職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

共産主義=資本主義=全体主義

アメリカの教育システムに共産主義が浸透している事象をもとに、子どもたちを洗脳するのはやめてくれと教育委員会に主張する保護者の動画がある。当初、問題の本質が理解できなかったが、「共産化=全体主義」ということや、人をカテゴライズすることで対立を生み出し、多様性の掛け声のもとに人々を均一化することが要点なのかと思った。リンクの動画は100万回以上再生されている。
Mom Goes Nuclear On School Board Over Critical Race Theory - YouTube

日本語字幕を付けた人もおりその動画のリンクも貼っておく。

(日本語字幕)100万回以上再生されたアメリカの親の叫び!子供を奪うな!子供を壊すな!最後まで戦う! - YouTube

当初、資本主義国家の代表と思われるアメリカがなぜ共産主義化しているのか理解できなかった。しかし、「共産主義=資本主義」でもあることを前提に考えると納得がいく。資本主義を徹底的に推し進めるとグローバリズムまでたどり着く。世界を一つの共同体とみなして、世界の一体化を実現することがグローバリズムであるのなら、同一の価値観や基準で世界を覆うということは、共産主義と何ら変わらないことになる。中国、北朝鮮、かつてのソ連など共産主義国の価値観とグローバリズムに本質的なところで大きな違いをみいだせないことになる。

自分の身近なところでは、日本の金融自由化や保険自由化などで、金融機関の数は減らされ大手数社だけが生き残った現象がある。これから就職する学生にとっても、そこですでに働いている労働者にとっても、30年前に比べると選択肢は恐ろしく減っている。顧客側の選択肢も減っており、受けられる商品・サービスも限定的になった。支配する側としても中小の金融機関まで管理しきれないので、大手に集約すると簡便である。金融システムも、それを利用する顧客も、そこで働く労働者も容易に管理できる。

当時、そして現在も各社が世界的な競争で生き残るために合併が必要であったということであるが、本当であろうか。資本主義からグローバル資本主義、そして知らない間に共産主義、すなわち全体主義に至っているのであり、世界が進んでいる本来の方向を、私たちは勘違いして見定めていなかっただろうか。気がつかないうちに全体主義は進んでいたのである。「共産主義 vs. 資本主義」という対立の構図は、全体主義を隠すための巧妙なカモフラージュだったのかもしれない。

教育制度も全体主義の象徴かもしれない。とくに小中高教育は一方向の講義型で、教科書検定制度を通過した同じテキストで学ぶ。みんなが円になって議論することはなく、生徒側が疑いを差しはさむ余地のない授業が行われる。歴史の教科書一つとっても書かれてあることは真実であることが前提に授業は進む。そして、自分の子どもたちもそうであるが、気がついたらある意味で上手く洗脳されているのではないかと思えるほど、観念が固定されてしまっている。

「三つ子の魂百まで」と思い、子どもが小さなころはいろいろ対話をし、毎日一緒にお風呂に入り会話をしながら遊んだ。自分の中に子育てに対する後悔はなかった。しかし、学校教育がはじまると、自分の役目が終わったとでも思ったのか、教育制度に子ども委ねてしまった。そして、気がついてみると、必要以上に従順で全体に流される人間になっているのではないかというのがある。さらに、大学のような高等教育機関では、その全体主義教育からバランスを取り戻すチャンスであるはずなのに、そこで必死に学び突拍子もない研究をする日本の学生はほとんどいない。日本の教育制度に上手くやられてしまったのではないか。

もう一つ気づきである差別問題も、多様性やダイバシティという美しい響きを持たせた表現を使いながら、人々の間にしっかりと対立を誘発している。まず人々を区別するところからはじまるが、われわれは「人類」であると一括りで済むものを、アジア人、ヨーロッパ人、アメリカ人、アフリカ人などと区別する。男性、女性、LGBTなどと区別し、わざわざ統計をとって、多様性のある組織の生産性は高いなどという研究結果を発信する。自分もそのような研究成果に納得して、多様性は大切だなどと思っていたので、いえる立場ではないが、そもそも人々を区別することにいかほどの意味があるのか。「だからどうしました」で済む話であるのに。

動画に出てくる保護者の主張のとおり、子どもたちはクリスチャンだろうが、ムスリムであろうが、仏教徒であろうが関係ない。白人だろうが黒人だろうがアジア人だろうが関係ない。そのような区別はなく、仲良く遊んでいる。そこに違いをもたらし対立を誘発しているのは、実は私たちが受けてきた教育制度そのものなのではないだろうか。差別はいけない、というのも至極当然のような響きであるが、違うものは違うと受け入れることも大切であり、違うものを無理に均一化するのも共産主義に通じるものがある。

私たちは、このまま選択肢のない世界で、ある意図をもった教育制度の中で生きていくのか、それともそこから抜け出すことができるのか。私はまだ軌道修正する時間はあると思う。どのタイミングでも気がついたら行動を起こせばよく、気がついた時点が、その人にとってのタイミングである。よって、いつからでも引き返すことが誰にでもできるはずである。