スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

文系・理系の発想をやめ仕事を「おもしろい」に変える

日本では高校生のときに、文系と理系という分け方で進路を決めます。大学の受験科目がそのような分類になっているので仕方がないのかもしれません。しかし、人生のその後の可能性を考えた場合、そんなに簡単に決めてもいいものでしょうか。大学に入学してから、どうもカリキュラムは自分に合わない、職業を選択してから、やりたいこととは違いそうだということはよくあることだと思います。

江勝弘『理系・文系「ハイブリッド」型人生のすすめ』(言視舎、2019年)によると、高校における文理選択の弊害を次のように指摘します。

① 将来の職業選択の幅を狭める

② 教養不足の社会人を生み出す懸念がある

③ 特定科目に苦手意識を持ったままになる

④ 選択しなかった特定科目の学習機会を奪われる

大学は専門知識を身につける場所と考えた場合、たしかに、文系・理系に分けてカリキュラムを構成するほうが効率的なことは理解できます。しかし、そのような効率性を追及することと引き換えに、前述の弊害を受け入れる価値があるのかは疑問です。

特に日本の大学4年間で得られる専門知などある程度限りがあります。それは、日本の大学の教育制度が悪いのではありません。社会のシステムがそうなっている。すなわち、大学3年生の後半からは、「就活」がはじまり、専門分野を深く学ぶ時間が確保できないからです。

ある程度、専門的な知識を企業側から期待されている理系は、大学4年の後に、大学院の修士課程で学ぶことが多いことを考えると、そもそも4年では専門性は修得できないことの証左ではないでしょうか。その結果、文系の学生に対して専門知識など企業側も期待しなくなるわけです。

そのわりには、これからはジョブ型雇用だといい、専門性が期待されます。世の中がいっていることとやっていることに整合性がないので、学生も戸惑います。そのような混沌とした状況に身を置きながら、バタバタと就職予備校化した大学で時間を過ごす学生は気の毒な気がいたします。

一般教養科目は、「般教/パンキョー」などといわれ、専門科目より軽く見られがちですが、人生に幅を持たせる、あるいは、前述の江氏の指摘の逆で、職業選択の幅を広げることにとても意味があると思います。

そして、私が最も大切だと思う点は、職業選択の幅を広げる以上に、今、目の前の仕事の幅を広げることに絶大な力を発揮するのが、文理融合の発想ではないかということです。どんなに専門性を深めても、どこかで行き詰ることがあります。さらに深く深く、誰も追随できないような専門性で徹底的に特化していく。ところがある時に、どうしても専門性だけでは突破できない壁があることに気がつくわけです。

私の場合は文系ですが、現在の仕事でも行き詰まり感があるとすれば、数学の知識やプログラミングの知識、情報ネットワークの知識が不足しているからです。それらの武器があれば、もっと仕事の幅は広がり、「おもしろい」のにと思います。そうです。文系・理系の区分けをしないでいると、自分の中でイノベーションが起きて、目の前の仕事で「おもしろい」ことができるのです。

その点、文系・理系と勝手に分けてしまい、自分をどちらかに押し込めることはナンセンスです。現実の仕事は複雑で、文系・理系でわけることができるほど単純ではないと思います。よって、自分は文系だと思う人は理系のことを、自分は理系だと思う人は文系のことを学んだほうが、単調でつまらない仕事を、「おもしろい」仕事に変えることができると思います。一度、自分の目の前の仕事をじっくり観察し、別の分野の知見を使ってできることはないか考えてみるのもいいと思います。