職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

まやかしの雇用形態「正規雇用」

正規雇用者」と「非正規雇用者」あるいは「正社員」と「非正社員」、どれも正式な定義は存在していない。強いていうなら、①労働契約の期間の定めがなく、②所定労働時間がフルタイムで、③直接雇用であるのが正規雇用であったり正社員であったりするのであろう。それにしても、正規と非正規、あるいは正と非という表記は、まるで身分を表すかのような印象を与える。この言葉のイメージからまるで前者は保護の対象で、後者は保護しなくてもよいような印象まである。しかし、正しくは契約内容の違いだけであり、身分はまったく関係ない。

労働政策研究・研修機構「諸外国の非正規労働者処遇の実態に関する研究会報告書」(2016年)を読むと、EUでは人種、民族、宗教又は信条、障害、年齢及び性的指向を理由とする差別が禁止されている。そして、同一労働同一賃金の概念が浸透しているといえ、基本給は労働協約による規制によって正規と非正規に賃金格差はない。よって、ドイツでもフランスでも賃金格差をめぐる紛争はほとんどないのが実態である。賃金格差を設ける場合、雇用者側の責任として、単に「勤続期間に差がある」とか「労働の質に差がある」などの抽象的な主張のみでは足りず、その差額がどうして生じるのか客観的に説明することが要求される。

イギリスは少々異なるが、正規雇用者も非正規雇用者も労働法の保護のもとにあり、むしろ多様な働き方としてパートタイム労働はスタンダードな雇用形態になっている。

アメリカは特殊で、処遇の格差は労働市場で調整されることになる。自由競争市場の国だけあり、実力で高い賃金を獲得したければ転職して賃金を上げてくということであろう。ただし、性差別や人種差別、宗教、出身国などの差別は厳しく禁じされ紛争も多い。一方、非正規なので不当だという紛争はない。

このようにみると、日本人がいっている正規雇用と非正規雇用は、諸外国では契約形態の違いということで、本人が好きなほうを選ぶという選択肢でしかないことになる。また、正社員という概念も日本や日本の雇用慣行に影響を受けた韓国だけのもので、英語に正社員の訳語すらない。無理に訳すなら"Seishain"であろう。

さらに海外では非正規雇用のほうが、賃金が高い国も多い。それだけリスクを取っているのだからプレミアムが支払われるのである。雇用者側も自分の都合でそうしているのだから、それだけプレミアムを支払わなければならない。しかし、日本は違う。非正規雇用者は賃金が低くて雇用も不安定ということになる。これでは不公平である。

そして、正規雇用を正式に表現すると「期間の定めのない労働契約」で、それと対比されるのが「有期労働契約」であろう。しかし、日本においては期間の定めのない労働契約も実は期間の定めがあるのである。それは定年である。アメリカやカナダ、オーストラリアなど定年制が違法な国もあるが、日本は定年制が一般的で違法ではい。そのように考えると日本の労働者はすべて非正規雇用といってもいいことになる。

そして、有期労働契約だとしても、判例では契約更新を何回も重ねた場合には、その有期労働契約は「期間の定めのない契約」に転化したものとみなされるという。実際の判例では次のようなものがある。

「期間の満了毎に当然更新を重ねてあたかも期間の定めのない契約と実質的に異ならない状態で労働契約が存在していたといわなければならない場合、雇止めの意思表示は実質において解雇の意思表示にあたり、雇止めの効力の判断に当たっては、解雇に関する法理を類推すべきである」(最高裁第一小法廷 昭和49年7月22日判決)。

「期間の定めのない契約と実質的に異ならない関係が生じたということはできないものの、季節的労務や臨時的労務のために雇用されたのではなく、その雇用関係はある程度の継続が期待されていたものであり、5回にわたり契約が更新されていたのであるから、このような労働者を契約期間満了によって雇止めするに当たっては、解雇に関する法理が類推される」(最高裁第一小法廷 昭和61年12月4日判決)。

とにかく、業務が恒常的に存在し、その他正規雇用社員と同じ業務をしている場合、よほど能力に問題があるとか、業務がなくなったとか、会社の経営状況が著しく悪化したような場合でなければ、解雇権濫用法理が適用されて労働者は保護されるのである。

それであれば、日本において公平で透明な労働市場を創造するためにも全員非正規雇用にすべきなのである。全員1年契約にして、好きな働き方を選べることにする。しかも今までの判例法理をさらに拡大解釈し、契約更新の1年目からすべてのケースで解雇権濫用法理を適用する。ただし、当該業務において労働者の能力が著しく不足する場合、業務自体が存在しなくなった等の場合には、雇用者側から事前に解雇通知ができることにしたらよい。

業務遂行に支障をきたしているのに、そのまま当該業務を担当させるのは問題である。また、業務が存在しないのに、会社にしがみつけというのも本人にとって不幸である。組織もどんどん人を入れ替えることで活性化する。日本の非正規雇用から抜け出せない人もいつでもチャンスが与えられる労働市場にしなければならないと思う。非正規雇用の人たちだけが不利益を被る社会に未来があるとは思えない。みんな切磋琢磨して本人が成長し、組織が成長し、社会が成長することは悪いことではない。日本における定年まで安泰だと思わせる正規雇用こそ、労働者に油断と隙を与える、まやかしの雇用形態だといえる。ある意味で労働者に残酷な雇用慣行であろう。

一市民の「コロナ終息宣言」と展望

世の中、新型コロナウイルスを抑え込もうと必死である。犠牲者ゼロを達成しなければならないような雰囲気もあるが、それはまるで意図的に自らの体を傷つけるような自傷行為のようでもある。コロナの波が来るたびこのようなことをしていては社会や経済がもつわけがない。今年の自殺者数が2万人に届きそうなことでもわかる。コロナの死者数が3千人程度なのに。

コロナがもたらしたものは何か。それは社会の分断だと思われる。コロナの問題は万人に共通のことなので、みんなが真剣に考え悩むのは当然である。しかし、貧困や差別、自殺や失業といった問題は、とりあえず自分に関係なければどうでもよいという立場をとり得る。隣の女性が経済的に行き詰って自殺しようと、よその子が食べるものがなくて困り、まともに教育も受けられないでいようと、他人事ということで済ませることができる。

しかし、コロナは違う。誰もが例外なく自分に関係するから必死になるのである。社会の分断を促すコロナは、他人の苦しみを自分の苦しみと同じようにとらえることができるのかどうか、あるいは他人の苦しみを現実的な感覚をもって想像できるのかどうか、それでどちらの立場に立つのかが変わるのではないだろうか。

そして、最大の難題は「恐怖」である。コロナで死ぬかもしれないという思いも、失業するかもしれないという思いも、貧困に陥るかもしれないという思いも、すべて「恐怖」が源にある。この恐怖を感じないようにするためにはどうしたらよいのであろうか。

一つの試みとして、筆者の中では、既に「コロナ終息宣言」を出してみた。勝手に自分で宣言しているだけであるが知人や家族には笑われる。しかし、自らの思考を無理やりにでもポジティブにもっていき、周りにも波及するぐらいに振る舞うことも大切だと思う。家族は社会の最小単位といわれるが、家族のうち一人でも落ち込んでいると、その波動は波及して他のメンバーにも影響する。社会も世界もそれと同じである。小さな渦が大きな渦へと広がるように、まずは自らが肯定的な思いで心を満たすときだと思う。

そこでまず、2021年の春休みの予定を入れてみた。鳥取や島根に旅行してみようと思う。ただ、Go Toトラベルの利用など次の世代にツケを回すことはできるだけ避けたい。また、2021年の夏休みはトルコ経由のフランス行き航空券を手配した。帰りはイスタンブールに寄って3泊してみる。子どもたちにアラブの世界の端っこでもみせようと思った。旅行会社の担当者は、本当に手配していいのですか、と念押ししてきたが、いつもの通りお願いしますと伝えた。

また、企業の倒産件数も増え、借り入れの返済猶予の要請も増えているようであり、経済も厳しさを増している。2021年は、さらに危機的な状況に陥る企業が増えるであろう。そこで、コロナの先を見据えて自分に投資することにした。今の状況では、株式、不動産、金など、有形資産に投資しても未来は見通せないと思ったので、無形資産への投資にした。無形資産の定義は難しいが、個人であれば知識、経験、教育、人脈、情報、ノウハウなどである。有形資産と異なり無形資産は市場価値が落ちづらい。むしろ、投資すればするほど無形資産の価値は高まっていく。今こそ無形資産への投資のタイミングだと思った。もちろん、この先、勤務先が倒産する、整理解雇される、転職する、病気になるなど様々なリスクがあるであろうが、自分は大丈夫であると思い込むようにした。

これから先の仮説であるが、2021年の春にコロナは終息するとの前提を立てた。引き寄せの法則ではないが、そのように思い込むことに決めた。この冬で集団免疫を獲得するのか、あるいはウイリスが弱毒化して、人体に悪影響を及ぼさないくらいに変異すると仮定してみる。ちなみに、2019年にコロナ禍を予言していた、インド人少年の占星術師Abhigya Anand氏も2020年4月の時点で「現在の状況は第一波で、第二波が2020年12月20日から2021年3月31日まで継続するであろう」という。残念ながらYouTube規約違反ということでオリジナルのビデオは削除されているが、一部はインドのOneindia Teluguというニュース・メディアによるAbhigya Anand Latest Prediction : No Peace on Earth Until March 31, 2021 (16th April 2020)で視聴することができる。

中屋敷均『ウイルスは生きている』(講談社新書、2016年)によると、どんなウイルスも時間が経過すると毒性が減る。それはウイルスという病原体の宿命だそうだ。その謎の答えは、ウイルスは生きた細胞の中でしか生きられないので、宿主(人間やトリ)が絶滅すれば自分も存在できなくなるためである。新型が宿主を殺してしまうのは、その宿主の中でどのように振舞えばよいかわからず、暴れてしまっているからである。

井上栄『感染症 増補版』(中公新書、2020年)では、ウイルスを保有している動物は病気にならないという。そのメカニズムはよくわかっていないが、長い進化の過程でその動物とウイリスが共生関係を構築したのではないかと仮定している。

根路銘国昭新型インフルエンザの「正体」』(講談社+α新書、2010年)も、トリの世界にはすべてのインフルエンザウイルスが分布し、多くの場合は病気を起こすことなくトリたちと共存しているという。なぜ、ウイルスがトリに広く分布しているのかは、本当のところはわからない。トリは地球の広い地域を移動できるので、ウイルスの生きる環境も広くなると考えると、何となくなぜトリなのかが読めてくる。一方、インフルエンザのウイルスが好んで人間を選んだ理由はというと、人間は免疫反応でウイルスをすぐ排除する。その環境下でウイルスは進化の速度を速め、自らを変身させるという生きざまを体現することができる。その意味で、人間はウイルスの遊び場であるともいう。このように考えるとウイルスと人間はお互いの進化のために肩を寄せ合っているとも解釈できる。

結局、人類が新型コロナウイルスを季節性インフルエンザと同様の扱いでよいと思えるときがコロナ終息のときということではないだろうか。われわれがウイルスを特別視しなくなり、自分の身の回りに普通に存在し一緒にいても違和感がない、心地よいと思えるぐらいの感覚にならないと終息の時期はこないのであろう。

そしてもう一冊、武村政春『ヒトがいまあるのはウイルスのおかげ!』(さくら舎、2019年)も次の通り述べる。ナノメートル・サイズのウイリスにとって、マスクの布などやすやすと素通りする。除菌も常在菌など必要な菌まで死滅させるのでよくない。一方、免疫システムがウイリスの増殖速度より勝っていれば発病しないという。また、バクテリオファージというウイリスは殺菌効果があり食品添加物抗生物質の代替としての使用も研究されている。よって、ウイリスにはいろいろな可能性が秘められている。

どうも、ウイルス学や感染症学の本物の専門家は達観している。また、自らがわからないことには、本当のところはわからない、と正直に表明している。ここが本物の専門家を見分けるポイントかもしれない。それに比べてメディアに登場する専門家はどうも浮足立っているように思えてならない。本物はテレビになど出演しないということなのだろうか。

最後に、山本太郎感染症と文明』(岩波新書、2011年)をみてみる。14世紀にペストがヨーロッパ社会に与えた影響が三つあった。

①人口が減り人手不足のために労働者の賃金が上昇し、労働者が経済的余裕を手にした

②教会は権威を失い、国家という意識が芽生えた(キリスト教の呪縛から解放された)

③既存の制度では登用されなかった人材が登用されるようになり、社会や思想の枠組みが変わった

パンデミック後は、これらによって新しい価値観の創造がなされている。同じ現象を悲観的にみることも、楽観的にみることもできるが、現下の厳しい情勢において、あえて後者のポジションで前向きに乗り切ったほうが同じ時代を生きる者として望ましいといえる。これが一市民としての「コロナ終息宣言」である。なんともいい加減な精神論だといわれるかもしれない。しかし、科学や医学に大きな期待を寄せすぎても失望は大きい。ワクチンへの期待もあるが、来年の春には収束してもらい、製薬会社には申し訳ないが無駄な研究開発となって欲しい。一市民として打てる手はそんなにない。政治家や一部の専門家のいう通りにしていたら、どんどん追い詰められる人が増える。よって、一市民として終息宣言させていただくことにした。

多くの人が恐怖を抱くことなく、平然とした顔をして外を闊歩する日が一日も早く訪れてくれることを祈りたい。

人生を導くみえない力を信じる

とくに若い方は、いろいろ将来のことを悩んでいることであろう。これだけ先行きが不透明であれば、だれでも心配になる。そんなとき、悩んでも仕方がないので流れに身を任せるという選択肢もあることを思い出したい。

これから、どのような職業に就いて、どのような人生を送ろうかと考える時期というのは、20代でも30代でも40代でもある。もちろん、50代の筆者にもある。そして、人生でどのような選択をするのが自分にとってよいのか、なかなか答えがみえないことが多い。しかし、考えてみるとAという人生とBという人生を選んで、AとBを比較できるように人生はできていない。そして、複数選択ができないのであれば結局どれを選んでも正解ということになる。

また、自分で「自分の人生を切り開く」というが、発想の問題で自分の人生は自分で選べないという考えもあり得る。たとえば、筆者は大学で哲学を学びたかったが、試験に合格できずに法学を学ぶことになった。社会人最初のスタートは損害保険会社で、途中コンサルティング会社に転職したかったが、無理で外資系保険ブローカーに転職している。ベンチャー企業で活躍してみたいと思ったが、大した実績も出せずに転職した。あるいは新規事業を起こしてみたいと努力してみたが、社内で採用されることはなかった。さらに、論文博士で学位にも挑戦してみたが未だに成功していない。

しかし、哲学ではなく法学を学んだので民間企業には就職しやすかった。コンサルティング会社には転職できなかったが、自分の専門性を生かせる損保業界で働けた。ベンチャー企業で活躍できなかったが、ベンチャー企業の難しさを学べた。新規事業は起こせなかったが、既存業務をより深く取り組むことができている。論文博士は無理であったが、課程博士であれば学術の世界の人脈もできるメリットがあるかもしれない。結局、いいことを数え上げようと思えば、後付けでいくらでも出てくる。そもそも起こっていること自体に本来意味はない。それに意味を与えているのは私たちであり、その過程で自分の信念や価値観が入っているだけである。

そしてどの場合も、自分の中に期待があったがすべてその期待は裏切られている。しかし本当にそれが自分の期待だったのか、自分がそれをやりたかったのか、あるいはやるべきだったのかといわれると確信がもてない。もし、神様がいたとして自分の人生を神様に決められているとしたらどうであろうか。本来は進むべきでない道に進もうとしていた自分の首根っこをつかまえて、進むべきはそちらではなく、こちらであると軌道修正している可能性はある。

あるいは、最近流行りのスピリチャルの世界でいう、もう一人の自分、すなわちハイヤーセルフがいて、別の高次元から最適な道を指示しているというのもあり得るシナリオである。自分の意思で最初に選んだ選択肢の先は崖っぷちだったかもしれない。それを回避できたからこそ今があるといえる。最近は最先端の量子力学と宗教が融合しているくらいなので、そのような発想もあってよいであろう。

占星術も神秘的ではあるがインドでは科学であるという。筆者も20代後半でインドの占星術というものを知り人生に活用してきた。2017年に亡くなってしましったが、アメリカのロサンゼルスにチャクラパニ・ウラル(Chakrapani Ullal)氏という有名なインド占星術師がいた。毎年自分の誕生月に彼に自分の人生の道筋を教えてもらっていた。電話にて約1時間リーディングという会話が行われる。たとえば、転職のこと、引っ越しのこと、新しい仕事のこと、経済的なこと、海外に行くこと、望ましい人生の選択などいろいろな助言をもらったが、タイミングを含めて非常に的確な内容であった。科学というからには、当たった、当たらない、という表現はふさわしくないかもしれないが、よく当たっていた。

過去のことに関しては、家族の構成や、家族の悩み、学んだ学問のこと、仕事のことなどことごとく正しかった。100%彼の助言を信じていたわけではないし、日々の生活で彼のいったことなど忘れていただが、後で振り返っても70%から80%は正しいといってもいいであろう。そして、インド占星術を生活に取り入れる最大の利点は、人生であまり悩むことが少なくなったということである。生まれた時の星の配置で、その人の人生はおよそ決まっているなど非科学的と一蹴する人もいるであろうが、現代科学、とくに西洋科学では認識できていない未知の世界があることを信じてもよいと思う。そのほうが楽に生きられるのであれば。

いずれにしても、人生は自分の思い通りにいっていないと思う前に、本当は自分がやりたいことができているのかもしれないという立場に立ってみることもよいのではないだろうか。とにかく、自分が認識している世界がすべての実在であると信じ込むのはどうであろう。私たちが住んでいる宇宙は、想像をはるかに超える複雑さで、突拍子もなく神秘的な世界なのかもしれない。しょせん、私たちの五感で知覚できることは、眼前に広がる世界のほんの一部分でしかないのだから。

PCR検査の精度の低さと専門家の躊躇

コロナ感染者数が増えているというニュースが盛んに流れる。でも毎年のインフルエンザも同じ波を示すのではないか。冬は乾燥し感染しやすいだけではないか。想定内と考えれば何も問題は起きない。人口動態統計によると2018年のインフルエンザ死亡者数は3,325名である。2020年12月18日時点の厚生労働省の集計による新型コロナウイルス死亡者数は2,783名である。そのほとんどは何らかの疾患を抱えていた高齢者であろう。

そして、問題になるのは感染者数である。PCR検査の陽性者=感染者として報道されているが、PCR検査の精度は高くない。またPCR検査でわからないことに、ウイルスがいたとしても活性があるのかどうかわからないことがある。そして、ウイルスがいたとしても細胞に感染しているかどうかわからない。あるいは、ウイルスがいたとしても発症しているかどうかわからない。普通の風邪でも同じであるが、人間の体内に風邪ウイルスくらいいて当然で、免疫力があれば発症しないで終わるのである。医学の専門知識はない素人でも、今まで生きてきた経験で十分わかることである。

西村秀一『新型コロナを「正しく恐れる」』(藤原書店、2020年)によると、今まで日本で医療崩壊を回避できてきたのは、PCR検査の対象を絞り込んで検査数を減らしたためであるという。軽症の患者が際限なく病院に行くことをとどめることができたのは幸運であった。不安に駆られた人たちが好き放題にPCR検査を受けることができていたら、検査のための人的・物的資源が乏しかった検査体制が崩壊していたはずである。軽症者や陽性陰性ギリギリの偽陽性者を山のように病院に送り込めば確実に破綻していた。本当にラッキーだったといえる。

しかし、残念ながら冬が到来し、いつもの感染者数増加の報道にあおられて、検査を受ける人も増えている。本来であれば、普通に病院に行って「風邪ですね。お薬出しておきましょう」といわれて家に帰り安静にして済んでいたものが、心配だからPCR検査を受けてみようということになれば、それは感染者数が増える。別に感染者数=患者数ではないのだけれど、ニュースをみれば大変なことになっていると普通の人は思う。

PCRは検査時の検体中での遺伝子の存在を示すだけであり、生きているウイルスがどれだけあるかということは、この検査ではわからない。たとえば、不活化して空中を浮遊しているウイルスが、たまたま吸われて鼻腔に張り付いていたものを検出すれば陽性と判定されてしまう。考えてみれば乾燥した冬に陽性判定が増えて当然である。

さらに「低価格のPCR検査センター相次ぎオープン 申し込み殺到も」というニュースもあり、民間の検査がビジネスとして大盛況のようである。これらの民間業者にしてみれば、毎回、PCR検査を連呼していた学者のおかげで新規事業を創造できたわけであり、足を向けて寝られないであろう。

しかし、なぜ専門家はPCR検査の精度は信頼できるレベルではないことをきちんと説明しないのであろうか。一人がPCR検査で陽性になっただけで、その周囲で接触者はみな二週間自宅待機では社会が立ち行かない。誰が考えても明らかであろう。世界中の人々がまともな感覚を取り戻せないでいる。

専門家も専門家であるがゆえの弱点があるのだと思う。結局、自分の専門分野のすぐ隣のことすらよくわかないことはよくあることである。しかし、人間の良心に従えばどうもおかしいと思うのだが、自分の専門から少し外れると理論的に説明する自信が100%ない。あるいは、自分は専門家ではあるが自分が見落としている情報や論文があるかもしれない。そうすると他の専門家から突っ込まれるので黙っておこう、というような心理が働くこともあるであろう。「同調圧力」という言葉があるが、それよりも専門家としてのプライドがリスクのある発言を思いとどまらせているかもしれない。逆の言い方をすると、そのような慎重さのない、いい加減な専門家が情報発信を継続しているともいえる。ナチス・ドイツの宣伝大臣だったヨーゼフ・ゲッベルスの有名なセリフで「嘘も百回言えば真実となる」という言葉があるが、それと同じで圧倒的な成果を収めたことになる。

西村秀一氏はいう。しっかりした戦略を決めていかないと、社会全体がめちゃくちゃになりかねない。おそらく一部の人は犠牲になる。それは自分かもしれないし、自分の家族かもしれない。でも残念ながらゼロはあり得ない。犠牲になった人の遺族や関係者は当然、ちゃんとしてくれていたらこんなことにはならなかったと非難する。一人でも犠牲者が出たら政策決定者は「人でなし」といわれる。その気持ちは理解できるが、社会全体の幸せはそうはいかない。どこかで心を鬼にして「ここで線を引く」という考えが必要だと。

しかし、心を鬼にしなくても、合理的に考えれば今の状況は腑に落ちない。あの冷静なドイツのメルケル首相も、感情を爆発させ拳を振り上げて「今年が祖父母との最後のクリスマスになったとしたら、我々は重大な間違いを犯すことになるでしょう。そうした事態は絶対に避けなくてはなりません」と叫んだ。しかし、コロナだろうがコロナでなかろうが、祖父母との最後のクリスマスになる可能性は誰にでもある。人間は未来永劫生き続けることはないのだから。あのような非理性的な演説をさせた力はなんなのだろうか。世界の人が一度立ち止まって冷静に考えるときのようである。そして、自分の良心に従って発信するときだと思う。利害打算ではなく。

コロナで作られた数字に追い込まれる弱者

新型コロナによる死者数は水増しされている。S・バクティ=K・ライス『コロナパンデミックは、本当か?』(日曜社、2020年)によると、ドイツにおいてコロナの犠牲者の解剖を行った医師がいる。その結果、犠牲者の誰一人として健康な人がいなかったという。全員が一つの病気、あるいは複数の病気を患っていた。2人に1人が心臓疾患を抱えており、それ以外にも高血圧、動脈硬化、糖尿病、癌などの問題があった。

実は、ドイツ以外にスイスやイタリアでも同じことが報告されている。さらに興味深いことに、犠牲者の3人に1人は肺寒栓症に罹っていた。これはいわゆるエコノミークラス症候群として有名な病気であり、足の血流が悪くなり血栓が剥離し肺に流れ肺の血管を詰まらせる病気である。高齢で運動不足になる人に典型的に現れるが、高齢者が恐怖のあまり外出できないで肺寒栓症になり死亡しているのである。これは在宅勤務をすると自覚できるが、散歩を頻繁に入れないと血流が悪くなるのがわかる。日本は外出の自由が確保されているからいいが、それもできない国があることを考えると大変なことである。

興味深いことは、スウェーデンの著名な感染症学者は自国民にまったく正反対のことを推奨していることである。すなわち、新鮮な空気を吸って運動をすることと。しかし、多くの高齢者はマスクがウイルスを防いでくれていると信じている。ただし事実は全く逆で、特に肺疾患患者や心臓の弱い人には深刻なリスクを伴う。本来は日本でも「高齢者は外に出て新鮮な空気を吸おう」というスローガンでも掲げるべきなのである。

そして、ドイツでは信頼に足るコロナウイルスによる死亡者数のデータはないそうである。重大な間違いは、PCR検査で陽性反応を示した人をすべてコロナウイルスの犠牲者として公式に記録されてしまったということである。この記録の仕方は国際的なガイドラインに違反する方法であり、大きな誤りであるという。

「コロナウイリスによる死」の定義に大きな誤りがあるというがどういうことか。極論するなら、どんな病気でもよいが死亡時に陽性の結果が出ればコロナによる死亡になってしまうという。実際の事例で、ある終末期の食道癌の患者が息を引き取る前に検査を受けたら陽性で、息を引き取ったらコロナによる死亡とカウントされたという。検査の結果が判明したのは患者が息を引き取った後だというのに。

これではデータ取得に根本的な欠陥があることになるが、WHOによって定められたという。そして、PCR検査で陽性であれば臨床診断がどうであれCOVID-19として報告しなければならなかった。この定義は感染症学における基本的なルール違反で「感染」と「感染症」を区別しなければならないという。COVID-19は感染者の10%にしか発症しない病気の名称にもかかわらず不適切な定義のために症例が急増してしました。

それでは、日本ではどうなのだろうか。2020年6月14日読売新聞によると自治体によって差があるという。青森県は「医師は死因を老衰などと判断した。感染が直接の死因ではないが、県としては陽性者の死亡を『死者』として発表している」と説明している。このような恣意的な判断が入るコロナによる死亡者数であるが、厚生労働省は「新型コロナウイルス感染症の死亡者」を発表するときに、都道府県のホームページ上の公表数を積み上げたといい、この死者数をWHOに報告しているそうである。こんなことがあるのである。

なぜこんなことになるのか不思議である。PCR検査についても専門家の間では、ときに陽性者が陰性と出たり、陰性者が陽性と出たりする偶然の要素があるというのが一般的な理解である。なぜ、こんなものを信じるのであろうか。誤った陽性結果で隔離された場合は不当拘束である。声高にPCR検査の必要性を主張されていた学者は、何をしたかったのであろうか。政府の政策立案者は感染者数が増えるほうが都合がよいと思えばPCR検査を増やせばよいだけである。そして、陽性反応が出た人を全員病院に送り込めば医療は崩壊するであろう。

しかし、なぜインフルエンザと変わらない、ただの風邪ウイルスに人類は振り回されるのか。各国の政治家はこの機会に自分の方針の正当性や政策の力強さを示す良い機会として、各種数字を操作してでもコロナ禍を利用したいのだろう。目的がそれであれば、論理的な判断はできないので仕方がない。将来、真実が明らかになれば信用は失墜するというのに今がよければOKだ。

WHOはどうであろうか。この巨大な組織は資金の80%を外部資金に頼っており、その多くは製薬会社からの寄付だという。ワクチンという巨大なビジネス機会を提供するという視点でみればそれも納得できる。ワクチンの副作用で死者が出ても製薬会社への責任追及はあるだろうが、WHOの責任追及までには至らないであろう。

研究者はどうであろうか。マスメディアに洗脳された大衆に迎合するほうが得策である。予算を使って複雑な実験を繰り返して真実の証拠をつかむよりも、大衆受けするコメントや記事を書いているほうが低予算で喜ばれる。もうエンターテイナーになりきるほうがよい。

マスメディアはどうであろうか。視聴者のためではなくスポンサーのために過激な報道で視聴率を上げればスポンサーは喜ぶ。でも長期的に経済が冷え込めば、企業の広告宣伝費も枯渇するというのに。とにかく今がよければ将来のことは問わないとうことだろうか。

経済界はなぜ声をあげないのか。大企業は最終的に公的資金で救済されると思えば、余計なことをいって批判されるリスクは取らないのかもしれない。業績悪化してもコロナ禍という免罪符があれば、経営者の責任追及は難しいので静観しているのか。

このように考えると結局、社会的弱者が死の淵に追い込まれる。中小企業は資金繰りがつかないで倒産するところが増える。大企業の役員は自分の報酬を下げる前に、従業員の賃金カットを先行する。キャンセルや延期された手術のせいで、助かったはずの命を落とす人もでることになる。生活に行き詰まり自殺する人がおり、精神的にも脆弱な子どもの自殺も増える。食事もまともにできないで、先進国といわれる国でも餓死者が出る。子どもたちは社会的接触を止められ、大好きな友達とも遊べないし、おじいちゃん、おばあちゃんとも会えず、社会性を身につける機会を奪われる。家庭内暴力により、弱い立場の女性や子どもは命の危機にさらされる。カフェで世間話をするのが唯一の生きがいであった高齢者は、その生きがいを奪われる。

このような副次的被害を考えると、本当に今のコロナ対応が正しいのか疑問である。いずれ結論がでるのであろうが、多くの人はまともな思考を取り戻すことができない。政府や専門家、あるいはマスメディアは、毎日感染者数や死亡者数を報告するよりも、この副次的被害を分析し、もう一度政策の正しさを証拠に基づき検証するべきかもしれない。「今は経済よりも命が大切」というコメントがテレビから聞こえた。コロナ以外の要因で人は簡単に死んでしまうことを忘れているのであろう。

ジェネラリストの悲劇を回避する

ジェネラリストかスペシャリストのどちらで生きるべきかの議論は永遠に続くと思われるが、やはりジェネラリストを選んでもスペシャリスト的な生き方をしないと最後は詰まる。実は、組織内でジェネラリストとして出世した人も出世しなかった人も、定年退職という最後のゴールは同じである。役員になれば労働契約から委任契約になるので、定年は関係なくなるが、いずれにしても後継者プランに従い、いずれは退任の時期がくる。

そして、出世したジェネラリストとそうでないジェネラリストを比較した場合、より大きなダメージを受ける人は、出世した人のほうかもしれない。たとえば、それまで、200名という部下がいた役員が、突然、従業員数20名の子会社に出向することはある。急に10分の1の組織に異動するショックはいかほどであろう。あるいは、いきなり顧問ということもあり、その場合部下はいない。この落差による衝撃は本人にしかわからない。

このようなことは定年制を長らく維持している日本の企業社会では当たり前のことであるので、今さら何をいっても仕方がない。アメリカやカナダ、オーストラリアなどは定年制が年齢差別となり違法なので、自分で退職のタイミングは決めることになる。たしかに、人間は60歳や65歳を境に突然能力が衰えることもないし、人によっては子どもがまだ自立していない場合もある。ジェネラリストとしての人生を選んだばかりに、ある年齢を境に突然キャリアが途絶えるわけである。

たとえば、60歳の誕生日の朝目を覚まし、自分が変わってしまったと自覚する人はいないであろう。突然、体力がなくて起きられないこともない。変わらない日常として一日はじまるわけである。考えてみると日本の定年制は他律であり、アメリカの制度などは自律しているといえる。人任せの人生ではなく自分で自分のことを決めるという、極めて合理的な仕組みになっている。

ところで、日本のジェネラリストの退職時のような残酷な事象を回避することはできるのか。あるとしたら、自分で自分をリストラし、ジェネラリストとしての人生を捨てることである。30歳定年制を推奨する筆者としては、20代で仕事の基本を身につけた後は、最初からスペシャリストとして生きていくことを決めてしまうことがよいと思う。そうすることで、会社でのポジションがどうであろうと、その人のキャリアは60歳以降も続く。もし、他者から必要とされるノウハウを持っているのであれば、60歳でも70歳でも世の中から必要とされるのである。

その点、大企業の役員になってしまい、部下が何百名もいたりすると、自分の専門性など関係なくほとんど組織の人事的なことで振り回されてしまう。多くの時間が部門間の人のやり繰りなどで浪費されてしまう。もちろん、自分の専門性など身につかない。会議も多く接待も多いが、どれも専門性を要求されるものではない。専門性が必要な業務は部下がやるので、自分が専門業務をやりたいと思ってもできない。それをやってしまったら役員は務まらないのである。よって、もしそれが嫌なら自分で自分をリストラしスペシャリストの人生を選ぶことが必要になる。

厚生労働省が発表した2020年の簡易生命表による日本人の平均寿命は女性が87.45歳、男性が81.41歳である。この平均寿命をベースに自分の事業計画を作るとすると、30年の事業計画が必要になる。仮に10年長生きしたとするリスクも織り込むと、なんと40年の事業計画が必要になる。自分の40年前は12歳であり、ほとんど記憶も残っていない。ビジネスで事業計画を作成するときには、せいぜい5年、長くても10年ではないだろうか。まったく経験したことのない思考と仮説が必要になる。

このように考えると、やはりジェネラリストで居続けることは、とんでもないリスクを取ていることになる。誰にも当てはまるが、平均寿命できれいにあの世にいけるという保証はない。こればかりは定年制と同じように年齢で切ることができないわけである。

そして、最大の問題はジェネラリストからスペシャリストへの転換は容易ではないということである。40歳定年制が提唱されているが、それでは明らかに遅いのである。やはり30歳定年制だと心得てそこからスペシャリストの道を歩み、さらに50歳あたりからは自分が事業家であるという意識をもって、いくつもプロジェクトを走らせないと先がないことになる。そういう筆者も30年の事業計画など作ったことがないが、少なくとも死ぬまで社会に貢献できるような、あるいは次の世代を育てるような仕事はしたいと思う。それをさせてくれるのがスペシャリストの生き方であろう。

組織に異質な人材を抱え込む大切さ

アリ社会は、自らの組織を長期的に存続させるために、非常に多様な人材(アリ)で構成された集団を形成していることがわかっている。長谷川英祐『働かないアリに意義がある』(中経の文庫、2016年)によると、アリ社会では、よく働くアリは3割程度で、残りの7割は働いていないという。

そして、この働かないで何もしていないアリの中には、生まれてから死ぬまで働かないアリもいるという。「アリとキリギリス」のイメージでは、アリはよく働くと思い込んでいたが、意外にもアリは働かないのである。そして、その働かないアリにも存在意義があり、働いているアリが疲れて働けなくなると、その働いていなかったアリが巣の存続のために働きだすのである。一見、組織に無駄があり非効率にみえるアリの世界でも、集団が長期的に繁栄するためには、この働かないアリの存在に意味があということである。

しかも、みんな同じようにみえるアリにも、それぞれ体に個性があり、標準的なアリばかりということではないようである。規格品ばかりではなく、規格外のアリを集団に抱え込み、あえて非効率な状況を維持している。しかし、それを非効率といってしまうのは浅薄であり、実はアリが達成した進化の形なわけである。

さらに、一匹のアリが大きなエサをみつけて、そのエサを運ぶために他の仲間を呼び寄せるときに、フェロモンという匂い物質を地面につけて他のアリを導く。賢いアリは、そのフェロモンの通り行動して行列を作るわけであるが、たまに賢くないアリがいて異なる動きをすることがあるそうである。そして、バカな行動をと思いきや、実はフェロモンの通りの道のりよりも、その賢くないアリがエサまでの最短のコースをみつけることがあるそうである。組織にはぐれ者がいるほうが実は効率的なこともあるという実例である。

考えてみると人間社会も多様な人材がいるほうがよいのである。学校であれば、勉強できる人、できない人、あるいは、努力する人、しない人、会社であれば、仕事のできる人、できない人、あるいは、効率のいい人、悪い人、いろいろな人の集合体によってバランスを保っているのである。よって、あるプロジェクトを成功させたいと思いメンバーを集めるときは、優秀な人材だけを選抜するよりも、多様性を意識した人選のほうが、イノベーションが起きるのかもしれないということは重要な点かもしれない。

また、首都圏では小学校から私立に通う人や中高一貫校に通う人なども多く、地元の公立学校を敬遠する人さえいる。しかし、現実の社会は多様なわけで、同質な人たちとだけ戯れていても、人生を生き抜く実力は身につかないのかもしれない。

1990年代後半に、大手金融機関が総会屋へ利益供与するという法令違反事件があった。エリート経営者も総会屋という全く異質な人たちへの対処方法はわからなかったわけである。長年脅され続け、多くの金融エリートたちは総会屋に巨額の資金を提供し続けてしまった。そのように考えると多様性の中に身を置くということが人生を快適に送る鍵になるともいえる。学校にはいじめっ子がいてもよく、勉強のできない子がいてもよい。職場には鬼軍曹のような人がいてもよく、要領の悪い仕事の遅い人がいてもよい。世の中に不要なものも人もいない、すべては意味があると思えば受け入れられる。

結局、人間が効率的な組織、生産性の高い会社、成果を出せる人材育成とかいっても、実は本質を突いていないのかもしれない。できない人材、不器用な人材を排除して、優秀な人材を集めれば成果が出るというものでもない。余裕を失った組織や社会は崩壊するのである。ある程度、遊びを取り入れ、余力を持って生きていかないと長期的に成果を出すのは難しいのだと思う。

そして、多様な人材を組織に取り込むことで期待できる機能にリスクマネジメントがある。自分が正しいと思って突き進むところに自分とは異なる考えの人の邪魔が入る。この邪魔がいいのである。明らかに組織のリスクマネジメントになる。同質な人材の集団では気づかないリスクを異質な人材が見抜いてくれる。意外な指摘に自分も何が正しいのかわからなくなることがあるが、そこで一旦止まることがその先にある危機を回避することになる。自分が常識と思うことに異を唱える人が周りにいることは、居心地が悪いかもしれないが組織が存続するためには重要な要素なのである。