憲法に緊急事態条項を新設することが以前から議論されているが、結論は不要である。緊急事態条項は、権力者が自分の権力を誇示することに濫用されてしまう危険があるので、想定される緊急事態は、その他法令で対処すべき問題である。ましてや、パンデミックで甚大な直接的被害も発生していないわが国で、それを根拠とする必要性はないであろう。一度、緊急事態条項を容認すると、政府は、紛争危機、気候変動、新しい感染症など、次々と理由を作って国民の人権を制限してくる。インドのニューデリーで、大気汚染が原因のロックダウンを検討というニュースを思い出して欲しい。
永井幸寿『憲法に緊急事態条項は必要か』(岩波書店、2016年)によると、国家緊急権は、平時の制度では対処できない非常事態に対処するためのもので、その必要性があるといわれているものの、人権保障や権力分立を一時的に停止してしまうことから生じる危険性のほうがはるかに高いという。
まず、政府は緊急事態の宣告が正当化されない場合でも宣告しがちで、緊急事態だといって強大な権力を握りたがる。人間の性かもしれないが、一度権力を握った者は、さらに大きな権力が欲しくなる。そして、その権力の有効性を試すかのように権力を行使しがちである。現在のパンデミックにおけるオーストラリアやニュージーランド、ヨーロッパの一部の国をみれば明らかである。すでに暴力による統制がはじまっている。
次に政府は戦争などその他の危難が去ったあとも緊急措置を延長しがちである。いったん握った権力はなかなか手放せないのである。さらに人権を過度に制限しがちになり、裁判所も緊急事態ということで政府の判断を尊重しがちになる。すなわち、司法のコントロールも効かなくなるという問題がある。西洋諸国で、警察が人権を意識することなく、異常な暴力で市民を統制している現状をみれば、明らかに裁判所の存在、すなわち司法の役割が後退しているのが理解できる。
過去の歴史的事実をみても、ナチス・ドイツは、ワイマール憲法の緊急事態条項を利用した。国会議事堂が何者かに放火された事件のあと、当該事件が共産党員の犯行であると断定して、言論、報道、集会、結社の自由、通信の秘密を制限して、令状によらない逮捕を可能とした。
わが国の大日本帝国憲法でも国家緊急権は濫用されている。関東大震災のときに治安目的で軍隊に武器の使用が認められ、また、軍に一般市民が組織した自警団への指示権を付与している。その結果、多数の朝鮮人が軍や自警団に殺害されている。よく、災害でパニックが起きて殺害事件が発生したといわれるが、災害なのに戒厳が実施され、軍が権力を濫用したというのが実態ということである。
このように、緊急事態条項は、憲法の理念を骨抜きにするものであり、百害あって一利なしといっても言い過ぎではない。一度、この条項を受け入れると、国民の人権は極度に制限され、私たちの生活に大きな弊害をもたらす。よって、憲法ではなく個別法で対処するのが望ましく、日本国民は最後の砦の現行憲法を失ってはいけないのである。
辻村みよ子『憲法〔第5版〕』(日本評論社、2016年)によると、国家緊急権は権力が憲法の拘束を免れることを正当化するもので、超憲法的に国家緊急権に訴えることは立憲主義に反するので容認し得ないとする。そして、大日本帝国憲法が国家緊急権に関する規定を置いていたのに対して、日本国憲法にその規定は存在していないのは、偶然ではなく意識的に除外したと考えられる以上、国家緊急権は認められるべきではないという。
緊急事態条項を規定したいと熱望する政治家の思いを想像してみて欲しい。権力を行使し、国民に対して国家権力で過度な権力と恐怖で統制したいと思う政治家に為政者としての本当の実力があるとは思えない。本当にリーダシップのある政治家は、国家緊急権に依存するような政治は行わないであろう。