨状を見た学生が大学院を敬遠しはじめ、今度は定員割れも生じるようになった。

そもそも、日本の大学を含めた研究機関や教育機関における職は、少子化の流れで増えていくことはない。もちろん、大学数は増加したという事実はあるが、自由化の流れで認可の水準が下がり、新設大学が乱立したというだけであり、本当にそれだけの需要があったということではなかった。

日本企業も博士号取得者を必要としているところはない。文系はもちろんのこと、理系でさえも、自社で育成した人材に論文博士で博士号を取得させることでよく、わざわざ大学院で博士号を取得した人材を採用する必要はなかったのである。日本という企業組織に、入口の段階では博士号というものは不要といのが本音だと思われる。

基本的に日本企業の人的資源管理は、人材を自社で長期的に育成して抱え込もうという発想がある。中途採用で優秀な人材を取り込むより、新卒一括採用が主流なので、学部卒あるいは修士修了者を組織の一員として採用し、育成していくことになる。この前提では、年齢を重ねた博士課程修了者を採用する仕組みは存在していないことになる。

吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社新書、2016年)の指摘によると、日本社会は、大学院で学位を得た人材が専門職として組織を超えて活躍できる仕組みを作っていくことが必要であったという。その通りであり、日本社会には組織を超えて活躍できる場というのがない。結局、どこか一つの組織に所属して退職までいるというのが前提である。博士号取得者が、自分の実績を携えて、いろいろな組織で活躍するというシステムにはなっていない。

おそらく、今後も日本企業のシステムは急激に変わることはないと思われる。しかし、雇われる従業員の方から変わる可能性はある。文系と理系を一緒に議論することはできないかもしれないが、企業に所属しながら大学院で博士号を取得し、次の展開を考える人は増えるであろう。定年後の人生が延びたことも相まって、どこかで起業も考えなければならない人も増えるであろう。その時、自分の専門性がどれだけ深化あるいは進化しているかということも重要になってくる。

このように、自分の成長に合わせて組織を変える、時代の流れに合わせて自分の専門性を深化させるという人は増えると思う。よって、大学院重点化はある意味で失敗であったわけであるが、社会人の取り込みという意味では可能性はある。そもそも、日本の大学は学費がかかりすぎる。親の経済的負担を考えると、学部から博士課程まで通い続けられる人は多くはない。しかし、自分の稼いだお金で、自分で学費を支払うということであれば可能性もあるし、本人の学びに対する本気度も違ってくるであろう。

大学院重点化の失敗を成功に転化するには社会人のための大学院を制度化する必要があると思われる。すでに職がある人のための制度なので、無職者を生み出すこともない点、大きな利点である。