職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

自然に振舞い免疫システムを形成する

腸内には免疫細胞が体全体の約7割と集中的に存在しており、病原菌などの有害なものを攻撃して、有害物質がそのまま取り込まれないように防御してくれている。免疫システムの鍵となるのが腸内フローラであるが、そもそも腸内フローラとは何だろうか。人間の腸内細菌の種類は1,000種類以上、数にすると100兆個にもなり、顕微鏡で腸の中を覗くと、それらはまるで植物が群生している「お花畑(flora)」のようにみえることから、腸内フローラと呼ばれるようになった。

光岡知足『腸を鍛える』(祥伝社新書、2015年)によると人の健康にプラスに働く菌を善玉菌、マイナスに働く菌を悪玉菌とし、腸内フローラのことを説く。そして、善玉菌と悪玉菌という名前を付けておきながらも、物事を善悪で分けるべきではないという。

悪いものを排除するという発想は短期的には好結果をもたらすかもしれないが、長期的にみた場合、生態系のバランスを崩し、生命活動を損なうリスクを抱えるという。たとえば、抗生物質の濫用によって耐性菌が次々と生まれ、しかも善玉菌も死滅してしまうため腸内フローラがガタガタになり、結果として個体の健康も低下する。すなわち善玉菌を増やせば健康になれるという単純な話ではなく、善玉菌も悪玉菌も、そしてそのどちらでもない日和見菌も含めたすべてのバランスが大切で、それによって最高の腸内フローラを形成する必要があるということである。

光岡氏の見出した共生哲学によると、善玉菌を全体の20%程度にすると腸内のバランスが整い悪玉菌は悪さをしなくなるという。そして、大多数の日和見菌も調和を乱すことがない。人間の免疫機能をもっとも活性化させる腸内フローラを形成する方法は悪玉菌を駆逐して善玉菌で腸内を満たすことではないということになる。

同じことが本間真二郎『感染を恐れない暮らし方』(講談社ビーシー、2020年)にも述べられている。細菌など微生物が悪であり排除しようという考えがある。現代社会には様々な抗菌グッズもあり無菌状態がよいような風潮があるが、そんなことはない。あらゆるものや生物、菌、ウイルスには意味があり不要なものはないというのが正しいあり方である。この世にあるものすべてに意味があるという思想である。

そして、過剰な手洗いうがいは逆効果であるとする。常在菌は常に人間の皮膚や口腔内、腸内に住み着いて私たちを守ってくれているが、過度な潔癖症による手洗いうがいはそれらの常在菌も洗い流してしまい、外からの感染に対して無防備にしてしまう。よって、不自然な生活をせずに、普通の生活を心がけるべきという。自然に振る舞っている限り、私たちの防御システムはそれだけで完璧に機能するということである。

あらゆるものとの共生。そのようなあり方のおかげで、私たちは健康に生きられるのである。無菌状態に育った人間は免疫システムも含めて非常に脆弱な生き物になってしまう。新型コロナウイルスに対する考えも同じで、ウイルスと戦っている限り出口はみえない。なぜならウイルスも必要であるからこの世に出現しており、人間と戯れながら共生しようとしているわけである。私たちももう一度、自分も自然の一部であることを思い出し,自らの免疫システムを本当に活性化することを考えないと、このままでは免疫機能が衰えていく一方になるのではないか。

人としての能力を奪うIT技術に注意

最近、30年前に書いた修士論文の要約を書く機会があった。30年前の論文は400字詰め原稿用紙に手書きである。幸い、20年前にその手書き論文を業者にお願いして、ワードでタイプしてもらっていたので、ワード原稿で読むことができた。さぞかしひどい論文かと思ったが、内容はともかくとして日本語はまともであった。意外な結果を不思議に思い、いくつか仮説を考えてみたところ、次のことが思い当たった。当時、20代前半の自分には、自説を展開するほどの頭はないので、ほぼ権威のある学者の論文の引用であったこと。もう一つ重要かもしれないことは手書きであったので、文章がしっかり書けていたという仮説である。

川島隆太スマホが学力を破壊する』(集英社新書、2018年)によると、脳の活動を計測する実験で、手書きで手紙を書くと前頭前野は活発に働くのに、パソコンや携帯電話で手紙を書いても、前頭前野が働かないそうである。なんとも恐ろしい事実ではないか。前頭前野は、人間を人間たらしめている脳の一部で、考える、記憶する、アイデアを出す、感情をコントロールする、判断する等、人間にとって重要な機能を担っている。この前頭前野が衰えると、感情的になったり、切れたり、考えることができなくなったりする。

川島氏の実験結果による仮説は、パソコン等を使っているときは、キーボードを入力して出てきた文字を変換するだけでいいのに、手書きであれば複雑な漢字を思い出し、手書きしなければければならないので、前頭前野が活性化するというのも。IT技術を使うことによって便利になったものの、その分、前頭前野の機能を使わないことになると、その機能は明らかに衰えるという事実に危機感を感ぜずにはいられない。その他、手書きでメモする学生とパソコンでメモする学生を比較すると、手書きの学生のほうが、記憶が定着して成績がよいという研究も複数あるので、やはり手書きをあなどってはいけないということである。

このような背景を考えると、30年前に書いた論文は前頭前野をフル回転させていたので、日本語の文章も比較的しっかりしていたのかもしれない。少なくとも自分の感覚からすると、30年の間に自分の文章力に進歩は感じられなかったといえるぐらい、自分の30年前の文章は今の文章と遜色はないというのは驚きである。

また、重要な発見に日本語の誤りが極端に少なかった。たとえば、一例でしかないが、多くの人が誤る「○○に鑑み」を間違うことなく書いていた。その後、社会人になって「○○を鑑み」という誤った表現が身についてしまっていた自分は、学生時代よりも日本語力が衰えていたことになる。ここでも一つの仮説が成り立つが、昔は文章を読むときは書籍や雑誌、論文しかなかった。それは練りに練って書かれた文章だったので、私たちは良質で洗練された文章しか読む機会がなかったといえる。ところが、インターネットが普及し、悪文も含めて様々な文章を目にする機会が増えた。その結果、私たちの文章も乱れてきたということはあり得るであろう。インターネットで簡単に情報が取れるのは良いことであるが、その副作用として読まなくてもいい情報まで読んでしまっているということかもしれない。あるいは質の悪い文章も読まされているということかもしれない。

また、最新のIT技術の弊害にWeb会議がある。人と直接会わなくなることでも前頭前野が衰えることがある。実際に対面で話をすると前頭前野は大いに活性化するのに、Web会議であると前頭前野はほとんど働かないということである。対面であれば空気を読むという高度なコミュニケーション技術をフルに活用する必要があるのに、Web会議では不要になるということかと思われる。

最近、カナダのトロントでお世話になった英語の先生と20年ぶりにWeb会議システムで話をした。たしかに懐かしく楽しかったが、思ったよりも感動がなかった。久しぶりに人と会うときに感じるときめきというのもがなかった。そして、感動の余韻も意外に残らなかった。あまりにもあっさりした後味に自分でも意外な印象を持った。おそらくWeb会議システムというIT技術のためだと思われる。

このように、在宅勤務が増えて働き方も変わってきているが、IT技術がすべてを解決することはないようである。むしろ、IT技術も抑制的に使っていかないと、人間は脳の重要な部分を使わなくなり衰えるとともに、人間らしさも失われてしまうのかもしれない。最新技術を活用して効率的な仕事をして生産性を上げることも大切ではあるが、あえて非効率と思われる手書きを取り入れることや、対面による会話を心がけるということも重要かもしれない。テクノロジーに100%依存していれば万事うまくいくということではないのであろう。何事も中庸が大切ということか。

「子どもの教育は親の責任」ではない

日本の大学における財源確保のために大学基金の設立よりも、公共投資として大学への予算配分を大幅に増やすべきだと思う。これは長期的な投資であり、リターンは必ずあるであろう。

図表は過去の大学の初年度納付金の推移を、国立大学と私立大学に分けて比較した表である。1975年(昭和50年)では、国立大学の初年度納付金はわずか86,000円であった。それが、2020年現在はゼロが一つ多くなり、817,800円である。45年で約10倍である。その間、国民の所得は10倍になったであろうか。

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筆者が大学生になった1987年では、国立大学と私立大学の初年度納付金の差は1.7倍まで縮まっている。たしかに、自分の初年度納付金は、私立大学でも比較的安いほうだったと記憶しているが、70万円ちょっとはあった。そのとき親の経済的な痛みは想像できなかった。親が払ってあたりまえ、とでも思っていたと思う。そして、2000年には、1.4倍までになっており、現在は1.7倍まで開いたものの、私立大学の授業料にも格差がでているので、その影響で私立大学の平均が上がっただけだと思われる。もし、中央値で比較するともっと差はないと推察する。

初年度納付金80万円という世界は、もう「国立大学」とは呼べないと思う。なぜ、ここまで大学の授業料等が値上がりするのを国民は黙ってみていたのだろう。授業料が値上がりする一方で、近年の家計所得は低下傾向にあったというのに。フランスであれば、間違いなく学生のデモがはじまるであろう。

このようなことをしていれば、わが子のために家計支出を減らして、将来の子どもの教育費のために備えようとなり、間違いなく消費は冷え込む。子どもの数は増やせないので、ますます少子化に拍車をかける。国立社会保障・人口問題研究所の調査によれば、自分たちが理想とする子どもの数を生まない理由として「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」が56.3%で最も多く、内閣府の調査でも、将来、子どもがさらに増えたときの不安として「経済的負担の増加」が70.9%と最も高かった。国民の多くは教育にお金がかかるので、子どもを産めないわけである。

なぜ、日本では税金を教育に使う合意が得られないのであろうか。それは、国民の意識の中に、子どもの教育は親の責任という哲学が刷り込まれているからであろうか。たとえば、矢野眞和ほか『教育劣位社会‐教育費をめぐる世論の社会学』(岩波書店、2016年)における調査によると、増税による「借金のなしの大学進学機会の確保」の施策に対して、調査対象者全体の30%程度しか賛同が得られていない。一方、「年金安定化」には70%の人が賛同している。「公立中学・高校の整備」には50%程度が賛成ということで、意外にも高等教育への投資には興味がないという結果になる。調査対象者の高齢化もあるかもしれないが、結局、わが身が一番なわけである。

昔から道徳教育や修身教育において家族中心主義をもとに、子どものしつけは親の責任、あるいは、子ども教育は親の責任、という表現が日本人の思想に影響を与えてきたのはあると思う。しかし、子どもの教育は親の責任といっても、経済的な負担を親がしなさい、という趣旨ではないと思う。経済的な負担は社会がすべきなのを、どこかで取り違えたのではないか。家族中心主義は冷たい社会を作る。自分の子どもの教育にはお金を惜しまないが、他人の子どもに税金は使いたくない、という本当に「冷たい社会」である。

一方、個人主義が貫徹しているヨーロッパ社会をみてみると、高等教育は社会が責任をもって提供するというシステムが確立されている。ドイツやフランスには、大学への入学金も授業料も存在しない。年間数万円の登録料で終わりである。あとの財源は国が準備し、国の将来の発展のために投資しているのである。この点をみると、ヨーロッパは「温かい社会」で日本は「冷たい社会」と映る。日本人は優しく道徳観があって公共心も旺盛というのは、表面的なことでしかない。内実は冷たい人々による冷たい社会なのである。

図表をみれば明らかである。多くのヨーロッパの国々は、未来への投資として教育に予算を配分しているわけである。日本は下から数えて2番目のみじめな状況である。

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これは教育基本法にも端的に表れている。フランスの教育基本法の第1条では「教育は、国の最優先課題である。教育という公役務は、生徒及び学生を中心に置いて構想され組織される。それは機会の均等に貢献するものである。人格の発達、初期教育・継続教育の水準の向上、社会生活・職業生活への参加、及び市民としての権利の行使を可能にするため、教育を受ける権利は各個人に保障さる」とはじまり、国民の権利として規定されている。非常に力強い。

一方、日本の教育基本法は、第1条で「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と規定され、国の責務とされている。ある意味で上から目線である。

1966年の国際人権規約の第13条2項Cでは「高等教育は、すべて適当な方法により、とくに、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じて、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること」と規定された。日本は2012年に批准し、国際公約として政府の努力義務になっている。しかし、努力のかけらもみえないのが今の日本政府といえる。もうそろそろ、アメリカに日本の模範となるシステムはないことに気がついてもよいと思う。

直観的に思い当たる財源は、医療費を削減して高等教育の全員無償化にまわす方法である。日本人の異常なほどの病院好きは、それこそ国民病であり、健康保険制度の見直しは避けられないと思う。シルバー民主主義のための若者の未来を奪うのはもう終わりにしなければならないのではないか。いつか詳細な検証はしなければならないと思う。

アメリカの大学基金は日本で成功しない

2020年11月27日の日本経済新聞私の履歴書に元東京大学総長の小宮山宏氏の「信託基金」に関する記事を目にした。ハーバード大学スタンフォード大学といったアメリカの私立大学では卒業生から寄付を集め、巨額資金によって投資による運用益を得ているという。そして、同じように東京大学でも2008年に120億円の基金を集めて運用したが、リーマン危機により運用益を出せずに失敗したということである。

そもそも、アメリカの私立大学の大学基金は、優秀なファンド・マネージャーがおり、非常に高度な投資手法を駆使して投資運用益を確保しており、日本で同じようなことをしようと思えば、とても120億円などという規模では厳しい。また、有能なファンド・マネージャーを雇うのにも高額な報酬がいる。ハーバード大学基金の規模は4兆円近くあり、ファンド・マネージャーの報酬も、おそらく1億円以上ではないかと思う。このような世界を夢見て、トヨタ自動車三菱UFJ銀行など日本の大手企業の支援を得た小宮山氏であったが、残念ながら信託基金への期待は幻に終わったようだ。

信託の歴史を深く理解しているわけではないが、新井誠『信託法〔第4版〕』(有斐閣、2014年)より、信託の起源を簡潔に説明すると次の通りである。

そもそも、信託の発祥はイギリスである。そして、信託(trust)の起源はユース(use)といわれる制度で、13世紀に十字軍や百年戦争のときに、遠征する騎士(委任者)たちが、残される家族(受益者)のために土地を管理するように友人(受託者)に託したのがはじまりである。非常に優れた制度だったので広く普及したわけだが、財産を預かった友人が、債権者から財産を差し押さえられた場合に、預かった財産も同じく差し押さえられる不都合があった。あるいは、友人による横領が発生してしまうことがあった。また、財産名義を他者に移転するという特質を悪用し、封建領主からの負担や課税を回避するために、ユースは濫用されるようになり、王権側からユースを禁止されることになってしまった。しかし、ユースの機能に対するニーズはあったので、その後、そのような不都合を回避するために信託制度が登場することになる。そして、「信じて託す」という概念が、そのまま信託という呼び名になっている。

このような歴史の積み重ねがあり、預かった資産の運用技術も経験と実績に裏打ちされたものであった。そのような基盤の上にあるのが信託であり、大学基金である。イギリスの信託制度はアメリカにも渡って発展しているので、確実に信託の思想と理念、そしてノウハウはアメリカにも継承されている。アメリカでは、フロンティア開拓のための資金調達手段として信託が利用され、イギリスよりも商事的色彩を強くもって発展しているということ。さすが金融大国である。

一方、日本に信託というものが到来したのは、1905年の担保附社債信託法にはじまり、その後、信託法や信託業法などが制定され、信託会社や信託銀行も出現するようになった。今では、投資信託不動産投資信託で、一般投資家にも信託は身近になったが、せいぜい100年ちょっとの歴史しかないことになる。とてもでないが、何世紀もかけて成熟させてきた信託を使ったスキームを、日本の大学ですぐに成功させるのは無理がある。また、アメリカの大学の卒業生のように、日本の大学の卒業生が多額の資金を提供できるほどの資産家になることはない。必然的に寄付金の規模もアメリカに比べると小さくならざるを得ない。

小宮山氏はアメリカに留学し、博士論文も英語で書いているので、アメリカのことは詳しいのだと思う。そこで、アメリカのビジネスの奥義ともいえる投資ファンドというものを、日本の大学基金として成功させ財源を捻出しようとしたのであろう。日本の国立大学といえども研究費が不足して、良質な教育と研究の維持に苦慮しているので、起死回生のチャンスと思ったのかもしれない。しかし、幸いにもリーマン危機のおかげで断念となったわけである。私が「幸いにも」といったのは、日本の大学には基金などよりも公的資金としての長期的な公共投資が必要と思うからである。もちろん、財産を信じて託すという信託という制度は素晴らしいものあるが、イギリスやアメリカが何世紀もかけて熟成させてきた制度を活用して、日本の教育や研究を復活させるのは難しいのではないかと思う。

水島廣雄『信託法史論』(学陽書房、1967年)によると、1800年代後半から1900年代初期までイギリスのケンブリッジ大学で教えていた信託法の大家であるメイトランド教授が、信託はイギリスの法律家の挙げた最も顕著な功績であり、イギリス人にとっての文明に不可欠なものであり、外国の法律にはこれに相当するものがない、といったそうである。また、ドイツの法学者ギルケは、メイトランドに向かって「私はあなたの国の信託を了解することができない」といったほどユニークなもののようである。ドイツやフランスの大陸法を継受した日本の民法でも、かならず物権法と債権法という権利が想定されているが、信託における利益を受ける人(受益権者)の権利は、物権にも債権にも分類できないという難しさがあるそうである

このように考えると、イギリスやアメリカで発展してきた、信託や大学基金、そして、そのビジネス・モデルである投資ファンドによる財源確保は、日本の大学には無理ではないだろうか。そもそも、肝心の優秀なファンド・マネージャーが日本の大学基金のために働くようにも思えない。有能な人材は金融セクターに流れてしまう。よって、アメリカの受け売りではない日本独自の方法によって、日本の高等教育を復活させる必要があると思うわけである。日本の最高学府の教授たちが、なぜそのような提言をしないのか不思議であるが、アメリカを追いかけている限り、そのことに気がつかないのかもしれない。

20年ぶりのスリランカと無形資産

最初のスリランカ訪問から20年が経過した2018年に、再びスリランカへ行くことになった。目的は子どもを再訪することではなく単なる家族旅行であった。はじめて訪問したときのスリランカの印象はとても素晴らしいもので、いつか再訪したいと思っていた。1回目の訪問でも、なぜか異国のように感じることはなく、自分が昔住んでいたような印象を持った。そして、当時独身であったが、家族ができたらみんなで来ようと密かに決めていたのである。心に決めたその場所は、シーギリヤロックの上である。そこに将来の家族と一緒に戻ろうと思った。

また、これは偶然の一致かもしれないが、あるインドの占星術で、私の前世はスリランカ人の兵士であったが、その後出家して僧侶になったといわれたことがあった。また、日本人で前世を透視できるスピリチュアルな方には、私は1800年頃のイギリスによる植民地化がはじまった時代に、スリランカに渡ったインド人でヒンズー教の僧侶をしていた、ともいわれた。さらに、今回の人生では、過去世で放棄してしまった、結婚して家庭を設けるという人間として当たり前の生き方を取り戻すことが第一の目的とのこと。厳しい自己犠牲の精神のもとに抑圧的な生き方をした過去世とは逆に、人生を大いに楽しむことが今生の目的ともいわれた。

なんとも不思議な一致であった。ヒンズー教インド哲学は理由もなく興味があり、大学でも勉強したいと思っていた。希望は叶わず法学を専攻することになったが、それでも独学で哲学は学んでいた。理解できようができまいが、学んでいても苦痛ではなかったのは不思議である。正直いえば難しくてほとんどわからないにもかかわらず。このような不思議な縁があるスリランカであるが、とにかく20年ぶりに訪問することにした。

そして、出発の5日前に、床屋で髪を切ってもらっているときに、私の過去の経緯を知る店主から、「今回は子どもに会うのですか?」と聞かれた。その場では、「今回はその予定は立てていません。ただの家族旅行です」と答えたものの、家に帰る途中、頭の中のスイッチは入ってしまった。そして、直接現地のNGOに連絡し、自分は20年前にスリランカを訪問し、子どもに会っている。子どもの名前はロシャンで、出会った町はアヌラーダプラ。当時のNGOスタッフが誰で面会をアレンジしてもらった、など説明して面談の調整をしてもらうことにした。

しかし、出発前に段取りはできず、現地を旅行中にやっと調整が完了し、帰国の2日前にコロンボNGOオフィスで面会できることになった。実際に20年ぶりに再会したわけだが、もちろん、子どもではない。34歳の立派なスリランカ軍の兵士であった。子どもは2人おり、20年前にも会ったロシャンの父親にも面会できた。ロシャンの父親は立派な方で、当時家族のために自分で家を作った。もちろん、年を重ねてはいたが、当時の貫禄をそのまま残していた。さらに、20年前に世話をしてくれたNGOのスタッフにも会えた。当時、お互いの英語力を比べると彼のほうが少し流暢だった。そして、彼は南アジア限定版の英文法のテキストをくれた人だった。しかし、今回再会して気がついたことは自分の英語力のほうが彼のそれより凌駕していたことである。私の努力が実ったわけではない。ましてや私の能力が上であるわけでもない。ただ、お金の力に任せて英語に投資できただけのことである。お金の力で受けられる教育に差がでることを実体験で感じることになったわけだが、なんともやり切れない思いが残る。

実はこの再会は、日本側のNGOを通していなかった。時間がないので直接スリランカNGOに連絡して再会を実現させたものである。帰国後、日本のNGOに報告したのだが、NGOの規則では子どもの再訪は許されていないとのことであった。なんともラッキーであり、日本で相談していれば私のロシャンとの再会は実現していなかったことになる。再訪が禁止されている理由は、どうやらトラブルになるからのようである。

しかし、その後、日本側NGOの規則の趣旨は痛いほどわかることが起きた。ロシャンとは再会時に連絡先を交換し、帰国後も連絡をとれるようにした。そして、日本に帰国後に自分のSNSをみるとメッセージが入っていた。単なる他愛もない挨拶文である。それに返信するとすぐに返信がある。また、返信するとすぐに返信。日本での忙しい生活を考えると、そのようなやり取りに時間は割いていられない。毎日のように送られてくるメッセージは自分にとって苦痛となった。数週間経過し、正直にこのようなことを毎日やっていられないこと、必要なときは電子メールで連絡すること、仕事があるのでタイムリーに返事はできないことを伝えた。そしてやっとそのやり取りは落ち着くことになる。コミュニケーションの取り方が違うのか、彼が特殊なのかわからない。ただ、今は落ち着いている。

また、日本に出稼ぎに来たいという希望まで飛び出し、ブローカーにまとまったお金を支払う必要があるという話も出てきた。彼の給料は月5万円ぐらいのようである。私は搾取されるだけなので止めておけ、としか助言できなかった。もちろん、その話は実現していない。とにかく、日本人が想像できないくらい生きるのに精一杯なのかもしれない。毎日、どのようにお金を稼ぐのか。しかもスリランカ政府軍の兵士で国家公務員であるにもかかわらず。

このような経緯で、いつかロシャンとはスリランカで一緒に事業をしたいという夢がある。実現できそうなことに日本人向けの英語研修プログラムを企画し提供することが考えられる。庄野護『スリランカ学の冒険〔新版〕』(南船北馬舎、2013年)によると、スリランカの政治や経済は英語によって動いているという。議会での法案は英語で審議され、議事録も英語で作成された後に、シンハラ語タミル語に翻訳される。役所内の文書は英語で回覧されるので、国会議員も高級官僚も英語ができないと務まらない。コロンボの企業が人材を採用するときも、地方出身の大卒者よりも、コロンボの英語家庭に育った出身者を優先的に採用することもあるくらい英語が有利に働く。オフィスでしゃれた英語のジョークを飛ばせるくらいの英語家庭出身者が企業でも好まれるわけである。

また、スリランカ人の英語は書く能力に優れている。膨大な量のレポートを書く仕事でスリランカ人は活躍する。日本テレビの「ズームイン!朝」でワンポイント英会話を担当していたウィッキーさんもスリランカ人で、セイロン大学を卒業して来日している。ウィッキーさんが学んでいた当時の大学は、とびっきり美しい100%の英国式英語の世界だったそうである。ただ、今は大学内でシンハラ語も聞こえるとのこと。

このような背景を考えれば、べらぼうに高い学費を支払ってアメリカやイギリスに留学する意味は見出せない。とくに語学を学ぶだけであれば、スリランカでも問題ない。もちろん、スリランカ英語では、definetely(たしかに)が多用されるという特徴などはある。「やっておきます、definetely」「お届けします、definetely」など連発される。また、オフィスに招き入れるときなどに、come come もよく使われる。しかし、日本人にとっては、「来て、来て」「入って、入って」という表現と同じと思えば親しみが持てる。夢は膨らむ。スリランカで英語を学ぶ。荒唐無稽な話のように聞こえるかもしれないが、意外にスリランカ英語を好むマニアはいるのではないか。

先日、ロシャンから久しぶりに連絡があった。3人目の子どもが生まれた。また、妹のナボデュハが結婚した。20年前にはじめた小さな支援で私は得たものは、自分の人生における無形資産なのかもしれない。

スリランカの子どもの支援から学ぶ

スリランカの反政府ゲリラによる北東部の政府軍基地への一斉攻撃で、ゲリラ側の戦死者は、330人にのぼるといわれます。遺体収容に当たっている政府軍によると、ゲリラ側の死者の多くは10代のあどけない少女で、判明しただけで70体はあるといい、爆弾を体に巻き付け基地突入を図り、政府軍に銃撃を受けて吹き飛ばされた女性兵士が3人もいました。ゲリラ側の指導者は、戦死は民族解放のための崇高な使命であり、死を恐れることはないと、自殺覚悟の悲壮な精神教育を、少年少女の兵士にも徹底させています」

これは、1990年代後半の新聞報道である。当時、あるNGOを通じてスリランカの子どもを支援していたので、そのことがなければこの報道を見逃していたであろう。

インドからこぼれ落ちた一滴の真珠のような形をした島は、1972年にそれまでのセイロンからスリランカ共和国と国名を改め独立国家となった。スリランカとは「輝ける島」の意味である。13世紀の末、マルコ・ポーロが旅の途中で見たものは、「この大きさのものとしては、疑いもなく全世界で最も素晴らしい島」(日記より)である。またソロモン王の宝石の大部分は、この島から取り寄せたものといわれている。実際、昔から住民は自分の国を「天国の島」と呼んでいる。

私がスリランカの子どもを支援しはじめたのは1995年からであるが、その頃はちょうど和平交渉が決裂し、政府軍がゲリラの本拠地ジャフナへ攻撃を開始した頃である。その後1996年にはスリランカの首都であるコロンボでビルが爆破され、約1,500人が死傷している。この事件以来、日本人観光客は激減し観光立国スリランカの経済にも悪影響を与えていたようだ。

このゲリラは「タミール・イーラム解放のトラ(LTTE)」と呼ばれ、スリランカの多数派で仏教徒のシンハラ人の支配に反発しヒンズー教徒を中心としたタミル人の独立国を目指す組織である。少年少女の兵士も多数動員されていた。彼らは、南米船籍の貨物船を複数持ち、東欧、東南アジアから武器弾薬の調達をしていたといわれる。当時、LTTEはジャフナを追われ北部のジャングルを拠点に政府軍と戦闘を続けていた。

このようなスリランカの情勢はあったものの、1998年8月にスリランカを訪問して子どもに直接会いに行ったことがある。空港近辺は、完全武装の兵士が配置されており、500メートルおきぐらいに政府軍の検問所とドラム缶や砂のうを積んだ塹壕がある。そして、夜間、車で検問所を通るとき政府軍に嫌疑をかけられたくなければ室内灯をつける対応が必要であった。また、ホテルのゲートでは厳しいセキュリティ・チェックがあり、守衛は長い棒の先に鏡を付けた道具を使用し、車の下をすべて調べる。歯医者さんで歯の裏側を調べる鏡を思い出していただければ分かると思う。爆弾の有無を調べトランクも調べる。そのチェックが終わった後やっとホテルの敷地に入ることが許された。

この時点で、やはりこの国の軍事的緊張が普通ではないことを肌で感じ取れた。ゲリラの攻撃に対する警戒は24時間体制で行われており、警察のみではなく武装した兵士をあちこちで見うけることができるこの国は、やはり海外から内戦の国と見られてもしかたがなかった。

スリランカの人に「検問所がずいぶん多いですね」と質問すると、「確かに内戦は激しいけど、スリランカの人々はみんなとても優しいですよ」と答えた。このことはスリランカに滞在している間、私は十分すぎるほど身にしみて感じることになった。内戦の話題はとても微妙で宗教的要素も含んでいるので 、自分からこの話題を持ち出すのは良くないと思われた。また意見を述べるにしても、自分が外国人であることを十分わきまえておくべきだ。

子どもの名前はロシャン。14歳の男の子で支援をはじめた頃からみると随分成長し顔つきも大人になっていた。彼は私の首に自分で作ったガーランドをかけてくれた。そして、彼の妹のアルノデュハとナボデュハは緑色の植物の葉を私に差し出した。意味はよく分からなかったが歓迎の挨拶なのだろうと思い、彼女たちのとても小さな手からその葉を受け取った。ロシャン、アルノデユハ、ナボデュハの3人の瞳は、とてもきれいでキラキラしているのが印象的であった。

レンガ造りの家に入り、私はまず日本からのお土産をあげた。ロシャンにはTシャツ。日本ではサイズが分からず、どのサイズを買うか非常に迷った。デパートの店員に聞いても適切なアドバイスもくれず、私はSサイズを1枚と同じSサイズではあるが若干小さいもの一枚を買い、サイズが合わないかもしれない可能性を回避した。

また妹たちのサイズは全く想像もつかなかったのでミッキーマウスのタオルを買っていった。彼女たちが、はたしてミッキーマウスを知っているかどうかはわからなかったが、それでもあの夢一杯のアニメーションは彼女たちにピッタリだと思った。

そして、彼女たちが一番大喜びしたのが、日本から持っていった縁日セット。ストローの先に風船が付いていて息を吹き込み、その後ストローから口を離すと、けたたましい音を出して風船がしぼむもの。ストローから息を吹き込むとストローの先に付いている丸まった紙が突然前方に伸び出すもの。そして、紙風船である。とくにアルノデュハはこれが気に入ったらしく、3セット持っていった縁日セットを開けてくれと私にせがんだ。意外な日本のおもちゃで子どもたちが喜んでくれたのでとても嬉しかった記憶がある。

私が今回お世話になったNGOは世界で様々な活動をしていた。アンゴラの地雷認知教育、カンボジアの地雷対策と地雷被害者の職業訓練などが行われていた。

アンゴラで地雷除去の活動をしているNGOによると、1メートル四方を金属探知器で地雷の有無を調べるだけで約1時間かかり、1個の地雷を除去するのに13万円以上もかかるのだそうだ。地雷の製造単価は安価なものでたった400円だというのに。

NGOのオフィスのデスクに1枚のポスターが貼ってあった。片腕が欠落した10人くらいの子供が一列に並んでいるもので、私はなぜ子供たちが腕を失ったのかはじめ理解できずNGOの代表に聞いてみた。

「どこの国の子どもたちですか。」

ボスニアです。」

「なぜ子どもたちは片腕を失ったのですか。」

「子どもは地雷の恐ろしさを知らず、地雷で遊んだり、野原で土いじりをしたりしているうちに地雷に触れてしまう。起爆装置の部分は本当に小さいものだが、それに子どもたちは触れてしまい地雷の犠牲になってしまうのです。」

「………………」

1951年9月、サンフランシスコ対日講和会議にセイロン代表として出席したジャヤワルダナ大蔵大臣は仏陀の言葉を引用し、対日賠償請求権を放棄した。

「軍隊の駐留による被害や我が国の重要生産品である生ゴムの大量採取による損害は当然賠償されるべきである。しかし、その権利を行使するつもりはない。なぜなら「ブッタの憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む(Hatred never ceases by hatred, but by love)」との言葉を信じるからである。」

今となっては帝国主義も東西のイデオロギー的な対立もなくなってしまったが、今度は民族的対立が激化して、各地で地域紛争が絶えることなく続いている。そこで犠牲になる多くの子どもや女性、老人たちは、無意味と思える死に遭遇しこの世から去っている。もし彼ら彼女らが生まれ変われるとしたら、もっと平和な国において快適な人生の旅を送れるのだろうか。

今後も各地で多くの戦争が勃発し、どんなに平和と思える国でも治安が悪化するであろう。それは、かつて冷戦時代に軍拡競争に明け暮れ大量に蓄積された人間を殺戮する技術が世界に漏れてしまっているからである。

聖書に「蒔いた種は刈り取らねばならない」という言葉がある。良いことも悪いことも自分で蒔いた種はいつの日か必ず刈り取る日がくる。

インドのある聖者は言う。

愛の種を心に蒔き、それを奉仕という木に育て、至福という甘い果実を実らせなさい。そして、その至福をすべての人と分かち合いなさい。」

ビジネス法や英語より大切なこと

2年前に1万円の家賃値下げに成功したので、今回も10年目になる戸建ての賃貸借契約の更新前に家賃値下げ交渉をした。結果、5千円家賃を下げてもらえることで合意した。最初、1万円の値下げで交渉をスタートするものの、貸主側もいわゆるサブリースのビジネス・モデルを展開する企業なので、世間の相場に合わせてということで5千円の値下げを提示してきて合意に至った。

ところが、更新の書類が到着したとき家賃が変更されていないことに気がつき、貸主企業に連絡し家賃が修正されていないことを伝えた。そして、担当者が不在ということで後日連絡をもらうことになった。そして、1週間が経過してやっと自分の携帯電話に担当者から連絡が入る。彼はそこで、「値下げの件ですが、3千円でいかがでしょう?」と、また交渉をはじめたのである。理由は昨今、コロナ禍の影響で都心から郊外に移住する人が増えて、郊外の戸建てに需要があるのだそうだ。よって、5千円の値下げでは過剰ということであった。

彼の説明は非常に丁寧であったが、彼に対して次のように切り返してみた。「私は宅建主任の資格は持っていないのですが、賃貸借契約は諾成契約なので、先日口頭で合意に至った5千円の値下げは、契約として成立していると思うのですが」と。そして、その担当者はすぐさま、「承知いたしました。それでは5千円の値下げで」とあっさり再度合意となったのである。上司に相談させてください、とかいうのかと思ったが、何も反論もせずに間髪入れず了解となった。

あらためて学生時代の基本書、松坂佐一『民法提要 債権各論〔第4版〕』(有斐閣、1981年)を取り出してみた。今の学生は読まない基本書だと思われるが、当時は評判のよいテキストであった。

「諾成契約」とは、当事者の意思表示の合致、すなわち合意だけで成立する契約をいい、売買・贈与・賃貸借など多くの典型契約がこれに属する。これに反し要物契約とは、合意のほかになお物の引渡しその他の給付をなすのでなければ成立しない契約であって、消費貸借・使用貸借・寄託などはこれに属する、とある。しかも最近、民法が改正され、多くの契約が諾成契約になった。保険契約なども典型的な諾成契約であるが、それではなぜ申込書があり、その申込書に捺印やサインを求められるのかというと、それは事後のトラブルを避けるための形式に過ぎないのである。契約の成立という点では、「これをください。」「はいわかりました。」で契約は成立しているのである。

これと似たような例は、15年以上前に国際線航空券の購入でも経験したことがある。ある大手日系エアラインの国際線チケットを購入し座席指定をした。ところが、当時一歳に満たない長男がいたので、バシネットという赤ちゃん用のベッドが設置できる柱の前の座席が必要であった。しかし、何かの手違いで誤って座席指定をしてしまい、変更したくて大手日系エアラインのオフィスまで行き、変更の交渉をした。当時、座席の変更ができなかったようで、窓口担当者の女性に事情を説明しても、まったく首を縦に振ってくれなかった。

埒が明かないのでその場は引き下がり、彼女の上席者宛に書面を書いた。最初の申し込みには「動機の錯誤」があり無効であるという趣旨のことを記載した。

ここでまた、学生時代の基本書、我妻栄『新訂 民法総則(民法講義Ⅰ)』(岩波書店、1965年)を取り出してみる。これもまた古典的名著で、今の学生は読まないと思う。

そして、意思表示をする動機に誤りのあるものを「動機の錯誤」というとあり、たとえば、鉄道が敷設される予定地と誤信してそうでない土地を高価で買った場合、受胎している良馬と誤信して駄馬を買った場合などが例として挙げられている。

いささか古い事例ではあるが、私の座席指定したチケット購入には、あきらかに動機に錯誤があったわけである。誰が想像しても、1歳未満の赤ちゃんを抱っこして12時間のフライトを楽しめる人はいない。もちろん、チケット購入時に赤ちゃんがいることは伝えている。その時点でバシネットが使える座席を提案するのが道理だと思われる。法律論を持ち出すまでもなくバシネットを利用する意図は明らかなのに、担当者は頑なに変更を拒否したのである。結局、私の書面は上席者のところまで行き、最終的には座席の変更は承諾された。

最後の例は、外資系エアラインのケースである。マイレージで当時、幼稚園児であった次男の国際航空券は購入した。ところが、他の家族の分の国際航空券が同じ便で予約できず、仕方なく別の便で予約。当然、マイレージで予約した次男の分はキャンセルして、他の家族と一緒の便で変更することになる。

そして、外資系エアラインのオフィスに電話しその旨を伝えると、一度マイレージで予約したものは変更できないという。事情を話し、搭乗者は幼稚園児であることを伝えるが、まったく理解を示さない。幼稚園児が一人で国際線に搭乗できるとでも思っているのであろうか。窓口担当者は日本人女性で、日本語で交渉しているので背景を理解できないはずはない。仕方なく彼女に「あなたの上席者と話しをさせてください!」と申し出ると、彼女は「上司は外国人ですが、、、、」と答えた。ドイツ系のエアラインなので、英語を話せるドイツ人だろうと思い「いいですよ、ドイツ人ですよね」と伝えた。ドイツ語など挨拶以外は話せない自分であったが、日本支店に派遣されているドイツ人で英語ができない人はいないと思い、「それでは、電話口に出してください」と申し出た。しばらく、電話は保留にされてから同じ女性が出てきて「承知しました、変更を賜ります」となる。典型的な外資系企業のスタッフで、英語ができるだけで特権階級でもあるかのような振る舞いであったが、顧客の意外な反応に作戦を変えたものと思われる。

ここでいいたいことは、ビジネスの世界は詐欺とビジネスの境目ギリギリのところでやり取りが行われるので、法律や英語も勉強しましょう、ということではない。本来、プロであるなら顧客が法律論など持ち出す前に対応してあげることではないだろうか、ということである。ビジネスは「詐欺の寸止め」であると誰かがいっていたが、的を射ている表現だと思う。本当にギリギリのところの交渉が多いのは確かである。しかし、長期的に考えると、法律論や規則を持ち出す前に顧客の意向に耳を傾け、できるだけその意向に沿った対応をしてあげることが大切であると思う。その結果、顧客はまたあなたのところに戻ってくるし、末永くお付き合いいただけるパートナーになってくれるはずである。理論や知識を鍛えるのもいいが、顧客の期待に応えるためのハートを養うことのほうが大切であることを気づかせてくれる良い経験であった。

その後、前出の賃貸物件の貸主企業担当者には、「御礼」ののしをつけて菓子折りを郵送しておいた。2年後の賃貸借契約更新の交渉を視野に入れつつ。