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作文の技術: 日本語というのは論理的だった

本や論文の執筆するようになってから、もっと若い頃に読んでおけばよかったと思った本があります。それが、本多勝一『新装版 日本語の作文技術』(講談社、2005年)です。文庫本も出ているので多くの方が参照されているのだと思います。『学び直しで「リモート博士」』(アメージング出版、2023年)でも必読書として紹介しました。

正直に言うと本多氏が提示している技術の8割以上、私は実践できていないと思うし、覚えきれてもいません。ただ、日本語というのはこんなにも論理的な言語なのかと気づかされ、その後の自分の執筆に大きな影響を与えたのだけは事実です。

日本人の中には、日本語に対する劣等感のようなものがあるのでしょうか。明治時代初代文部大臣になった森有礼は、日本語を廃止して英語を公用語にしようと提言しています。森有礼の孫でパリで日本語を教えていた哲学者の森有正も、日本語は文法的言語ではないといいながら、フランス人に日本語を教えていました。

文豪の志賀直哉が日本語は不完全で不便なので日本語を廃止し、世界で一番美しい言語であるフランス語を国語とすべきと主張しました。しかも、志賀自身はフランス語が読めたわけでも話せたわけでもないようですが、フランス文学に共感を抱いていたのかフランス語を国語とすべきとしていました。

しかし、この本多氏の本を読めば、日本語は論理的で文法的な言語であることを痛感します。話し言葉として曖昧な表現は日常的に使用されますが、書き言葉としてはそうはいかないということです。いくつかわかりやすい例を挙げてみましょう。

たとえば、修飾語において「白い横線の引かれた厚手の紙」だと、「白い横線」の引かれた紙、つまり横線が白いことになってしまいます。では反対にすると「厚手の横線の引かれた白い紙」となり、横線が厚手であるとも読めます。残された並べ方は次のとおりです。

①白い厚手の横線の引かれた紙
②厚手の白い横線の引かれた紙
③横線の引かれた白い厚手の紙
④横線の引かれた厚手の白い紙

この中で誤解を招きやすいのが①②で③④なら誤解は生じません。「横線の引かれた」という節(クローズ)が先で、「白い」「厚手の」の句(フレーズ)が後にくる。よって、「句よりも節を先に」とルール化します。

また、修飾語に節が続く場合はどうでしょう。「長い修飾語を前に、短い修飾語は後」にといいます。

①明日はたぶん大雨になるのではないかと私は思った。
②私は明日はたぶん大雨になるのではないかと思った。

直感的に①のほうがイライラすることなく読めます。「主語と述語を近くすべし」という原則もいわれますが、「修飾する側とされる側の距離を近くせよ」というのが原則だそうです。次の文はどうでしょう。

①明日は雨だとこの地方の自然に長くなじんできた私は直感した。
②この地方の自然に長くなじんできた私は明日は雨だと直感した。

明らかに②のほうがわかりやすいです。日本語において主語・述語の関係を考慮して作文をするのは百害あって一利なしで、ヨーロッパ言語の発想だそうです。

そして、テン(読点)の打ち方もいろいろルールがありました。気分で打ってはいけないということです。

「私をつかまえて来て、拷問にかけたときの連中の一人である、特高警察のミンが、大声でいった。」(『世界』1975年6月号105頁)。

この文章に3つの点がありますが、すべてなくても問題なく、2番目の点(・・・一人である、特高・・・)に至ってはテンを打ってはいけないことになります。実際に修正してみるとわかります。

「私をつかまえて来て拷問にかけたときの連中の一人である特高警察のミンが大声でいった。」

このように何の不都合なく読めます。次の例文はどうでしょう。

「本当の裁判所で裁判を一度も受けたこともないのに十五年もあるいはそれ以上も投獄されているという、年配の男の人や女の人に何人もあうことができた。」(同109頁)。

この文章では、「投獄されているという」の後に仮にマル(句点)がきても「投獄されているという。」となり語尾がかわりません。よって、マルと誤解されないようにテンを打ってはいけないところとなります。もしテンを打つとするなら「十五年も」の前であり、修正後の文は次のとおりです。

「本当の裁判所で裁判を一度も受けたこともないのに、十五年もあるいはそれ以上も投獄されているという年配の男の人や女の人に何人もあうことができた。」

このような感じで本多氏はテンの打ち方の複数のルールを提示してくれます。おそらく、本多氏にかかれば、私の論文など赤字だらけになるだろうということだけは理解できました。

すべての原則を自分のものにできていませんが、自分が日本語と向き合うときの姿勢は大きく変わりました。そして、少なくとも私が接してきた編集者や校正者のうち、2名の方が「私も傍らに置いて参照しています」といっていましたのでそれなりに影響力のある本なのだと思います。もう一度、読み直したいと思う本の一冊です。