最近、自分の考えや思考が頻繁に書換えられる。情報の洪水にさらされ、日々新しい考えがわいてくる。良い悪いの判断はするつもりがないが、気をつけなければならないと思った。
何に気をつけなければならないのか。それは相対性という概念である。善と悪、正と邪、右翼と左翼、自律と他律、資本主義と共産主義などの対立する概念が情報に含まれている場合、どうしても人はどちらが良いとか、どちらが正しい、あるいは、自分はどの立場をとるというように、自分の立ち位置を決めてしまう。このような考えをしてしまうと、どうしても社会に対立が生じて分断を引起こすことになる。
情報発信者は内容について「良い悪いはない」とか、「どれが正しいということではない」とか、「どちらが上で下ということではない」と明言しているにもかかわらず、情報受信者はどうしても価値判断をしてしまいがちである。あるいは、情報の発信者は、情報の受け手に対して、何か判断や行動を促しているのかもしれない。そうなると、自分の立場や考えが固定されて、居心地が悪くなる。
この居心地の悪さはどこからくるのか。今から20年以上前に読んだニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』(サンマーク出版、1997年)を読み返してみた。
簡単にいうと、背が低いということを知らなければ、背が高いということはわからない。痩せているということを知らなければ、太っていることはわからない。このような事例が提示され、自分が何者であるかを知るためには、対極を知らなければならない、あるいは、自分でないものと対決しなければならないという。
そして、私たちは、これまでも、これからも、神聖なる全体のなかの部分、身体の一部、手足、メンバーであり、だからこそ全体に戻ること、神に戻ることを思い出すことになるという。おそらく、私たち一人ひとりが創造者であることを思い出す必要があるのだろうか。
また、地上での私たちの仕事は、自分が何者であるかということを思い出すことだともいう。すでに私たちは知っているのだから思い出すということ。そして、他のみんなが何者であるかを気づかせる、思い出させることも大きな仕事の一つだと。
そして、自分の感情に耳をすますことを勧める。教師に教えられたことや本で読んだことと違っていたら、言葉のほうを忘れなさい。言葉は真実の伝達手段として、一番あてにならない、ということで「感情」に従うことを提案する。
日々、いろいろなことが起き、いろいろな情報に接し、いろいろな感情に振り回されるが、最後は自分の感情に従えというアドバイスである。この感情が真実なのかどうか判別するのは難しい。しかし、瞑想などで自分の真実の感情に近づくことは可能なのかもしれない。
いずれにしても、自分の中ですぐに答えがみつかるわけではない。しかし『神との対話』にある深淵な哲学に触れることで、気持ちが落ち着くわけなので、自身の感情に身を任せることが、今の自分には良いようである。