職人的生き方の時代

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他国にも緊急事態条項があるからは根拠にならない

 

自民党日本国憲法改正草案が出された2012年に、憲法学者政治学者が呼びかけ人となって、立憲デモクラシーの会という団体が立ち上がりました。どうもそのメンバーが中心になって出版されたと思われる、奥平康弘ほか編『改憲の何が問題か』(岩波書店、2013年)のいくつかのテーマを読み直してみました。まず、当時はそれほど自分の中で問題意識が高くなかったので、素通りした部分が非常に多かったことに気がつきました。

そして、あらためて何人かの論稿を読んでみますと、かなり左派の学者が多いのか、論理的な記述に留まればいいものを、自民党の改正案の稚拙さを強調しすぎている箇所が目立ちました。この点、少々辟易する部分があることも認めなければならないと思います。やはり冷静さは維持しつつ、できるだけ論理的な議論に限定したほうがよいと思いました。

一方、いくつかの論稿の中で、水島朝穂教授が書いた「緊急事態条項」の論点は参考になりました。

まず、どこの国の憲法にも緊急事態条項があるのに、日本国憲法にはそれがないのはおかしい、という議論の仕方に問題を見出します。たとえば、ドイツの緊急事態条項にある対象となる事態は、ナチスの苦い経験を教訓に、限定化の努力が随所にみられ、緊急事態立法の制定者が本来意図したことの95%は実現しなかったそうです。また、フランスでも、1961年のアルジェリア反乱時に、長期にわたり非常権限が行使され続け、濫用されたことを反省し、ミッテラン大統領時代に国家緊急権を大幅に制限しようと試みられたといいます。

結局、緊急事態条項を限定したり、制限したりしようと試みる国すらあるのに、どこの国にもあるから日本でも、という議論はいかにも安易であるということです。たしかに、それぞれ国の成り立ちが異なり、歴史や文化、慣習、そして、地政学的なポジションも異なるのに、他国に追随すればよいというものではありません。自分の専門の保険法の世界でも、やはりイギリスやアメリカは圧倒的に最先端であることを認めなければなりませんが、そのまま日本にも採用するなどという単純な結論は出せないことが多いと思います。

また、改正草案で目立つこととして、法律への委任が多いことが指摘されます。緊急事態条項のわずか2か条で「法律の定めるところにより」という文言が8か所に出てきます。同じ文言が、日本国憲法の103か条中、30か所程度であるのと比べても異常に多いわけです。これは緊急事態条項の要件や効果にかかわる大切な事項を決定せずに、曖昧なまま条項を採用してしまうことになり問題だということです。自分自身も組織の規定等を作成することがありますが、自分自身の首を絞めないように、「別途定める○○に従い」という書きぶりは非常に便利であることがわかります。そういう意味では、改正草案も同じように逃げ道を確保しているのかもしれません。

水島教授が強調するのは、改正草案の緊急事態条項が実現するようなことがあれば、内閣総理大臣が何でもできるようになることを授権するための条項として機能する可能性が高いということです。憲法は権力を制限する規範であるという近代立憲主義の大前提を無視したまま、日本国憲法を国民が尊重しなければならない規範、権力の発動要件を定めたルールへと変質させることになると。

たしかに、憲法改正議論のスタート地点として忘れてはいけないことがあります。それは、憲法は国民に義務を課すためのものではなく、国家権力を制限するためのものということです。ここが議論のスタート地点であり、ここがブレてはいけないということだということでしょう。その点、たしかに自民党憲法改正草案を作成した人の考えから抜け落ちていることは事実なのかもしれません。

いずれにしても、緊急事態条項が他国にもあるので日本にも、という単純な議論には距離を置くことが大切だと思いました。