職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

20年ぶりのスリランカと無形資産

最初のスリランカ訪問から20年が経過した2018年に、再びスリランカへ行くことになった。目的は子どもを再訪することではなく単なる家族旅行であった。はじめて訪問したときのスリランカの印象はとても素晴らしいもので、いつか再訪したいと思っていた。1回目の訪問でも、なぜか異国のように感じることはなく、自分が昔住んでいたような印象を持った。そして、当時独身であったが、家族ができたらみんなで来ようと密かに決めていたのである。心に決めたその場所は、シーギリヤロックの上である。そこに将来の家族と一緒に戻ろうと思った。

また、これは偶然の一致かもしれないが、あるインドの占星術で、私の前世はスリランカ人の兵士であったが、その後出家して僧侶になったといわれたことがあった。また、日本人で前世を透視できるスピリチュアルな方には、私は1800年頃のイギリスによる植民地化がはじまった時代に、スリランカに渡ったインド人でヒンズー教の僧侶をしていた、ともいわれた。さらに、今回の人生では、過去世で放棄してしまった、結婚して家庭を設けるという人間として当たり前の生き方を取り戻すことが第一の目的とのこと。厳しい自己犠牲の精神のもとに抑圧的な生き方をした過去世とは逆に、人生を大いに楽しむことが今生の目的ともいわれた。

なんとも不思議な一致であった。ヒンズー教インド哲学は理由もなく興味があり、大学でも勉強したいと思っていた。希望は叶わず法学を専攻することになったが、それでも独学で哲学は学んでいた。理解できようができまいが、学んでいても苦痛ではなかったのは不思議である。正直いえば難しくてほとんどわからないにもかかわらず。このような不思議な縁があるスリランカであるが、とにかく20年ぶりに訪問することにした。

そして、出発の5日前に、床屋で髪を切ってもらっているときに、私の過去の経緯を知る店主から、「今回は子どもに会うのですか?」と聞かれた。その場では、「今回はその予定は立てていません。ただの家族旅行です」と答えたものの、家に帰る途中、頭の中のスイッチは入ってしまった。そして、直接現地のNGOに連絡し、自分は20年前にスリランカを訪問し、子どもに会っている。子どもの名前はロシャンで、出会った町はアヌラーダプラ。当時のNGOスタッフが誰で面会をアレンジしてもらった、など説明して面談の調整をしてもらうことにした。

しかし、出発前に段取りはできず、現地を旅行中にやっと調整が完了し、帰国の2日前にコロンボNGOオフィスで面会できることになった。実際に20年ぶりに再会したわけだが、もちろん、子どもではない。34歳の立派なスリランカ軍の兵士であった。子どもは2人おり、20年前にも会ったロシャンの父親にも面会できた。ロシャンの父親は立派な方で、当時家族のために自分で家を作った。もちろん、年を重ねてはいたが、当時の貫禄をそのまま残していた。さらに、20年前に世話をしてくれたNGOのスタッフにも会えた。当時、お互いの英語力を比べると彼のほうが少し流暢だった。そして、彼は南アジア限定版の英文法のテキストをくれた人だった。しかし、今回再会して気がついたことは自分の英語力のほうが彼のそれより凌駕していたことである。私の努力が実ったわけではない。ましてや私の能力が上であるわけでもない。ただ、お金の力に任せて英語に投資できただけのことである。お金の力で受けられる教育に差がでることを実体験で感じることになったわけだが、なんともやり切れない思いが残る。

実はこの再会は、日本側のNGOを通していなかった。時間がないので直接スリランカNGOに連絡して再会を実現させたものである。帰国後、日本のNGOに報告したのだが、NGOの規則では子どもの再訪は許されていないとのことであった。なんともラッキーであり、日本で相談していれば私のロシャンとの再会は実現していなかったことになる。再訪が禁止されている理由は、どうやらトラブルになるからのようである。

しかし、その後、日本側NGOの規則の趣旨は痛いほどわかることが起きた。ロシャンとは再会時に連絡先を交換し、帰国後も連絡をとれるようにした。そして、日本に帰国後に自分のSNSをみるとメッセージが入っていた。単なる他愛もない挨拶文である。それに返信するとすぐに返信がある。また、返信するとすぐに返信。日本での忙しい生活を考えると、そのようなやり取りに時間は割いていられない。毎日のように送られてくるメッセージは自分にとって苦痛となった。数週間経過し、正直にこのようなことを毎日やっていられないこと、必要なときは電子メールで連絡すること、仕事があるのでタイムリーに返事はできないことを伝えた。そしてやっとそのやり取りは落ち着くことになる。コミュニケーションの取り方が違うのか、彼が特殊なのかわからない。ただ、今は落ち着いている。

また、日本に出稼ぎに来たいという希望まで飛び出し、ブローカーにまとまったお金を支払う必要があるという話も出てきた。彼の給料は月5万円ぐらいのようである。私は搾取されるだけなので止めておけ、としか助言できなかった。もちろん、その話は実現していない。とにかく、日本人が想像できないくらい生きるのに精一杯なのかもしれない。毎日、どのようにお金を稼ぐのか。しかもスリランカ政府軍の兵士で国家公務員であるにもかかわらず。

このような経緯で、いつかロシャンとはスリランカで一緒に事業をしたいという夢がある。実現できそうなことに日本人向けの英語研修プログラムを企画し提供することが考えられる。庄野護『スリランカ学の冒険〔新版〕』(南船北馬舎、2013年)によると、スリランカの政治や経済は英語によって動いているという。議会での法案は英語で審議され、議事録も英語で作成された後に、シンハラ語タミル語に翻訳される。役所内の文書は英語で回覧されるので、国会議員も高級官僚も英語ができないと務まらない。コロンボの企業が人材を採用するときも、地方出身の大卒者よりも、コロンボの英語家庭に育った出身者を優先的に採用することもあるくらい英語が有利に働く。オフィスでしゃれた英語のジョークを飛ばせるくらいの英語家庭出身者が企業でも好まれるわけである。

また、スリランカ人の英語は書く能力に優れている。膨大な量のレポートを書く仕事でスリランカ人は活躍する。日本テレビの「ズームイン!朝」でワンポイント英会話を担当していたウィッキーさんもスリランカ人で、セイロン大学を卒業して来日している。ウィッキーさんが学んでいた当時の大学は、とびっきり美しい100%の英国式英語の世界だったそうである。ただ、今は大学内でシンハラ語も聞こえるとのこと。

このような背景を考えれば、べらぼうに高い学費を支払ってアメリカやイギリスに留学する意味は見出せない。とくに語学を学ぶだけであれば、スリランカでも問題ない。もちろん、スリランカ英語では、definetely(たしかに)が多用されるという特徴などはある。「やっておきます、definetely」「お届けします、definetely」など連発される。また、オフィスに招き入れるときなどに、come come もよく使われる。しかし、日本人にとっては、「来て、来て」「入って、入って」という表現と同じと思えば親しみが持てる。夢は膨らむ。スリランカで英語を学ぶ。荒唐無稽な話のように聞こえるかもしれないが、意外にスリランカ英語を好むマニアはいるのではないか。

先日、ロシャンから久しぶりに連絡があった。3人目の子どもが生まれた。また、妹のナボデュハが結婚した。20年前にはじめた小さな支援で私は得たものは、自分の人生における無形資産なのかもしれない。