2年前に1万円の家賃値下げに成功したので、今回も10年目になる戸建ての賃貸借契約の更新前に家賃値下げ交渉をした。結果、5千円家賃を下げてもらえることで合意した。最初、1万円の値下げで交渉をスタートするものの、貸主側もいわゆるサブリースのビジネス・モデルを展開する企業なので、世間の相場に合わせてということで5千円の値下げを提示してきて合意に至った。
ところが、更新の書類が到着したとき家賃が変更されていないことに気がつき、貸主企業に連絡し家賃が修正されていないことを伝えた。そして、担当者が不在ということで後日連絡をもらうことになった。そして、1週間が経過してやっと自分の携帯電話に担当者から連絡が入る。彼はそこで、「値下げの件ですが、3千円でいかがでしょう?」と、また交渉をはじめたのである。理由は昨今、コロナ禍の影響で都心から郊外に移住する人が増えて、郊外の戸建てに需要があるのだそうだ。よって、5千円の値下げでは過剰ということであった。
彼の説明は非常に丁寧であったが、彼に対して次のように切り返してみた。「私は宅建主任の資格は持っていないのですが、賃貸借契約は諾成契約なので、先日口頭で合意に至った5千円の値下げは、契約として成立していると思うのですが」と。そして、その担当者はすぐさま、「承知いたしました。それでは5千円の値下げで」とあっさり再度合意となったのである。上司に相談させてください、とかいうのかと思ったが、何も反論もせずに間髪入れず了解となった。
あらためて学生時代の基本書、松坂佐一『民法提要 債権各論〔第4版〕』(有斐閣、1981年)を取り出してみた。今の学生は読まない基本書だと思われるが、当時は評判のよいテキストであった。
「諾成契約」とは、当事者の意思表示の合致、すなわち合意だけで成立する契約をいい、売買・贈与・賃貸借など多くの典型契約がこれに属する。これに反し要物契約とは、合意のほかになお物の引渡しその他の給付をなすのでなければ成立しない契約であって、消費貸借・使用貸借・寄託などはこれに属する、とある。しかも最近、民法が改正され、多くの契約が諾成契約になった。保険契約なども典型的な諾成契約であるが、それではなぜ申込書があり、その申込書に捺印やサインを求められるのかというと、それは事後のトラブルを避けるための形式に過ぎないのである。契約の成立という点では、「これをください。」「はいわかりました。」で契約は成立しているのである。
これと似たような例は、15年以上前に国際線航空券の購入でも経験したことがある。ある大手日系エアラインの国際線チケットを購入し座席指定をした。ところが、当時一歳に満たない長男がいたので、バシネットという赤ちゃん用のベッドが設置できる柱の前の座席が必要であった。しかし、何かの手違いで誤って座席指定をしてしまい、変更したくて大手日系エアラインのオフィスまで行き、変更の交渉をした。当時、座席の変更ができなかったようで、窓口担当者の女性に事情を説明しても、まったく首を縦に振ってくれなかった。
埒が明かないのでその場は引き下がり、彼女の上席者宛に書面を書いた。最初の申し込みには「動機の錯誤」があり無効であるという趣旨のことを記載した。
ここでまた、学生時代の基本書、我妻栄『新訂 民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店、1965年)を取り出してみる。これもまた古典的名著で、今の学生は読まないと思う。
そして、意思表示をする動機に誤りのあるものを「動機の錯誤」というとあり、たとえば、鉄道が敷設される予定地と誤信してそうでない土地を高価で買った場合、受胎している良馬と誤信して駄馬を買った場合などが例として挙げられている。
いささか古い事例ではあるが、私の座席指定したチケット購入には、あきらかに動機に錯誤があったわけである。誰が想像しても、1歳未満の赤ちゃんを抱っこして12時間のフライトを楽しめる人はいない。もちろん、チケット購入時に赤ちゃんがいることは伝えている。その時点でバシネットが使える座席を提案するのが道理だと思われる。法律論を持ち出すまでもなくバシネットを利用する意図は明らかなのに、担当者は頑なに変更を拒否したのである。結局、私の書面は上席者のところまで行き、最終的には座席の変更は承諾された。
最後の例は、外資系エアラインのケースである。マイレージで当時、幼稚園児であった次男の国際航空券は購入した。ところが、他の家族の分の国際航空券が同じ便で予約できず、仕方なく別の便で予約。当然、マイレージで予約した次男の分はキャンセルして、他の家族と一緒の便で変更することになる。
そして、外資系エアラインのオフィスに電話しその旨を伝えると、一度マイレージで予約したものは変更できないという。事情を話し、搭乗者は幼稚園児であることを伝えるが、まったく理解を示さない。幼稚園児が一人で国際線に搭乗できるとでも思っているのであろうか。窓口担当者は日本人女性で、日本語で交渉しているので背景を理解できないはずはない。仕方なく彼女に「あなたの上席者と話しをさせてください!」と申し出ると、彼女は「上司は外国人ですが、、、、」と答えた。ドイツ系のエアラインなので、英語を話せるドイツ人だろうと思い「いいですよ、ドイツ人ですよね」と伝えた。ドイツ語など挨拶以外は話せない自分であったが、日本支店に派遣されているドイツ人で英語ができない人はいないと思い、「それでは、電話口に出してください」と申し出た。しばらく、電話は保留にされてから同じ女性が出てきて「承知しました、変更を賜ります」となる。典型的な外資系企業のスタッフで、英語ができるだけで特権階級でもあるかのような振る舞いであったが、顧客の意外な反応に作戦を変えたものと思われる。
ここでいいたいことは、ビジネスの世界は詐欺とビジネスの境目ギリギリのところでやり取りが行われるので、法律や英語も勉強しましょう、ということではない。本来、プロであるなら顧客が法律論など持ち出す前に対応してあげることではないだろうか、ということである。ビジネスは「詐欺の寸止め」であると誰かがいっていたが、的を射ている表現だと思う。本当にギリギリのところの交渉が多いのは確かである。しかし、長期的に考えると、法律論や規則を持ち出す前に顧客の意向に耳を傾け、できるだけその意向に沿った対応をしてあげることが大切であると思う。その結果、顧客はまたあなたのところに戻ってくるし、末永くお付き合いいただけるパートナーになってくれるはずである。理論や知識を鍛えるのもいいが、顧客の期待に応えるためのハートを養うことのほうが大切であることを気づかせてくれる良い経験であった。
その後、前出の賃貸物件の貸主企業担当者には、「御礼」ののしをつけて菓子折りを郵送しておいた。2年後の賃貸借契約更新の交渉を視野に入れつつ。