職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

共著の校正ほど難しいものはない

現在、今年の夏頃に出版する共著の校正をしています。すべての執筆者には執筆要領を事前にお渡ししていますが、そのとおり書いてくれる人は少ないものだと理解しました。読んでくれてはいても、書きだすと自分の世界に入っていくものなのでしょう。

校正を専業にされている、大西寿男氏の『校正のこころ〔増補改訂第二版〕』(創元社、2021年)を読んで、自分の原稿を校正するときに有用なポイントをいくつか挙げてみたいと思います。

まず、原稿やゲラを繰り返し読むのは当然として、いろいろなシチュエーションで違った心身の状態で読み直すのが良いといいます。そうなんです。自分という一人の人間が何度読んでも見つけられないミスというのはどうしてもあります。一人で校正していると違う自分が欲しいと思いますが、時間や場所を変えるということで、少し違った自分を手に入れることができます。

また、文字に指先やペン先で触れながら確かめるということです。目だけで確認していると素通りすることなどいくらでも生じます。勝手に思い込みながら流さないためにも、赤ペンなどを使ってなぞることは有用です。

辞書を引く手間を惜しまないことも大切です。漢字の変換ミスなどもあるので、自分の知識や感覚をあてにしないことですね。さらに、データや事実関係は裏付けをとることも重要です。論文を書きなれている人であれば、この点は大丈夫でしょう。

紙に印刷して校正するというのもかなり重要です。モニター上では目が疲れるし、流し読みをしがちなようで、必ず見落しが生じます。

そして、共著に校正の難しさはどこまで本に統一感を持たせるかということだと思います。各著者の個性を潰さない程度の統一感ですが、さじ加減が検討つきません。各人には執筆要領を渡した以外は、自由に書いてくださいと伝えてあります。ただ、執筆要領に記載されている形式的要件すら忘れるもののようです。あえて無視する人はいないと思うので、執筆要領を一瞥するものの、その後は自分の世界に入ってしまうのだと思います。

大西氏によると表記やスタイルがバラバラのまま本を出版すると、たとえ内容や表現に誤りがなくても厳しい目を持った読者や批評家あるいは同業の出版社から、ろくに校正もせずに作った本と見なされてしまうといいます。一部の誤りのために、本全体の価値が損なわれることはないはずなのに。たしかに、私も読書をしながら日本語の誤り等をみつけると著者の実力を疑ってしまうことはあります。一部が全体の評価につながるというのは怖いものです。

結局、人間がやっている限り、間違いは生じます。校正というのは、本を完璧にするための作業ではなく、その間違いを可能な限り減らす業務と考えるしかないのだと思います。無理をしてもストレスがたまるだけです。時間切れということもあるでしょう。やれるだけはやった、という思いがあれば、あとは手放して本を世に出してしまうということなのでしょうね。

日本人にMBA教育が向いていない理由

経営管理修士号、すなわちMBAについて批判的な本はあるもののそれほど多くはありません。そこでめずらしく批判的にMBAを評価している本があったのでご紹介しておきます。ご自身が経営大学院の教員も経験された、遠藤功氏が『結論を言おう、日本人にMBAはいらない』(角川新書、2016年)で、辛辣な次の二点の指摘をみてみましょう。

①    日本企業はMBAの価値を認めていない
②    日本のMBAの質が低すぎる

①は、たしかにそうかもしれません。それは、日本企業の人事制度のおかげで、わが国においてMBA教育の必要性が明確に存在するとはいえない点にあると思います。

たとえば、ビジネススクールで学べる主な科目は、経営戦略、マーケティング、会計、ファイナンス、人的資源管理などがあります。しかし、日本企業であれば、経営戦略は経営企画部、マーケティングは営業部、会計は経理部、ファイナンスは財務部、人的資源管理は人事部などで身につくスキルです。

そして、日本企業の多くは人事異動でこれらの部署を経験する機会を与えてくれます。人によっては一通りすべての部署を経験した、などという人もいるかもしれませ。そのような人にとってはビジネススクールに行く意味が薄れるでしょう。

それでは、なぜ、アメリカではビジネススクールが必要なのか。その理由は私が外資系企業で働いた時に、海外の同僚をみて感じたことに見出せるかもしれません。すなわち、彼らがみなスペシャリストで、自分の専門領域における経験しかできていないという点です。いわゆる、多くの人材が「職人」なわけです。ですから会社の経営全体まで見ることができない。

おもしろいことに、アメリカ系の企業の職場では、各人のデスクがパーテーションで仕切られて、同僚が何をしているのかわからないことが多いようです。日本のようにデスクの島があり、みんなで仲良くという雰囲気がありません。とても象徴的ですが、アメリカでは職人であるために経営管理の知識や技術が不足し、それを補う意味でもMBAの必要性はあるということです。

②に関しては、日本とアメリカの高等教育の違いがあるので、私は当てはまらないと思っています。アメリカは学部教育で教養教育、すなわちリベラルアーツ教育があり、その次の専門職大学院があります。研究大学院もありますが、専門職大学院の伝統があります。

一方、日本では戦前からヨーロッパの高等教育を取り入れ、戦後にアメリカ型の教育制度も取り入れています。よって、ヨーロッパ型の学部教育の上にアメリカ型のプロフェショナル・スクールを乗せたことになります。日本の大学では学部レベルですでに専門教育が始まっておりアメリカとは違います。そして、アメリカ型の専門職大学院と従来型の研究大学院の二本立てになり、明らかに大学院教育に混乱が生じています。

これは文部科学省のミスリードだったと思うのですが、何でもアメリカを見習えばよいというものではありません。経営大学院や法科大学院、教員養成大学院が今一つ成果を出せていない点で結論が出ています。そういう意味ではMBAの質が低すぎるというよりは、アメリカの制度を模倣したために混乱が生じているというのが私の感想です。

リクルートはやはり凄かった: 内発的動機とは

株式会社リクルートの創業期のメンバーに大沢武志さんという方がいます。私も存じ上げなかったのですが、労政時報4061号(2023年)の特集「人的資本の可視化・情報開示への対応」の記事の中にリクルートの事例が出ており、大沢さんの言葉に接することができました。

「人は自律的に行動し、自分らしく生きたい(≒内発的動機)と思う生き物である。内発的動機に基づいて行動する時が最もパフォーマンスが高い」という考えのもと、「個をあるがままに生かす」というもの。

1935年生まれの方で2012年に77歳で亡くなっていますが、昭和の時代に活躍されていながら明らかに当時の一般的な考え方とは異なる発想であることがわかります。

当時は目標数字が決められ、マネジメント層が部下に対して徹底的に点検・追及して、数字をやり切るという時代だったと思います。あのような時代に内発的動機に基づく行動の結果、最も高いパフォーマンスを引き出すなどということをいわれていたわけで、おそらく時代は追いついていなかっただろうと思います。

時代を先取りした大沢さんの言葉は、これから誰もが目指すマネジメントになっていくのではないでしょうか。経営者は従業員を常に監視し働かせて結果を出すなどというのは、かなりナンセンスになってくるでしょう。むしろ100%信頼して任せていかなければならない。

経営者自身は、株主から経営を「委任」されて、自らの裁量で自由に経営することができているのに、従業員には雇用という奴隷制度でモニタリングを通じて労働を強いていたんでは、辻褄が合わないわけです。従業員も自律的に行動し、ある程度の裁量の中で自分らしく働くことが必要です。その時、結果は後からついてくることになります。生き生きと自分らしく楽しそうに働いている人のところには、数字も人もエネルギーも近寄ってきます。結果は必ず伴うものです。

リクルートという会社が凄いと思うのは、自信に満ち溢れているところだと思います。私が読んだ記事によると、会社自体を出入り自由で、リクルートの垣根を越えて協働・協創を生み出す場に進化させていくため、Co-Encounterという意味で『CO-EN』という概念も創ります。公園という意味もあるようですが、人が集まる場の意味があるそうです。

注目すべきは、「出入り自由」という点。自信がなければいえないわけですが、去っていくのも自由なわけです。多くの優秀な人材を輩出している組織として際立つ特徴だと思いました。経営者は従業員が活躍する場を確保するだけで、余計な管理やモニタリングには依存しない。そんな経営がリクルートの真骨頂なのだと理解いたしました。

作文の技術: 日本語というのは論理的だった

本や論文の執筆するようになってから、もっと若い頃に読んでおけばよかったと思った本があります。それが、本多勝一『新装版 日本語の作文技術』(講談社、2005年)です。文庫本も出ているので多くの方が参照されているのだと思います。『学び直しで「リモート博士」』(アメージング出版、2023年)でも必読書として紹介しました。

正直に言うと本多氏が提示している技術の8割以上、私は実践できていないと思うし、覚えきれてもいません。ただ、日本語というのはこんなにも論理的な言語なのかと気づかされ、その後の自分の執筆に大きな影響を与えたのだけは事実です。

日本人の中には、日本語に対する劣等感のようなものがあるのでしょうか。明治時代初代文部大臣になった森有礼は、日本語を廃止して英語を公用語にしようと提言しています。森有礼の孫でパリで日本語を教えていた哲学者の森有正も、日本語は文法的言語ではないといいながら、フランス人に日本語を教えていました。

文豪の志賀直哉が日本語は不完全で不便なので日本語を廃止し、世界で一番美しい言語であるフランス語を国語とすべきと主張しました。しかも、志賀自身はフランス語が読めたわけでも話せたわけでもないようですが、フランス文学に共感を抱いていたのかフランス語を国語とすべきとしていました。

しかし、この本多氏の本を読めば、日本語は論理的で文法的な言語であることを痛感します。話し言葉として曖昧な表現は日常的に使用されますが、書き言葉としてはそうはいかないということです。いくつかわかりやすい例を挙げてみましょう。

たとえば、修飾語において「白い横線の引かれた厚手の紙」だと、「白い横線」の引かれた紙、つまり横線が白いことになってしまいます。では反対にすると「厚手の横線の引かれた白い紙」となり、横線が厚手であるとも読めます。残された並べ方は次のとおりです。

①白い厚手の横線の引かれた紙
②厚手の白い横線の引かれた紙
③横線の引かれた白い厚手の紙
④横線の引かれた厚手の白い紙

この中で誤解を招きやすいのが①②で③④なら誤解は生じません。「横線の引かれた」という節(クローズ)が先で、「白い」「厚手の」の句(フレーズ)が後にくる。よって、「句よりも節を先に」とルール化します。

また、修飾語に節が続く場合はどうでしょう。「長い修飾語を前に、短い修飾語は後」にといいます。

①明日はたぶん大雨になるのではないかと私は思った。
②私は明日はたぶん大雨になるのではないかと思った。

直感的に①のほうがイライラすることなく読めます。「主語と述語を近くすべし」という原則もいわれますが、「修飾する側とされる側の距離を近くせよ」というのが原則だそうです。次の文はどうでしょう。

①明日は雨だとこの地方の自然に長くなじんできた私は直感した。
②この地方の自然に長くなじんできた私は明日は雨だと直感した。

明らかに②のほうがわかりやすいです。日本語において主語・述語の関係を考慮して作文をするのは百害あって一利なしで、ヨーロッパ言語の発想だそうです。

そして、テン(読点)の打ち方もいろいろルールがありました。気分で打ってはいけないということです。

「私をつかまえて来て、拷問にかけたときの連中の一人である、特高警察のミンが、大声でいった。」(『世界』1975年6月号105頁)。

この文章に3つの点がありますが、すべてなくても問題なく、2番目の点(・・・一人である、特高・・・)に至ってはテンを打ってはいけないことになります。実際に修正してみるとわかります。

「私をつかまえて来て拷問にかけたときの連中の一人である特高警察のミンが大声でいった。」

このように何の不都合なく読めます。次の例文はどうでしょう。

「本当の裁判所で裁判を一度も受けたこともないのに十五年もあるいはそれ以上も投獄されているという、年配の男の人や女の人に何人もあうことができた。」(同109頁)。

この文章では、「投獄されているという」の後に仮にマル(句点)がきても「投獄されているという。」となり語尾がかわりません。よって、マルと誤解されないようにテンを打ってはいけないところとなります。もしテンを打つとするなら「十五年も」の前であり、修正後の文は次のとおりです。

「本当の裁判所で裁判を一度も受けたこともないのに、十五年もあるいはそれ以上も投獄されているという年配の男の人や女の人に何人もあうことができた。」

このような感じで本多氏はテンの打ち方の複数のルールを提示してくれます。おそらく、本多氏にかかれば、私の論文など赤字だらけになるだろうということだけは理解できました。

すべての原則を自分のものにできていませんが、自分が日本語と向き合うときの姿勢は大きく変わりました。そして、少なくとも私が接してきた編集者や校正者のうち、2名の方が「私も傍らに置いて参照しています」といっていましたのでそれなりに影響力のある本なのだと思います。もう一度、読み直したいと思う本の一冊です。

校正の落とし穴から学ぶ: 出版ビジネスの厳しさ

昨年出版した『学び直しで「リモート博士」』(アメージング出版、2023年)で、また過ちをみつけました。参照した文献の著者名の漢字と書名が微妙に間違っていました。誰も気がつかない誤りだと思いますが、さすがに著者ご本人は気づくでしょう。そして、ご本人に献本として差し上げたものの、かえって嫌な思いをさせてしまったと後悔いたしました。

今、大西寿男『校正のこころ 増補改訂第二版』(創元社、2021年)を読んでいるのですが、まさしく落とし穴にはまりました。年号や、人名、地名、書名といった固有名詞の勘違いは要注意だそうです。実は、以前オンデマンドで出版した時も、参照した書名を間違えたことがあります。この落とし穴を避ける方法として、以後、版元ドットコムなどからコピペする、あるいは論文名であれば、国立国会図書館の所蔵資料の検索からコピペすることにします。

年賀状などでありがちですが、一度名前を間違って入力すると、毎年間違った名前で送られてくる。私は気にならない方ですが、おそらく受け取った方は気分が良くない。

その他、大西氏の指摘によると、引用文の引き写しミス、専門家にしかわからないような事実関係の誤りなど、およそ人間が書く原稿に完璧などありえないというのが、校正にたずさわってきた者の実感だそうです。

引用文の引き写しミスについては、直接引用をできるだけ避け、間接引用を心がけています。それで余計な確認作業も減るのでいいと思いますし、文章全体で自分の文体が保たれ、読者が読み進める流れもスムーズになるのではないかと思います。

1970年代までは、一冊の本をつくれば何度でも増刷して、利益をあげることができる時代だったそうです。しかし、90年代初頭のバブル経済崩壊後、どんな良心的な出版社でも初版を売り切れるかが死線を分けるラインになったそうです。だから、安価に多くの本を出し続けなければ倒れてしまい、自転車操業に陥っているのが出版ビジネスだとのこと。

意外だったのは、このような状況で、校正者も仕事の品質を落とさざるを得ないことがあるということでした。締切が短い案件では、最初から高い品質は保証できないことを編集者へ伝えるそうです。言葉と向き合う校正者の仕事は詳しく存じ上げませんが、報酬や労働環境の面でも厳しい世界なのではないかと想像いたします。自著を出版するたびに自分にはできない仕事だとつくづく思います。

日本の博士人材に関する意外な気づき

文部科学省が主催している、博士人材データベースというのがあるのですが、博士課程に在学している方、あるいは修了された方がメンバーになっています。

https://jgrad.nistep.go.jp/home.html

そこで、食事会があったので、めずらしく参加してきました。夜の東京銀座での開催で、横浜からの参加はかなり億劫でしたが、いくつか意外な気づきがあり良かったです。

気づきの一点目は、日本語が流暢ではない外国人が多かったことです。ネパール、スリランカチュニジア中央アフリカの出身の方がいました。研究には英語を使い、論文も英語、指導教授も英語で指導ということで、困ることはないのでしょう。たしかに、筑波大学のような学園都市であれば、周囲は英語ができる日本人も多いでしょうから、困ることはないのでしょう。日本も変わりました。

ただ、それ以外の普通の都市で生活する、あるいは仕事をみつけるとなると困難は想定されます。また、明らかに外見が違うことも、まだ日本で少なからず影響があるでしょう。しかし、話していれば聡明で、深い学識があることもわかるし、コミュニケーション能力も高いと感じました。ぜひこのまま日本で仕事をみつけて、日本語も修得してもらえれば、日本という国の大きな力になる思います。

また、特に日本社会で生きていくうえで重要なのは日本語ではないかと思います。日本人は誰かと問えば、日本語を話す人と定義できるぐらい日本語能力は肝要だと思います。外見の違いなどすぐに慣れるし気にならなくなりますが、多くの日本人にとって、日本語を話してくれるというだけで、関係性のハードルは一気に下がるはずです。私がフランス社会に受け入れられようとフランス語を必死で使うと、途端に打ち解けることができることからも推察できます。英語は世界語ではないのです。彼らの活躍に期待したいと思います。

二点目は、日本人の博士人材のコミュニケーション能力が高いことを知りました。博士人材はプライドが高くて扱いにくいなどのイメージがあります。しかしそれは勝手な先入観だということでしょう。むしろ、研究における限界を理解している、上には上がいるということを知っているという点で、みなさん謙虚でした。彼らが民間企業で活躍できるだけの素地は十分あると思います。

問題は、企業側にも学生側にも先入観があるということ。企業側は博士人材は使えないと考えている。使ったこともないのに。一方、学生側は大学や研究所でないと活躍の場がないと思っている。しかしどちらも先入観であり、とにかくやってみなければわからないということです。おそらく、意外に「いいね」という結論になると思います。とにかく実績を作っていくしか道はないのでしょうが、もっと双方の認識を柔軟にし、お互いをつなげる「場」というものが必要ではないかと感じました。

年収1500万円のエリートはただの人だった

年収1,500万円の大企業の部長だった人が、2年の転職活動の末、みつかった仕事が時給1,000円だったというリンクの記事に接しました。読者を惹きつけるために誇張されたストーリーかもしれませんが、このようなことは意外にあるのではないでしょうか。

給与ダウンは無理です! 年収1500万大企業部長、転職期間2年で時給1000円警備員に…地獄すぎる中高年転職市場に絶望(みんかぶマガジン) - Yahoo!ニュース

そもそも、大企業の部長の年収がそこまで高いのは、その人の能力が高いからその年収になるのではありません。むしろあるポストには、この年収ということで、おおむね決まってているわけです。だから日本の学生が大企業に入社したくなるのもわかります。入社した時点で「俺たち勝ち組だな!」などという迂闊な発言が出るのも、このような背景のおかげでしょう。

しかし、このシステムに乗るのは大きなリスクを伴います。そもそも自分の年収が自分の市場価格で決まっているわけではないからです。この点に気づいた優秀な学生は、最初から外資系金融機関や外資系コンサルでキャリアをスタートするといいます。しかし、これも危険です。彼らの年収も、結局は個人の能力の良し悪しで決まっているわけでもなく、外資系企業のブランドの上に乗ったプレミアムのおかげで良い年収が得られているからです。

このように考えると、日本の大企業でも外資系企業でもそうですが、年収を上げることを目的に転職活動などしても、いつかは行き詰まるということがわかります。50代の転職決定年収では400‐599万円が相場で、大企業でしか働いたことがない、45歳以上のエリートはどの企業も採用したがらないそうです。なぜなら、「口は出すが、手を動かさないこと」が理由です。的を射た表現ですが、大企業で45歳を過ぎると手が動かなくなります。手を動かす機会を会社が与えてくれないからです。

結局、いずれは自分で稼げるようにならないといけない。そのための実力もつけないといけないとなります。かつて、竹中平蔵氏は、日本のサラリーマンについて、みんな「結局、個人事業主になるしかないのが日本の現状だ」といいました。竹中氏の考えについては賛否両論あるでしょうが、彼が到達したポジションから見える風景にもとづけば、そのような結論になるのでしょう。

私見は、個人のリスク回避と格差是正の観点からも竹中氏自身の評価は別にして、竹中氏の意見に賛成です。どんな大企業に勤めていても、自分は個人事業主だという意識でサービスを提供する姿勢はその人の能力を高めます。また、格差社会を是正するためにはどの企業に勤めているからではなく、その人個人の能力で評価されたほうが望ましいと考えるからです。

結局、同じ尺度で測った人の能力の差などそれほどないと思います。むしろ、人それぞれの能力の違いに注目していけば年収に大きな差も出ず、格差社会は是正されていくと思います。

日本の大企業や外資系企業のエリート社員や役員も、会社を離れれば、ただの口うるさいジジイやババアであること。やっている仕事と年収がすべて明らかになれば、自分は世の中で非難の対象になるのではないかということ。この辺の意識をもって日々精進していかなければ、前出の年収1,500万円だった元部長になってしまうのでしょう。口うるさくはありませんが、ただのジジイとしてそう思うようになりました。そして、その竹中氏もすべてが見えるようになれば、批判にさらされることになるのでしょうね。すでに批判されていますが、、、