スペシャリストの生き方

自分だけの生態学的ニッチで生きる

論文に格調高い日本語は必要か

論文なので、お粗末な日本語は書けないと思ってしまい、長い文書が短い文章よりも格好いと考えたこともある。今でもそう思うことがあるが、しかし、文章が長くなると首尾一貫しないことが多くなる。文章の出だしと締で辻褄が合わない、つまり、主語と述語が一致しないようなことである。その場合、文章を区切ることも大事で変に格調の高さを求めてもいけないということになる。たとえば、文章を書くことを司る自分の脳がうまく機能しない例を短めの文章で説明する。「査読付き論文の活用」という箇所で次の文章を書いた。

 

「どういう趣旨かというと、同じ論文でも審査員によって「それがどうした」という反応もあれば「これはいい」という反応もあるということだ。」

 

でも最初は次のように書いていた。

 

「どういう趣旨かというと、同じ論文でも審査員によって「それがどうした」という反応もあれば「これはいい」という反応もあるそうである。」

 

「どういう趣旨か」ということを説明しようと思っていたのに、「あるそうである」と伝聞になってしまった。こんな短い文章でさえも自分の脳は途中で機能しなくなっていることがわかる。

往年のベストセラーである、岩淵悦太郎氏の編著『第三版 悪文』(日本評論社、1979年)には良い例文がある。

 

この選挙でわかっているのは、日本のように候補者の名前を書いて投票するのは、いなかだけで、都市などのように、人口の多い町では、投票所に投票機という機械がおいてあって、投票する人は、じぶんの選びたい人の名前の所にあるハンドルを、ガチャンとおすだけでよいのです。」

 

子ども向け新聞の文章だということであるが、これでは読んでいる子どもも困る。主語に対するおさめがないので、「ガチャンとおすだけでよいということです」として、はじめて結びがはっきりする。格調の高さを狙った長文は文章を複雑にして読者を混乱させ、最後のとどめで意味不明という最悪の事態をもたらす。美文を狙うのもほどほどにして、身の丈に合った日本語を目指すのがよいということである。しかし、このような長文は自分の論文の中にいくらでもあるのかもしれない。読者に最初の主語は何かを記憶させ、さんざん引っ張って最後に結びがない、というのは避けたいものである。