職人的生き方の時代

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日本の高等教育はアメリカの模倣でよいのか

ドイツやフランスに論文博士に類似の制度がありながら、なぜ日本では課程博士が主流になってしまったのであろうか。おそらく、戦後アメリカの高等教育システムを模倣したためであろう。天野郁夫『国立大学・法人化の行方-自立と格差のはざまで』(東信堂、2008年)によると、戦前の大学はヨーロッパをモデルとするものであったが、第二次世界大戦後の新しい大学制度は占領軍の指導のもとアメリカをモデルとするようになったということである。この大転換をきっかけに論文博士の制度を含めてヨーロッパ型の高等教育は徐々に日本から消えていったのであろう。

最近までヨーロッパ諸国に制度化された大学院は存在しなかったが、アメリカの大学院制度は、研究大学院(graduate school)と職業大学院(professional school)と二種類並存して、それぞれ異なる機能を担い、とてもシステマティックに制度化されている。日本がこのようなアメリカのモデルを見習いはじめたために論文博士などは傍流であり、将来的に廃止すべきであるという論調が出てきたのだと思われる。しかし、ドイツやフランスをみればわかるように論文博士が主流であり、むしろ課程博士が傍流になる。私たちの頭の中がどれだけアメリカナイズされてしまったか示すよい例であるが、一方で論文博士を廃止し課程博士のみ残すことが大学をひとつのビジネスとしてみた場合は望ましいのかもしれない。

しかし、そのアメリカの高等教育研究者のマーチン・トロウ『高度情報社会の大学-マスからユニバーサルへ』(玉川大学出版部、2000年)では、アメリカの高等教育は世界のどの国と比較してもきわめて異質であり、そのまま他国に移植するのはおおきな間違いであることが指摘されている。前出の天野氏も指摘するように日米の比較からしても、アメリカの大学システムは歴史的に私立大学が最初に設立され、その後19世紀の後半から州立大学は設立されるようになり、今では学生数の7割強が州立大学の学生ということである。一方、日本は国立大学が最初に設立され、その後、多くの私立大学が設立され、今では7割強の学生が私立大学に所属している状況がある。このように歴史的な背景やシステムがアメリカと日本で大きく異なっているので、アメリカのシステムが日本に適合するとは限らない。それを裏付けるかのように、学部卒の人材を好む日本企業において大学院修了者への需要はそれほど大きくない。そして、専門職大学院についても世の中の人材育成に大きな変化をもたらすほどの影響力はなく、むしろ停滞している感は否めない状況である。

また、世界を見渡せば、先進国はいずれも大学は国公立が原則である。私立が主流のようなイメージのあるアメリカでさえも、私学の学生数は全体の3割弱なわけで、その点、わが国の特異性が非常に際立つ。さらに、天野氏の指摘では日本とおなじように私立大学の数が多く、高等教育のかなりの部分も私立セクターに依存している国は、日本以外では日本の旧植民地である韓国や台湾だそうである。よって、多くの先進国では高等教育を国家の戦略的な位置づけとして公費による運営がなされていることになる。