職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

縄文ルーツを持つアイヌの生き方

アイヌ縄文人の形質的な特徴をよく残し、縄文人の末裔であるともいわれている。そのため狩猟採集の暮らしをおくっていた近世のアイヌ社会は、縄文時代から大きく変わらなかったと考える説もあるそうである。

瀬川拓郎『アイヌ学入門』(講談社現代新書、2015年)においても、アイヌ文化の中に1万年以上前の縄文文化の伝統がうかがえるのは驚くべきことで、現代の民族集団で、そこまで長期の連続性がたどれる例は世界的にみてもめずらしいという。また、アイヌ語と日本語の影響関係もかなり希薄であり、日本の周縁に縄文文化の伝統を残す独自の文化が保たれてきたことは奇跡だという。

それでは、アイヌ文化とはどのようなものか、本質的な点をみると「カムイ」の存在がある。「カムイ」とは「神」と訳されることがあるが、そうではない。中川裕『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』(集英社新書、2019年)には、カムイは、犬、猫、スズメ、カラスなど全てがカムイであると説明される。それだけではなく、木も草も、その辺を飛び回っている虫もカムイになる。家も船も人間を取り巻く全てがカムイということ。当然、火や水もカムイで、カムイを「自然」といえるかもしれないが、むしろ「環境」と置き換えると考えやすいかもしれないという。

アイヌと環境はお互いなくてはならないパートナーであり、環境から与えられた恵を基にアイヌは生きていくことができ、アイヌが環境から与えられたものに手を加えて、カムイに贈り物として捧げる関係ともいえる。そして、全てのものには魂があると考えられているので、西洋哲学でいうならスピノザの汎神論に似ているのか、あるいはバラモン教ヴェーダにある梵我一如(ぼんがいちにょ)にも通じるのだろうか。宇宙を支配する原理と個人を支配する原理が同一である、というようなことになる。人間もこの世で肉体を去ると魂だけになるが、魂のみではこの世にいられないので「あの世」に行く。そのとき「あの世の入口」を通って向こう側の世界に行くことになる。

このように考えると、アイヌが土地を所有しないということも納得できる。土地はカムイの借り物なのだろう。人口減少社会の影響だと思うが、私の住んでいる住宅街の一軒家でも、住人が亡くなり、子どももその家に住まなかったために、解体されていく家をよくみかけるようになった。そのとき、人間が生きている間の所有権といものにいかほどの意味があるのかと思うことがある。本質的に大地は借り物と考えると、家や土地を所有するという発想が崩れ去ってしまう。

そして、もっと根本的な問題提起は、人間はどこまで富を集めれば幸せを感じられるのか、あるいは、人が人を支配する場合、どこまで支配すると自分の欲求は満たされるのかということになる。縄文人の末裔といわれるアイヌ文化をベースに考えると、そんなところに幸せは存在しないということかもしれないが、現代社会に生きるわれわれは、富と支配する快感に大きな力を与えているように思われる。

最近知った理学博士の保江邦夫氏の『願いをかなえる「縄文ゲート」の開き方』(ビオ・マガジン、2019年)には、縄文人は宇宙とつながる霊体として存在し、あの世とこの世を壁を越えて自由に行き来していたとある。しかし、徐々に肉体化して、あの世とつながるための縄文ゲートが閉じてしまい、物やお金さえあれば幸せだなどと思い込むようになったという。何とも飛んでいる説ではあるが、保江氏は量子力学の専門家なので、霊体や肉体、あの世とこの世を物理学の理論で説明できる科学者なのかもしれない。

私自身もアイヌ人や縄文人のように宇宙とつながる生き方というものを探求する意味はあると思うようになった。もちろん、日々目の前の世俗的な仕事や作業というものも大切であるし、夢中になれるものをみつけて取り組むことも重要である。あの世とこの世のバランスをとりながら充実した生き方というのを思い出したいところである。