生態系という秩序は生物や環境条件が複雑に組み合わさることで、結果的に全体として辻褄が合うようになっています。みんな勝手に振る舞い、好き勝手にやっているけれど、どこかで帳尻があって安定しているということです。サステイナブルとかいって、持続可能な社会をめざす努力などしなくても、もともと世の中は持続可能にできているということ。
このことを説明する言葉で私が初めて接したのが「スケールフリー・ネットワーク」です。酒井敏『カオスなSDGs』(集英社新書、2023年)で説明されていました。私がこのスケール(基準)がフリー(ない)という構造から、ストレス・フリーな人生も送れると思えたのが一つの収穫です。
なぜなら無理な努力や「私は○○であるべき」とか「世の中は○○であるべき」などの主義は持たない方がよいと気づかせてくれたからです。自分を楽にしてくれた、リラックスさせてくれた、やっていることを正当化してくれたという意味で非常に価値がある概念でした。
カオスな複雑系のシステムには、中央政府や上層部のようなものがありません。誰もルールを決めていないし、方向性も示していないのに、システムそのものが勝手に原因と結果のフィードバックを繰り返し自己組織化し安定します。生物の進化がそうであるように、そこには何の意思も目的もないのです。複雑なネットワークの研究から、共通の秩序があることがわかったきたのですが、それがスケールフリーになります。
私たちは、SDGsだとかESGとかいって、一生懸命にサスティナブルな社会をめざそうとがんばっています。でも人間社会もスケールフリー・ネットワークである以上、無理に一つの方向性に揃える必要はないということになります。
国家や企業など、意思決定を担う中心が存在するシステムでは、何を決めるにしてもベクトルを一つの方向に揃えます。そうしないと「やっている感」も出ないし、意思決定したことにならないので、とりあえずベクトルを一つの方向に合わせなければなりません。だから政治をめぐっても「右か左か」という対立になりやすいのでしょう。また、国連主導の温暖化対策も、いったん「人間活動主因説」が正しいと決めたら、そちらに向かい全員が動き出します。本当にそれが正しいかどうか誰もわからないのに。
しかし、スケールフリー構造の社会を安定させるには、「これが正しい」と決め打ちせずに、それぞれがバラバラに行動した方がよいことになります。そういう意味で「スケールフリーを体現するとストレス・フリーになれる」と思えたのです。
しょせん人間の努力で気候を変えようなどいうのは傲慢なのかもしれません。多くの複雑な要因が絡み合って今の環境ができています。10年後、20年あるいは100年後の地球環境など誰がわかりますか。それを無理に方向性を決め打ちし、ベクトルを揃えることは愚かなことなのかもしれません。そう考えると自分だけでもみんなと違う方向に進むことの方がかえって持続可能性に貢献できると思うと楽になります。
世界が同じ方向に進み出した時こそ、違う方向に進むことでリスクマネジメントの役割を果たしているともいえるかもしれません。世の中からみれば何も役に立っていないことしているとか思われるかもしれませんが、やはり「遊び」は必要ということでしょう。余計な戦略など考えずに、ネットワークの中で原因と結果の一部に加わりながら、好き勝手にやっていればいいといわれれば、こんな楽なことはないことでしょう。