スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

『ワクチンの境界』から学ぶ全体主義の正体

國部克彦教授から『ワクチンの境界』(アメージング出版、2022年)を恵贈いただきました。社会のシステム論的な考察も織り交ぜ、倫理的視点からパンデミックにおける今回のワクチン問題を論じています。おそらく、5年後あるいは10年後に読み返しても、私たちの思考の整理に有用である内容で、ワクチン以外の様々な課題に応用が効きます。そして、人類が全体主義に支配されないためにも、いったんは踏みとどまって、本書で論じられている自問自答の作業は、誰にも必要なことではないかと思いました。

まず、社会を支配する権力は、ときに「あなたのため」とか「社会のため」というような、批判しにくいキーワードを使って、私たちの内奥まで進入してくるといいます。専門家の中にも「利他」を押し付けてきた人が多くいます。ある専門家は「接種する自身よりも利他的な意義が大きいということを子どもに理解してもらった上で接種を検討しなければなりません」と述べています。

國部氏はこの点について、他者のためにリスクを許容せよというのは、自分も相手にとっては他者の一人なので、自分のために相手にリスクを許容しろという、最も「利己的」な行為と同じであることを強調します。

おそらく、利他を強調してワクチンやマスクを強要する人々の思考は、ある種の正義感に酔いしれているので、自らの根底にある利己的な部分には気づいていない、あるいは気づいても黙殺しているといことかもしれません。そもそも、子どもにそのような理解を押し付ける残酷さには驚きますが、これが権力の常套手段の一つなのでしょう。しかも、本書が執筆された時点では明らかになっていませんでしたが、その後、ファイザー社はEU公聴会において、感染防止効果に関する試験は行っていないということを証言していますので、感染防止を根拠に議論を展開した専門家の理論は、認識不足だったことになります。しかし、その後訂正したり、自分の発言の根拠が薄弱であったということを認めた専門家は一人もいないのではないでしょうか。

また、本書では、19世紀のイギリスの数学者である、ウィリアム・クリフォードの『信念の倫理』というエッセイを引用し、私たちの「調べる義務」について論じます。私たちは何かを信じる前に、徹底的に調べる義務があるといいます。なぜなら、私たちの信念は他者に影響を及ぼし得る人類共通の財産だからです。人類として子孫への責務を果たすためにも、私たちは調べる義務を負うということです。もしその信念が大きく誤っていた場合は、子孫にも負債を残すことになるでしょう。しかし現実には、私たちは権威や専門家に弱く、調べる労力を省くために、安易に根拠が脆弱な結論にすがってしまいます。誤った情報を提供する専門家も非難されるべきかもしれませんが、それを軽々しく信じる私たちは、それと同じくらい罪深いことをしているのかもしれません。

そして最も恐ろしいことは、詳細に確かめ、調べる習慣を失うと、一気に全体主義に流されるということです。國部氏の深い懸念はこの点にあるのかもしれません。書籍の中でもハンナ・アーレントの「凡庸の悪」という概念を引用して警鐘を鳴らします。アーレントによると、第二次世界大戦において、ナチスに加担した人たちは、根っからの悪人であったわけではなく、自ら思考停止をして、ただナチスに従っただけの人だといいます。これこそが全体主義の正体であると。

多くの人が自ら調べることなく、権威や専門家に従うだけになると、社会は全体主義に傾きはじめます。残念ながら時間が経過したため、戦争を肌で経験した人は少なくなっていますが、太平洋戦争前の日本における国民的熱狂と、今の政府のパンデミックへの対応を正しいと信じ切る状況に、かなりの類似性があるのではないでしょうか。そして、雰囲気に流され、世の中がある一定の方向に進み出す場合の危険な香りを感じ取っている人は一定数いるものの、その人たちが、その推進力を止めるあるいは修正するほどの数にはなっていません。

そして、國部氏の議論のユニークな点は、この全体主義を醸成する根源を特定の人々に求めるのではなく「システム」に見出していることです。人々は「役者」に過ぎず、その背後にシステムがある。よって、全体主義に抗うには、このシステムに取り込まれないことを提言します。非常に迂遠であり、即効性はないものの、自分が納得できない場合は、システムに協力しないことといいます。全体主義に抵抗するわけですから、「無責任だ!」という批判は免れないかもしれませんが、システムに従わないことです。

そして、システムに取り込まれないという判断の拠り所はなにかというと「自然」を例として挙げています。近代社会のシステムは常に自然を支配しようとしてできあがったものであり、自然は常にシステムの外にあるといいます。よって、自然を基準に判断するのが良いと。

この点、私も同感です。科学はシステムの一部であり、利害打算で虚偽のデータや理論を出してきます。結論ありきで、専門家以外の人を誤導することは難しくありません。もちろん、政治や経済も利害打算の最たるものですし、利益相反など日常風景です。ただ、自然に従うとしても、國部氏のいうところの「自然」というのは、なかなか捉えにくいものです。おそらく、人によって解釈は異なる点、非常に難しい概念だと思います。この「自然」に従う、あるいは拠り所とする、ということは、私たちがそれぞれ自分で考えて、答えを見出す必要があるものなのかもしれません。答えは一つではないかもしれないし、答えは「ない」というのが答えかもしれません。