とくに若い方は、いろいろ将来のことを悩んでいることであろう。これだけ先行きが不透明であれば、だれでも心配になる。そんなとき、悩んでも仕方がないので流れに身を任せるという選択肢もあることを思い出したい。
これから、どのような職業に就いて、どのような人生を送ろうかと考える時期というのは、20代でも30代でも40代でもある。もちろん、50代の筆者にもある。そして、人生でどのような選択をするのが自分にとってよいのか、なかなか答えがみえないことが多い。しかし、考えてみるとAという人生とBという人生を選んで、AとBを比較できるように人生はできていない。そして、複数選択ができないのであれば結局どれを選んでも正解ということになる。
また、自分で「自分の人生を切り開く」というが、発想の問題で自分の人生は自分で選べないという考えもあり得る。たとえば、筆者は大学で哲学を学びたかったが、試験に合格できずに法学を学ぶことになった。社会人最初のスタートは損害保険会社で、途中コンサルティング会社に転職したかったが、無理で外資系保険ブローカーに転職している。ベンチャー企業で活躍してみたいと思ったが、大した実績も出せずに転職した。あるいは新規事業を起こしてみたいと努力してみたが、社内で採用されることはなかった。さらに、論文博士で学位にも挑戦してみたが未だに成功していない。
しかし、哲学ではなく法学を学んだので民間企業には就職しやすかった。コンサルティング会社には転職できなかったが、自分の専門性を生かせる損保業界で働けた。ベンチャー企業で活躍できなかったが、ベンチャー企業の難しさを学べた。新規事業は起こせなかったが、既存業務をより深く取り組むことができている。論文博士は無理であったが、課程博士であれば学術の世界の人脈もできるメリットがあるかもしれない。結局、いいことを数え上げようと思えば、後付けでいくらでも出てくる。そもそも起こっていること自体に本来意味はない。それに意味を与えているのは私たちであり、その過程で自分の信念や価値観が入っているだけである。
そしてどの場合も、自分の中に期待があったがすべてその期待は裏切られている。しかし本当にそれが自分の期待だったのか、自分がそれをやりたかったのか、あるいはやるべきだったのかといわれると確信がもてない。もし、神様がいたとして自分の人生を神様に決められているとしたらどうであろうか。本来は進むべきでない道に進もうとしていた自分の首根っこをつかまえて、進むべきはそちらではなく、こちらであると軌道修正している可能性はある。
あるいは、最近流行りのスピリチャルの世界でいう、もう一人の自分、すなわちハイヤーセルフがいて、別の高次元から最適な道を指示しているというのもあり得るシナリオである。自分の意思で最初に選んだ選択肢の先は崖っぷちだったかもしれない。それを回避できたからこそ今があるといえる。最近は最先端の量子力学と宗教が融合しているくらいなので、そのような発想もあってよいであろう。
占星術も神秘的ではあるがインドでは科学であるという。筆者も20代後半でインドの占星術というものを知り人生に活用してきた。2017年に亡くなってしましったが、アメリカのロサンゼルスにチャクラパニ・ウラル(Chakrapani Ullal)氏という有名なインド占星術師がいた。毎年自分の誕生月に彼に自分の人生の道筋を教えてもらっていた。電話にて約1時間リーディングという会話が行われる。たとえば、転職のこと、引っ越しのこと、新しい仕事のこと、経済的なこと、海外に行くこと、望ましい人生の選択などいろいろな助言をもらったが、タイミングを含めて非常に的確な内容であった。科学というからには、当たった、当たらない、という表現はふさわしくないかもしれないが、よく当たっていた。
過去のことに関しては、家族の構成や、家族の悩み、学んだ学問のこと、仕事のことなどことごとく正しかった。100%彼の助言を信じていたわけではないし、日々の生活で彼のいったことなど忘れていただが、後で振り返っても70%から80%は正しいといってもいいであろう。そして、インド占星術を生活に取り入れる最大の利点は、人生であまり悩むことが少なくなったということである。生まれた時の星の配置で、その人の人生はおよそ決まっているなど非科学的と一蹴する人もいるであろうが、現代科学、とくに西洋科学では認識できていない未知の世界があることを信じてもよいと思う。そのほうが楽に生きられるのであれば。
いずれにしても、人生は自分の思い通りにいっていないと思う前に、本当は自分がやりたいことができているのかもしれないという立場に立ってみることもよいのではないだろうか。とにかく、自分が認識している世界がすべての実在であると信じ込むのはどうであろう。私たちが住んでいる宇宙は、想像をはるかに超える複雑さで、突拍子もなく神秘的な世界なのかもしれない。しょせん、私たちの五感で知覚できることは、眼前に広がる世界のほんの一部分でしかないのだから。