職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

科学の限界を知り判断する

中世ヨーロッパの大学において学ばれていた学問の基本は、神学、法学、医学である。この三つの学問は現代における心理学や経営学、工学などと比べると圧倒的に長い歴史を積み重ねてきているといえる。しかし、その事実が学問として高度であるとか、社会の発展に寄与しているかというと、必ずしもそうとはいえない。伝統があるだけに保守的であり、新しい考えや切り口を受け入れられないという側面もあることは否めない。

また、多くの人はこれらの学問の専門家といわれる人の発言は、よほどのことがない限り素直に受け入れる傾向がある。なかなか一般人には理解できない用語が使用され、複雑な理論や体系が構築されている学問なので、専門用語を多用されて語られると反論の余地がなくなってしまう。

そのような意味で、これらの分野の専門家は、ますます一般の人にはわからない領域に入り込んでいき、自分にとって心地よい安全地帯を確保することになる。こうなると、他者からの批判や指摘はかなり難しくなる。

しかし、これらの学問も現代からみると多くの誤りを積み重ねてきている歴史があり、学問あるいは科学としての限界もあることがわかる。

振り返って、現在のコロナウイルスに関する議論に関しても、これから多くの誤りや、不完全な議論が積み上げられていたことが明らかになっていくであろう。その点を踏まえて、われわれは専門家の発言や論述を慎重に受け取っていけなければならない。無批判に受け入れるのは危険であるし、せっかくの人生を台無しにしてしまう恐れもある。ただ、誤解や不完全な議論があるからこそ、科学を進歩させようという人々の意欲や社会を発展させようという推進力が生まれてくるわけなので、その意味で誤りや失敗が悪いわけではない。それは人文科学、社会科学、自然科学を問わずあらゆる科学に共通のことである。

そこでまず、神学の一例を顧みることにする。中世には魔女狩りがあった。当時の状況は、森島恒雄『魔女狩り』(岩波新書、1970年)に詳細に描かれているが、深遠な神学的議論をするべき異端審問所では、簡単な問答が行われるだけで当人が魔女かどうかの判断がなされていた。「お前は魔女になってから何年になるか」「魔女になった理由はなにか」「悪魔にどんなことを誓約したか」などの尋問があり判定されている。「存じません」「わかりません」としか答えようがない質問であるが、最後は拷問による自白が待っており、正確な記録は残されていないものの、30万人あるいは300万人という無実の人が魔女裁判によって処刑されたのである。しかも、魔女とされ当人が処刑された後に残った財産は、しっかり財産目録を作成して、財産管理人が接収していたということである。

そのとき神学は無力であったわけであるが、それ以上に神学が魔女裁判を正当化したというところに、学問について何とも救いようのない事実をみせつけられる。ローマ教皇という権威に寄り添う神学者たちの道義的責任のなさ、および学術的な未熟さというのは、当時の状況では仕方がなかったのであろうか。

次に法学の一例で、日本では大日本帝国憲法のもとで身体的自由権の保障は十分ではなかった。治安維持法体制下の拷問や恣意的な身体の拘束などの人権侵害はあとを絶たなかった。この悪名高い法律は、共産党員のみならず、政府の方針に反する人々を拘束し拷問にかけるということを容易にした。著名な事件としては『蟹工船』を著した小林多喜二昭和8年に29歳で特高警察の拷問の末殺された。

このとき法学者が果たした役割はなにか。被疑者を弁護しようとした勇気ある一部の法律家を除き、多くは「沈黙」を選んでいる。しかし、沈黙であれば当時の状況から理解できるが、権力に寄り添いむしろ正当化する議論を展開した著名な法学者たちもいた。権力を権威で補強することで、どれだけ多くの人が拷問を受けて無意味な死を遂げたのであろうか。

そして最後は医学である。今の医学は西洋医学が主流であり、中国医学やアーユルベーダ医学、イスラーム医学など傍流になり、たとえ実効性があってもほぼ無視されるし、論文を発表しても参照されることもない。最近はホリスティック医学なども注目されるようになっているが、まだ市民権を得るには至っておらず、この辺にも限界が感じられる。そして多くの人は、結局、○○大学医学部教授、WHOの顧問、ノーベル賞学者などの肩書にフォローすることになり、自分で考えることをあきらめてしまう。

過去に狂牛病HIVエボラ出血熱、ペスト、ハンセン病などセンセーショナルに伝えられた感染症は枚挙にいとまがない。当初いずれも医学が適切に対処できたかというと必ずしもそうではない。医学の力にも他の学問と同様に限界がある。

しかし、これらの病気は数ある病の中の一つでしかなくなった。100%有効な治療法が確立されているわけでもない。でも、すでに “one of them”になった。新型コロナウイルスも“one of them”になるのにそう時間はかからないと思いたい。もしコロナ禍が情報災害と考えれば、ちょっとしたきっかけさえ得られれば収束は意外に早いのかもしれない。

いずれにしてもコロナ禍は歴史に残る重大事件となる。様々な医学的議論があり、最新の医学検査や難しい数理モデルも登場している。最先端の科学を使って何とか混乱を抑え込もうと努力しているが、神学や法学という伝統的学問と同じように、医学も硬直化しており、現在の異常な事象にうまく対処できていないようにみえる。多くの人が権威や権力にすり寄る姿をみると致し方ないのかもしれない。

しかし、日本では幸運にも新型コロナウイルス感染症対策分科会の主要メンバーに、そのような権威主義の人は少ないようである。現場で実務をこなしいろいろな経験と失敗を積み重ねてきた立派な経歴の方々のようである。たしかに、プレゼンテーション能力に欠けるかもしれないが、そのような技術を要求される人ではない。むしろプレゼン力だけで実質を伴わない自治体の首長が活躍していることのほうが懸念される。

そして日本の現状はある意味、一つの方向に突進してしまうことなく絶妙なバランスを維持しながら、この難局に対処しているともいえるのかもしれない。だからこそ権威主義の人たちからは実力派の専門家に対して手ぬるいと強烈な批判があがるのかもしれない。しかし、時間が経過すればその評価は定まることであろう。私はその時期が2021年の春でがないかと期待している。今はできるだけ現場に近い人の意見に耳を傾け、自分で解釈して自分で判断していくことが重要な時期だと思う。科学や学問というものに過大な力を与えるときではないと思う。