先日、シンガポール在住の知人と東京でランチをした。彼の話によると、日本は入国してしまえば、自主隔離2週間であろうが、そのあと当局が追跡調査することはないので、気楽でよいという。そして、どうせリモートの仕事になるので、しばらくは日本に滞在する予定だと。
一方、シンガポールは入国後、2週間の自宅隔離者の腕に追跡端末を装着させられるそうで、ほとんど囚人と同じであると話していた。しかも、ときどきビデオ電話がかかってくるので、本当に自由がなく煩わしいし嫌であるとのこと。
監視社会シンガポールと日本を比較すれば、明らかに日本のほうが望ましい社会のように思えるが、多くの日本人は監視社会を実感をもって想像することができないのだと思う。その証拠に、今回のコロナ対応において、政府よりもむしろ大衆がより強力な緊急事態宣言を望んでいた節があると指摘されている(江藤祥平「匿名と権力-感染症と憲法」法律時報92巻9号)。
憲法の観点からすると、これは非常に逆説的で、本来は国家権力から国民を守る、自由と権利を保障するのが憲法であるにもかかわらず、国民の側から強制力をもって管理を強化すべきという空気が支配した。大林啓吾編『感染症と憲法』(青林書院、2021年)によると、多数派と少数派という点に着目すれば、規制を望む世論としての多数派による、自粛に応じなかった一部の人である少数派の権利制約という構図となり、立憲主義の発想になじむようにみえるが、国家と国民という対置からすれば、多数派が国家に規制権限の発動を求める姿は立憲主義の目指しているものとは異なるという。
そして、ヨーロッパの多くの国やアメリカの多くの州では、強権的なロックダウンを行い、私権を大きく制約をしたわけであるが、そこには強い意思と自律した個人が想定されているという。また、その対極に位置するスウェーデンも自律した意思決定ができる個人を想定した放任型の政策がとられている。そこには、自由を保障するが、自分で判断して、自分で決断する必要性があることになる。
これらの国に比べて日本は自粛要請という穏やかで曖昧な方法が採用されており、一見、個を尊重した政策にみえるが、実は「場を読む」あるいは「空気を読む」ような国民性に依拠しつつ、全体がある一定の方向に向かうように誘導する方針がとられたともいえる。よって、自律した個人は想定していないのだとする。
そして、私人間でトラブルが起きると、とくに政府は傍観するだけで、それに対して指針を示したり、メッセージを発信することもない。何となく雰囲気を醸成するだけで、マスクもワクチンも任意であるという強いメッセージを出すことはない。しかも職場接種だとか大学での接種という話も出ている。まともな判断力のある組織であれば、ワクチンは任意接種であり強制するものではない、という強いメッセージを出すであろうが、それがないあるいは弱い組織だと、場の雰囲気から強制であるという圧力がかかることになる。これが日本的なやり方なのかもしれないが、非常に怠慢で責任回避型の卑怯な手段だともいえる。
その点、ヨーロッパでもアメリカでも、行き過ぎた強制には、多くの行政訴訟が提起されている。日本はあるレストラン・チェーンが自治体を訴えた事案が発生したが、かなりめずらしい事例として受け止められているのではないだろうか。しかし、力強い個人が存在するヨーロッパやアメリカでは当然のことである。
私は、なぜ憲法9条で激論を交わす憲法学者が、このような議論で沈黙を守っているのか不思議に思っていたが、どうも専門誌などではかなりの論文数が掲載されていたようである。前出の法律時報92巻9号も2020年8月出版なので、その前から議論があったということである。
残念ながら一般の国民レベルには議論が耳に入ってきていないが、もっとマスメディアが取り上げるとよい議論だと思った。少なくとも本日の感染者数○○○名などという意味のない情報よりもはるかに国民に冷静な思考を促す素材になると思う。今ここで議論を深めて踏みとどまることが必要で、自治体の首長の発言で聞き飽きた感はあるが、これが「本当の正念場」なのではないだろうか。