スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

スリランカの子どもの支援から学ぶ

スリランカの反政府ゲリラによる北東部の政府軍基地への一斉攻撃で、ゲリラ側の戦死者は、330人にのぼるといわれます。遺体収容に当たっている政府軍によると、ゲリラ側の死者の多くは10代のあどけない少女で、判明しただけで70体はあるといい、爆弾を体に巻き付け基地突入を図り、政府軍に銃撃を受けて吹き飛ばされた女性兵士が3人もいました。ゲリラ側の指導者は、戦死は民族解放のための崇高な使命であり、死を恐れることはないと、自殺覚悟の悲壮な精神教育を、少年少女の兵士にも徹底させています」

これは、1990年代後半の新聞報道である。当時、あるNGOを通じてスリランカの子どもを支援していたので、そのことがなければこの報道を見逃していたであろう。

インドからこぼれ落ちた一滴の真珠のような形をした島は、1972年にそれまでのセイロンからスリランカ共和国と国名を改め独立国家となった。スリランカとは「輝ける島」の意味である。13世紀の末、マルコ・ポーロが旅の途中で見たものは、「この大きさのものとしては、疑いもなく全世界で最も素晴らしい島」(日記より)である。またソロモン王の宝石の大部分は、この島から取り寄せたものといわれている。実際、昔から住民は自分の国を「天国の島」と呼んでいる。

私がスリランカの子どもを支援しはじめたのは1995年からであるが、その頃はちょうど和平交渉が決裂し、政府軍がゲリラの本拠地ジャフナへ攻撃を開始した頃である。その後1996年にはスリランカの首都であるコロンボでビルが爆破され、約1,500人が死傷している。この事件以来、日本人観光客は激減し観光立国スリランカの経済にも悪影響を与えていたようだ。

このゲリラは「タミール・イーラム解放のトラ(LTTE)」と呼ばれ、スリランカの多数派で仏教徒のシンハラ人の支配に反発しヒンズー教徒を中心としたタミル人の独立国を目指す組織である。少年少女の兵士も多数動員されていた。彼らは、南米船籍の貨物船を複数持ち、東欧、東南アジアから武器弾薬の調達をしていたといわれる。当時、LTTEはジャフナを追われ北部のジャングルを拠点に政府軍と戦闘を続けていた。

このようなスリランカの情勢はあったものの、1998年8月にスリランカを訪問して子どもに直接会いに行ったことがある。空港近辺は、完全武装の兵士が配置されており、500メートルおきぐらいに政府軍の検問所とドラム缶や砂のうを積んだ塹壕がある。そして、夜間、車で検問所を通るとき政府軍に嫌疑をかけられたくなければ室内灯をつける対応が必要であった。また、ホテルのゲートでは厳しいセキュリティ・チェックがあり、守衛は長い棒の先に鏡を付けた道具を使用し、車の下をすべて調べる。歯医者さんで歯の裏側を調べる鏡を思い出していただければ分かると思う。爆弾の有無を調べトランクも調べる。そのチェックが終わった後やっとホテルの敷地に入ることが許された。

この時点で、やはりこの国の軍事的緊張が普通ではないことを肌で感じ取れた。ゲリラの攻撃に対する警戒は24時間体制で行われており、警察のみではなく武装した兵士をあちこちで見うけることができるこの国は、やはり海外から内戦の国と見られてもしかたがなかった。

スリランカの人に「検問所がずいぶん多いですね」と質問すると、「確かに内戦は激しいけど、スリランカの人々はみんなとても優しいですよ」と答えた。このことはスリランカに滞在している間、私は十分すぎるほど身にしみて感じることになった。内戦の話題はとても微妙で宗教的要素も含んでいるので 、自分からこの話題を持ち出すのは良くないと思われた。また意見を述べるにしても、自分が外国人であることを十分わきまえておくべきだ。

子どもの名前はロシャン。14歳の男の子で支援をはじめた頃からみると随分成長し顔つきも大人になっていた。彼は私の首に自分で作ったガーランドをかけてくれた。そして、彼の妹のアルノデュハとナボデュハは緑色の植物の葉を私に差し出した。意味はよく分からなかったが歓迎の挨拶なのだろうと思い、彼女たちのとても小さな手からその葉を受け取った。ロシャン、アルノデユハ、ナボデュハの3人の瞳は、とてもきれいでキラキラしているのが印象的であった。

レンガ造りの家に入り、私はまず日本からのお土産をあげた。ロシャンにはTシャツ。日本ではサイズが分からず、どのサイズを買うか非常に迷った。デパートの店員に聞いても適切なアドバイスもくれず、私はSサイズを1枚と同じSサイズではあるが若干小さいもの一枚を買い、サイズが合わないかもしれない可能性を回避した。

また妹たちのサイズは全く想像もつかなかったのでミッキーマウスのタオルを買っていった。彼女たちが、はたしてミッキーマウスを知っているかどうかはわからなかったが、それでもあの夢一杯のアニメーションは彼女たちにピッタリだと思った。

そして、彼女たちが一番大喜びしたのが、日本から持っていった縁日セット。ストローの先に風船が付いていて息を吹き込み、その後ストローから口を離すと、けたたましい音を出して風船がしぼむもの。ストローから息を吹き込むとストローの先に付いている丸まった紙が突然前方に伸び出すもの。そして、紙風船である。とくにアルノデュハはこれが気に入ったらしく、3セット持っていった縁日セットを開けてくれと私にせがんだ。意外な日本のおもちゃで子どもたちが喜んでくれたのでとても嬉しかった記憶がある。

私が今回お世話になったNGOは世界で様々な活動をしていた。アンゴラの地雷認知教育、カンボジアの地雷対策と地雷被害者の職業訓練などが行われていた。

アンゴラで地雷除去の活動をしているNGOによると、1メートル四方を金属探知器で地雷の有無を調べるだけで約1時間かかり、1個の地雷を除去するのに13万円以上もかかるのだそうだ。地雷の製造単価は安価なものでたった400円だというのに。

NGOのオフィスのデスクに1枚のポスターが貼ってあった。片腕が欠落した10人くらいの子供が一列に並んでいるもので、私はなぜ子供たちが腕を失ったのかはじめ理解できずNGOの代表に聞いてみた。

「どこの国の子どもたちですか。」

ボスニアです。」

「なぜ子どもたちは片腕を失ったのですか。」

「子どもは地雷の恐ろしさを知らず、地雷で遊んだり、野原で土いじりをしたりしているうちに地雷に触れてしまう。起爆装置の部分は本当に小さいものだが、それに子どもたちは触れてしまい地雷の犠牲になってしまうのです。」

「………………」

1951年9月、サンフランシスコ対日講和会議にセイロン代表として出席したジャヤワルダナ大蔵大臣は仏陀の言葉を引用し、対日賠償請求権を放棄した。

「軍隊の駐留による被害や我が国の重要生産品である生ゴムの大量採取による損害は当然賠償されるべきである。しかし、その権利を行使するつもりはない。なぜなら「ブッタの憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む(Hatred never ceases by hatred, but by love)」との言葉を信じるからである。」

今となっては帝国主義も東西のイデオロギー的な対立もなくなってしまったが、今度は民族的対立が激化して、各地で地域紛争が絶えることなく続いている。そこで犠牲になる多くの子どもや女性、老人たちは、無意味と思える死に遭遇しこの世から去っている。もし彼ら彼女らが生まれ変われるとしたら、もっと平和な国において快適な人生の旅を送れるのだろうか。

今後も各地で多くの戦争が勃発し、どんなに平和と思える国でも治安が悪化するであろう。それは、かつて冷戦時代に軍拡競争に明け暮れ大量に蓄積された人間を殺戮する技術が世界に漏れてしまっているからである。

聖書に「蒔いた種は刈り取らねばならない」という言葉がある。良いことも悪いことも自分で蒔いた種はいつの日か必ず刈り取る日がくる。

インドのある聖者は言う。

愛の種を心に蒔き、それを奉仕という木に育て、至福という甘い果実を実らせなさい。そして、その至福をすべての人と分かち合いなさい。」