職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

変な英語はOKでも変な日本語はダメ

以前、ある外国人の就職を世話する機会があった。ヨーロッパ人の女性で英語はビジネスで使えるレベルで日本語は日本語能力試験2級である。日本語能力試験2級は、「日常的な場面で使われる日本語の理解に加え、より幅広い場面で使かわれる日本語をある程度理解することができる」水準にということである。ちなみに、1級であれば、「幅広い場面で使われる日本語を理解することができる」レベルある。

自分の勤務先の人事部担当者の話だと、おそらく採用はかなり難しいだろうという。たとえ、1級でも2級でも仕事で使える日本語のレベルは、資格試験をはるかに超えた水準とのこと。多くの留学生や外国人の中途採用者が、実践における日本語の壁にぶち当たるのだそうだ。

たしかに納得できるコメントである。TOIEC900点であろうが、人によってはビジネスで使えるレベルとは必ずしもいえないことがある。テストの点数と実践は異なるということであろう。実際の活用という視点からするとテストの信頼性そのものが疑わしいことになる。しかし、日本語と英語では大きな違いがあるのではないか。すなわち、ビジネスで使用する場面だとしても英語のほうがはるかにハードルは低いということ。世界中の人がその地域に根差した、そして、その地域でしか通用しない英語でも実際に使用してコミュニケーションをとっている。

たとえば、出張を延期するの「延期する」は、psotponeを使えるが、出張を前倒しするの「前倒しする」にインドでは、preponeを使う。しかし、アメリカ人やイギリス人は、preponeの意味を理解できない。インド固有の表現になる。日本でもカタカナ表記のおかげで、和製英語は氾濫しており、英語を話すときに誤って使うことがある。「ハンドル」「テイクアウト」「フリーダイヤル」「ホチキス」「マフラー」などいくらでもあり、日本人同士であれば理解できるが、アメリカ人やイギリス人には理解できない。

あるいは、フランス人は、Hの発音ができないので、I’m hangry. が I’m angry. になる。文脈の中で理解するならこの人が怒っていると誤解することは少ないだろうが。

このように世界中の人が、そのコミュニティで使いやすい英語を創造して使っている。すなわち、変な英語を使っても許される環境が整っているということである。筆者もネイティブであればこうはいわないだろうな、あるいはこのようには書かないだろうなという状況に至ることがあるが、コミュニケーションはどんどん進んでしまうので、そんな誤りは無視するしかないことがある。その中には日本語を母語とする人ならではの誤りもあるであろう。それでも許されるし通じればよいという許容範囲が日本語よりはるかに広いと思われる。

そして、逆説的であるが、ヨーロッパの国際会議で英語ネイティブが話すときにイヤホンをつけるが、ノンネイティブが話すときはイヤホンを外す人が多いそうである。英語が公用語とかいっている場合ではない。ネイティブの英語は通じないのである。話すのが早い、慣用表現を多用される、ネイティブ特有の言い回しでノンネイティブへの配慮がないなどが原因と思われる。しかし、英語のおかげでノンネイティブの間のコミュニケーションはスムーズになるという皮肉な状況がある。そう考えると、ネイティブのような英語を目指すよりも「やさしい英語」を目指すことがコミュニケーションを第一に考えると重要であることになる。

このように、変なん英語は大歓迎なわけであるが、一方で日本語になると急にハードルが上がる。日本語は海外で通じないし話されないので、不自然な日本語を聞きなれないためであろうか。ビジネスでは尊敬語、謙譲語、丁寧語が多用されるので難しいのであろうか。日本人もコミュケーションには「やさしい日本語」を標準とすることで、もっと世界で使える日本語の普及に注力したほうがよいのかもしれない。

残念ながら前述のヨーロッパ人女性は、私が紹介した先だけでも3社面接を受けたが、結局、日本語の運用力の問題で採用されなかった。すべてが外資系企業であったにもかかわらず。結果的に自分で応募した日本企業に採用されて働いているが、今は当初約束された仕事とは違うということで、また転職先を探している。日本のビジネス社会も、多少未熟な日本語を許容する姿勢があってもよいと思う。これだけ変な英語が世界で氾濫しているのだから、もっと寛容であってもよいはずである。