スペシャリストの生き方

自分だけの生態学的ニッチで生きる

裁判官の文章は悪文のチャンピオン

岩淵悦太郎氏によると悪文のチャンピオンは、頭脳明晰であふれんばかりの教養の持ち主であるはずの裁判官の判決文だそうだ。たしかに、学生時代、判決文を読んでいると理解に苦労することが多かった。とにかくストーリーを追いかけるのが非常に難しい。理解に苦しむ自分が法学の学習に向いていないと思うこともあった。しかし、これは判決文に共通する文体のようである。日本語の専門家からみれば悪文の部類に入るわけなので、自分に対してそんなに悲観する必要もないことになる

もうひとつ自分も気になった点で、本多勝一氏の指摘する読点がある。むかし、「MBAの文章技術」のような記事を読んで、「文章は話すように書け」というアドバイスがあったためか、やけに読点が多い文章になった時期があった。自分で息継ぎした場所に点を打つので、むやみに点が増えたのかもしれない。でもこの読点が実は重要であることがわかった。

 

「その晩、三人で、牛肉の鍋をかこんだ。さうして、道也は、ほとんど一人で、引きあげの仕事を『うそ』と、『まこと』を、おりまぜて、おもしろおかしく、はなした。」

 

多くの作品を世に出した日本の小説家である宇野浩二の文章だそうだ。かたっぱしから点を置けば点の意味もなくなり読むほうもリズムが狂う。よって、適切な点の打ち方が文を引き締めることになるので大切ということだ。

また、読点の位置も重要であり、文章の意味そのものも変わることを理解した。

 

「渡辺刑事は血まみれになって、逃げ出した賊を追いかけた。」

「渡辺刑事は、血まみれになって逃げ出した賊を追いかけた。」

 

読点の位置で渡辺刑事が血まみれなのか、賊が血まみれなのか違うわけで、こんな大切な機能が読点にあるのである。Word機能では単なるキーの一押しだ。でもこのようなことは論文を書くから気になりだしたことであり、その機会がなければ一生気づかなかったかもしれない。

また、課程博士で指導を受けることができない論文博士の難点は、自分の思い込みで間違った日本語表現を永遠に使い続けることである。たとえば、間違いやすい言い回しで、学術論文では、「~に鑑みて」がよく使われる。堅い表現であるが、先例や他の事例を照らし合わせる、他の事例を参考に考えるという意味であり、これを「~を鑑みる」と誤用することがある。海外の大学院で学位を取得し日本で大学教員になった人、あるいは日本のビジネスパーソンMBAを取得しているが、課程博士のような丁寧な論文指導を受けていない人の論文で誤用が散見される。その点、課程博士で論文指導を受けて学位を取った人の論文では、このような誤りがなさそうである。ここが徒弟制度の課程博士における強みかもしれない。ただ、論文博士でも学術雑誌等への論文投稿を何度も繰り返していれば当然指摘が入るし、複数の審査員の目に触れれば、いろいろな角度からの助言も出てくる。よって、油断は禁物であるが課程博士でなくても難点は克服する方法はあると思われる。