スペシャリストの生き方

自分だけの生態学的ニッチで生きる

論文執筆による日本語力の向上という恩恵

博士論文を含め論文の執筆は、社会人にとって日本語の文章作成能力の向上に大きく貢献する。一度、論文を書き上げた人にとっては、他の一般的なビジネス文書や一般書の執筆などかなり楽になることは間違いない。学術論文と異なり一般の文章では盗作を指摘されないための精緻な引用に神経を使うことがない。これはかなり楽で筆の進みも早くなり、博士論文のように1ページ書くのに何日も費やすということもない。もちろん、一般書でも盗作は著作権侵害であるが、学術論文のような厳格な引用ルールに縛られることはない。

そして何よりも日本語へのこだわりがでてきてよい。できるだけ相手に刺さるような文章、そしてわかりやすい文章を書くようになる。論文を書くようになり気づいたことは自分の日本語力の拙劣さである。論文の中には、なぜか同じような表現しかできない稚拙な箇所もあった。また、無難な表現に「~をしておくことが重要である」とか、「~に関して注意を要する」なども多用されていたと思う。企業の経営者に提出する報告書であれば、「重要とは具体的に何について重要か?」「注意を要するのはなぜだ?」と具体的にどのようなアクションを取ればよいのか指摘されるかもしれない。何かもっとよい表現はないものかと思ったものだ。

また、本多勝一氏の『新装版 日本語の作文技術』(講談社、2005年)では、文章は決して「話すように書く」わけにはいかないことが強調されている。話す相手がいる場合にその表情や反応が見られたり、身振り手振りで補足できたりする場合と異なり、間違いなく文章を書く技術が必要であるといわれる。この点、論文を書くことでかなり磨かれる。あるいは、その点を強く意識することができるようになるのは、自らの文章作成技術にプラスになる。とくに博士論文の場合は審査員が複数いて、自分の専門分野と少しずれている人も当然メンバーにいることになるので、その人にも理解してもらおうと文章を練ることはかなりの訓練になる。過去にもいろいろ論文を書いたが、自分の文章のすべてが美しい日本語であるとか、わかりやすい日本語であるとはいえな。いつまでも校正しているわけにもいかないので、最後は「エイヤー!」と論文を提出してしまうわけであるが、提出後は反省することしきりである。

また、愛甲次郎氏の『世にも美しい文語入門』(海竜社、2008年)でも話し言葉と書き言葉は違うことが強調される。文章は後々に残るものなので書くときは慎重になり規範意識が強く働き、伝統が重視されるという。また、文章は必然的に推敲されて磨かれたものになるとされる。たしかに、ブログであれば誤りを後で訂正することが可能であるが、論文は提出後に訂正できないので、それなり慎重になる。それでも、最後は燃え尽き症候群ではないが、「これで勘弁してくれ」という気持ちになるであろう。