スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

一市民の「コロナ終息宣言」と展望

世の中、新型コロナウイルスを抑え込もうと必死である。犠牲者ゼロを達成しなければならないような雰囲気もあるが、それはまるで意図的に自らの体を傷つけるような自傷行為のようでもある。コロナの波が来るたびこのようなことをしていては社会や経済がもつわけがない。今年の自殺者数が2万人に届きそうなことでもわかる。コロナの死者数が3千人程度なのに。

コロナがもたらしたものは何か。それは社会の分断だと思われる。コロナの問題は万人に共通のことなので、みんなが真剣に考え悩むのは当然である。しかし、貧困や差別、自殺や失業といった問題は、とりあえず自分に関係なければどうでもよいという立場をとり得る。隣の女性が経済的に行き詰って自殺しようと、よその子が食べるものがなくて困り、まともに教育も受けられないでいようと、他人事ということで済ませることができる。

しかし、コロナは違う。誰もが例外なく自分に関係するから必死になるのである。社会の分断を促すコロナは、他人の苦しみを自分の苦しみと同じようにとらえることができるのかどうか、あるいは他人の苦しみを現実的な感覚をもって想像できるのかどうか、それでどちらの立場に立つのかが変わるのではないだろうか。

そして、最大の難題は「恐怖」である。コロナで死ぬかもしれないという思いも、失業するかもしれないという思いも、貧困に陥るかもしれないという思いも、すべて「恐怖」が源にある。この恐怖を感じないようにするためにはどうしたらよいのであろうか。

一つの試みとして、筆者の中では、既に「コロナ終息宣言」を出してみた。勝手に自分で宣言しているだけであるが知人や家族には笑われる。しかし、自らの思考を無理やりにでもポジティブにもっていき、周りにも波及するぐらいに振る舞うことも大切だと思う。家族は社会の最小単位といわれるが、家族のうち一人でも落ち込んでいると、その波動は波及して他のメンバーにも影響する。社会も世界もそれと同じである。小さな渦が大きな渦へと広がるように、まずは自らが肯定的な思いで心を満たすときだと思う。

そこでまず、2021年の春休みの予定を入れてみた。鳥取や島根に旅行してみようと思う。ただ、Go Toトラベルの利用など次の世代にツケを回すことはできるだけ避けたい。また、2021年の夏休みはトルコ経由のフランス行き航空券を手配した。帰りはイスタンブールに寄って3泊してみる。子どもたちにアラブの世界の端っこでもみせようと思った。旅行会社の担当者は、本当に手配していいのですか、と念押ししてきたが、いつもの通りお願いしますと伝えた。

また、企業の倒産件数も増え、借り入れの返済猶予の要請も増えているようであり、経済も厳しさを増している。2021年は、さらに危機的な状況に陥る企業が増えるであろう。そこで、コロナの先を見据えて自分に投資することにした。今の状況では、株式、不動産、金など、有形資産に投資しても未来は見通せないと思ったので、無形資産への投資にした。無形資産の定義は難しいが、個人であれば知識、経験、教育、人脈、情報、ノウハウなどである。有形資産と異なり無形資産は市場価値が落ちづらい。むしろ、投資すればするほど無形資産の価値は高まっていく。今こそ無形資産への投資のタイミングだと思った。もちろん、この先、勤務先が倒産する、整理解雇される、転職する、病気になるなど様々なリスクがあるであろうが、自分は大丈夫であると思い込むようにした。

これから先の仮説であるが、2021年の春にコロナは終息するとの前提を立てた。引き寄せの法則ではないが、そのように思い込むことに決めた。この冬で集団免疫を獲得するのか、あるいはウイリスが弱毒化して、人体に悪影響を及ぼさないくらいに変異すると仮定してみる。ちなみに、2019年にコロナ禍を予言していた、インド人少年の占星術師Abhigya Anand氏も2020年4月の時点で「現在の状況は第一波で、第二波が2020年12月20日から2021年3月31日まで継続するであろう」という。残念ながらYouTube規約違反ということでオリジナルのビデオは削除されているが、一部はインドのOneindia Teluguというニュース・メディアによるAbhigya Anand Latest Prediction : No Peace on Earth Until March 31, 2021 (16th April 2020)で視聴することができる。

中屋敷均『ウイルスは生きている』(講談社新書、2016年)によると、どんなウイルスも時間が経過すると毒性が減る。それはウイルスという病原体の宿命だそうだ。その謎の答えは、ウイルスは生きた細胞の中でしか生きられないので、宿主(人間やトリ)が絶滅すれば自分も存在できなくなるためである。新型が宿主を殺してしまうのは、その宿主の中でどのように振舞えばよいかわからず、暴れてしまっているからである。

井上栄『感染症 増補版』(中公新書、2020年)では、ウイルスを保有している動物は病気にならないという。そのメカニズムはよくわかっていないが、長い進化の過程でその動物とウイリスが共生関係を構築したのではないかと仮定している。

根路銘国昭新型インフルエンザの「正体」』(講談社+α新書、2010年)も、トリの世界にはすべてのインフルエンザウイルスが分布し、多くの場合は病気を起こすことなくトリたちと共存しているという。なぜ、ウイルスがトリに広く分布しているのかは、本当のところはわからない。トリは地球の広い地域を移動できるので、ウイルスの生きる環境も広くなると考えると、何となくなぜトリなのかが読めてくる。一方、インフルエンザのウイルスが好んで人間を選んだ理由はというと、人間は免疫反応でウイルスをすぐ排除する。その環境下でウイルスは進化の速度を速め、自らを変身させるという生きざまを体現することができる。その意味で、人間はウイルスの遊び場であるともいう。このように考えるとウイルスと人間はお互いの進化のために肩を寄せ合っているとも解釈できる。

結局、人類が新型コロナウイルスを季節性インフルエンザと同様の扱いでよいと思えるときがコロナ終息のときということではないだろうか。われわれがウイルスを特別視しなくなり、自分の身の回りに普通に存在し一緒にいても違和感がない、心地よいと思えるぐらいの感覚にならないと終息の時期はこないのであろう。

そしてもう一冊、武村政春『ヒトがいまあるのはウイルスのおかげ!』(さくら舎、2019年)も次の通り述べる。ナノメートル・サイズのウイリスにとって、マスクの布などやすやすと素通りする。除菌も常在菌など必要な菌まで死滅させるのでよくない。一方、免疫システムがウイリスの増殖速度より勝っていれば発病しないという。また、バクテリオファージというウイリスは殺菌効果があり食品添加物抗生物質の代替としての使用も研究されている。よって、ウイリスにはいろいろな可能性が秘められている。

どうも、ウイルス学や感染症学の本物の専門家は達観している。また、自らがわからないことには、本当のところはわからない、と正直に表明している。ここが本物の専門家を見分けるポイントかもしれない。それに比べてメディアに登場する専門家はどうも浮足立っているように思えてならない。本物はテレビになど出演しないということなのだろうか。

最後に、山本太郎感染症と文明』(岩波新書、2011年)をみてみる。14世紀にペストがヨーロッパ社会に与えた影響が三つあった。

①人口が減り人手不足のために労働者の賃金が上昇し、労働者が経済的余裕を手にした

②教会は権威を失い、国家という意識が芽生えた(キリスト教の呪縛から解放された)

③既存の制度では登用されなかった人材が登用されるようになり、社会や思想の枠組みが変わった

パンデミック後は、これらによって新しい価値観の創造がなされている。同じ現象を悲観的にみることも、楽観的にみることもできるが、現下の厳しい情勢において、あえて後者のポジションで前向きに乗り切ったほうが同じ時代を生きる者として望ましいといえる。これが一市民としての「コロナ終息宣言」である。なんともいい加減な精神論だといわれるかもしれない。しかし、科学や医学に大きな期待を寄せすぎても失望は大きい。ワクチンへの期待もあるが、来年の春には収束してもらい、製薬会社には申し訳ないが無駄な研究開発となって欲しい。一市民として打てる手はそんなにない。政治家や一部の専門家のいう通りにしていたら、どんどん追い詰められる人が増える。よって、一市民として終息宣言させていただくことにした。

多くの人が恐怖を抱くことなく、平然とした顔をして外を闊歩する日が一日も早く訪れてくれることを祈りたい。