スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

ネガティブな印象のある「公僕」という言葉

「公僕」という言葉の意味は、公務員のことで、広く公衆、公共に奉仕する者のことです。下僕の「僕」という漢字が含まれているので、公務員を見下した意味合いを含んだ言葉のように思う人もいるようですが、そのような意味はありません。しかし、一部の公務員、たとえば、国家公務員の中に、天下りによる収奪に血眼になっている人たちがいることを知りました。その一例が、文部科学省(以下「文科省」)の一部の官僚です。

田中圭太郎『ルポ 大学崩壊』(ちくま新書、2023年)の内容はかなり衝撃的なものです。国立大学が法人化されたことにより、普通は大学の独立性が強化されたのかと思いますが、むしろその逆で、大学は年々予算を減らされていき、その予算を確保するために、文科省とのパイプを強化する目的で出向者を受け入れ、そして官僚による支配を甘受している状況があるようです。

天下りの人数もかなり多く、2017年1月1日時点で、全国83の大学の幹部ポストに、合計241名が出向しています。この数は、文科省の職員全体の一割以上を占めるそうです。そのうち75名が理事に就任したほか、事務局長や学務部長、人事課長や主計課長などの要職についています。それらの人が、その職務に適正があり能力が伴っているのかはわかりません。

大学別にみると、もっとも多く受けれいているのが東京大学千葉大学の10名です。そして、筑波大学九州大学で7名と続きます。これだけ多くの出向者がいるのであれば、大学の自治などというものはないのかもしれません。昔は教授会という組織が合議制のもとで、重要な意思決定をしていました。しかし、今は教授会の権限はかなり限定されているようです。中世の大学は、教会の支配からの解放と、自治の獲得がとても大切なことでした。これから日本の大学は、文科省支配からの離脱と、自治の回復が必要なのかもしれません。

文科省天下りでもっとも典型的なケースは、2007年の山形大学の学長選です。文科省事務次官を務めた人物が退官後に、山形大学学長選挙へ出馬を表明し、学長選考会議によって学長就任しました。この選考プロセスには批判があり、学長選考時期が、当該事務次官の退官時期に合わせてスケジュールが組まれていたり、選考手続きも不透明極まりないものだったそうです。とにかく天下りするめには手段を選ばないということでしょうか。

その他、多くの醜悪な事例を知ると、公僕という言葉に誤ったネガティブな意味を持たせたのは、官僚自身ではないのかと思います。本来は、人々に奉仕するという崇高な意味があるのに。たしかに、官僚組織で長年勤務していると、民間企業への再就職は難しいでしょう。官庁とは勝手が違います。自分で起業するのもハードルは高いと思います。そのようなノウハウは身につきません。

一方で、難しい試験をクリアしてきたプライドがあるため、それなりの処遇やポストを望もことでしょう。しかし、だからといって国家公務員法で規制されている現職公務員による退職者の再就職あっせんはできないはずです。それにもかかわらず、なかば公然と再就職あっせんのようなことが起きているということです。

最近、このような事例が、ある種事件として多く表に出てきていると思います。公務員は、もう一度「公僕」の意味を捉え、その言葉に正しい意味を付与する行動をとっていくことが大切なように思いました。

大学の序列付けにみる東京の貧しさ

受験シーズンですが、自分の子どもが大学受験なので、書籍やネットでいろいろ調べる機会がありました。そこででてくるキーワードに「早慶上智」、「MARCH」、「日東駒専」、「大東亜帝国」、「Fラン」などがあります。いずれも東京に所在する大学がほとんどなわけですが、勝手に順位付けして、喜んだり、さげすんだりしています。記事を読んだり動画を視ていると、あまりにも貧しい価値観に出くわし、子どもたちには、そのような世界観に縛られて欲しくないと思いました。

なぜこんなことを書こうと思ったかというと、リンクの「マスクド先生の受験必勝法」というチャネルの「偽らざる本音・私の好みの大学」の動画を視たとき、素直に同意できたからです。子どもの受験情報を探しているときに、目に留まりましたが、あらゆる助言が渋くてクールです。相当、失敗や苦労を重ねた方なのだと思います。

(2) 【偽らざる本音・私の好みの大学】 - YouTube

特に東京では、偏差値だとか、就職率などに、重い意味付けをすることが多いと思います。大学選びで何を専攻するのか、どのような教授が教えているのか、どのような分野で先端的研究がなされているのか、どのような伝統があるのかということはほとんど話題になりません。はっきり言ってどうでもいいのでしょう。序列付けのような狭い世界の話で一喜一憂しているこの価値観の貧しさというものはどこからくるのでしょうね。しかも今回、私の子どもは、より偏差値の高い大学2校に合格するものの、そこよりはるかに低い2校に不合格となりました。これでは、当たり外れレベルのゲームでしかありません。しょせん、ゲームだと考えることに面倒な受験を乗り切る知恵はあるとは思いますが。

日本であれば、あるいは東京であれば何か重要な価値基準なのかもしれませんが、入学試験も偏差値も存在しない、ヨーロッパのいくつかの国々からすると、どこもただの大学でしかありません。そこにランキングもなければ、入試難易度もなく、あるのは厳しい卒業要件と学問の質です。

世界大学ランキングなどもありますが、あれは高等教育をビジネスにしている英語圏の国の煽りの道具です。見れば、ランキング上位の大学はほとんど英語圏の大学です。彼らに、他国の大学の質を評価できるはずがありません。一方で留学生を集める指標としては便利なことでしょう。

また、日本であと20年もすれば、ほとんどの私立大学は入学試験なしで入れる高等教育機関となります。そのとき、入学時ではなく、卒業時にどれだけたくましい生き方ができる人材を輩出できるかのほうが重要になっているのではないでしょうか。

自分も若い頃、東京は豊かで文化の香りがし、圧倒的に高付加価値な情報が集積された最先端の街だと信じていました。実家の北海道になど戻るわけがないと確信していました。しかし、時が経てば自分の考えも成熟してくるし、東京の浅薄な価値観に染まることもなくなります。

極論かもしれませんが、東京という街で人生を楽しむには、お金が必要です。たとえば、フランスなどは、多くの人がピクニックを楽しみます。公園も大きいし、緑も豊かなので、楽しめるわけです。それで幸せや豊かさを感じることができる。もちろん、パリは少し違うかもしれませんが、それでも東京に比べると、そのような楽しみ方ができる十分な空間はあるし、人々の気質も柔軟です。単一の価値観に染まることはないでしょう。このような違い、あるいは東京の特殊事情が、お金に紐づけられた大学の序列にこだわる風潮を作り上げるのかもしれません。

たしかに、東京でピクニックでもしていれば、お金がなくてレストランに行けないか、住む場所がない人が公園で食事でもしているかと思われるかもしれません。そこはかとなく東京はその他の土地と「豊かさ」の定義が違うのかと考えさせられます。もちろん、いいところもあるのは認めますので否定はしません。しかし、家庭を持って、子育てもしていると、東京の閉塞感から解放されたいと思うようになります。

そして、動画で絶賛されている関西に行くとホッとします。それは、関西で生活しているわけでなく、単なる来訪者だからかもしれませんが、やはりオーラや「氣」が違うように感じます。そのような直感はどうも私だけではないのだと思ったのが前述の動画でした。

近い将来大学は崩壊し再生する

選択と集中」、「競争的研究費」、「ガバナンス改革」、「グローバル教育」、「国際的卓越大学」など、まるでビジネスにおける経営戦略でも語るかのように、大学のあり方についても言葉が躍っています。ところが、このようなビジネスの世界の概念を高等教育に導入してしまうと、現場は疲弊し壊れてしまうようです。

田中圭太郎『ルポ 大学崩壊』(ちくま新書、2023年)を読むと、あまりのひどさに、寒気がしてきます。国立大学が法人化したことにより、学長による独裁的な支配が横行しています。私立大学では、理事長や学長による大学の私物化が生じています。また組織内部ではハラスメント事案が頻発したり、事件を捏造して、教員を懲戒解雇に追い込んだりと、かなり悪質な、あるいは犯罪といってもいいような事態が生じています。さすがに、民間企業では聞かない内容が満載です。

その原因となっているのが、一連の大学改革といっていいでしょう。大学の自治というものは見事なまでに骨抜きにされ、教授会という比較的バランス良く機能していた合議制の組織は権限を奪われました。そして、学長に権力が集中してしまいます。さらに、その学長を裏で支配するのが文科省になります。文科省の言うことを聞かない学長は、あらゆるスキャンダルを捏造され、失脚させられます。本当に日本の高等教育は壊れていくようです。

また、大学とは本来、時間をかけて次の世代に知識や知恵、ノウハウを継承していく必要がある「場」です。民間企業のように四半期決算の数字作りに追われるような場所ではないはずです。しかし、短期的な業績評価を求めると、教職員はそのプレッシャーに耐えかねて、弱い立場の人に威圧的になるのでしょう。余裕がない人こそ、ハラスメントに走るのはありがちなことです。

さらに、大学の研究室は空間的にも閉ざされ、外の人とのネットワークも切断されていることが多いです。民間企業であれば、同じ組織の異なる部門との交流や、取引先とのつながりがあるので、比較的開かれています。そのため万が一、ハラスメントを受けた場合も逃げ道が多いものです。その点、大学の場合はハラスメントを受けた被害者は追い詰められることも多いのではないでしょうか。

今、日本の大学は、まさしく崩壊しているようです。しかし、悲観することはないのかもしれません。この崩壊が極まったときに、組織が浄化されて、新しい開かれた世界に発展していくのではないでしょうか。ちょうど今の時期は、悪いものがあぶり出されて、様々な事件が表面化している段階ということです。少なくても独裁的な教育者が追い詰められているからこそ、権力を濫用し、私利私欲のため、自分の思い通りに物事を進めようとしているのです。ですから浄化のプロセスとしては順調なのかもしれません。

そして、おそらく大学改革の最後のとどめが、今話題の大学ファンドかもしれません。卓越大学に認定した大学を統制しようと文科省が動けば動くほど、不祥事が発生し、大学は疲弊していきます。お金をやるから成果を出せ、言うことを聞け、というような制度なわけです。そして、まともな人材はその場を去っていくことでしょう。

その結果、残された人材は、成果や業績達成を急ぐあまりに、不正に満ちた研究を行い、その組織は衰退していくことになります。そのように考えると、私たちにできることは、できるだけそのような組織から距離を置き、当事者にならないように注意することかもしれません。親も子どもの大学選びにアドバイスをするのであれば、偏差値やブランドだけではなく、大学崩壊の実体も踏まえた内容とすべきだと思いました。社会人が大学や大学院を選ぶ時にも注意が必要でしょう。それぐらい、田中氏の書籍の内容は寒々とするものです。ただ、その先の光をみるよにしたいものです。先にも言ったように、浄化のプロセスだと思うからです。

縄文人が戦争をしなかったのは狩猟生活のおかげ

糖質制限からみた生命の科学について論じられた、夏井睦『炭水化物が人類を滅ぼす』(光文社新書、2013年)を読んでいて、縄文人が争いをしない人類であったということについて仮説が浮かびました。本書の本題は、雑食である人類は、穀物を食べるようにはできていなので、穀物を摂ることによって、糖尿病を含む様々な病気を引き起こしているという点にあります。しかし、後半において農耕の起源を探求する章に出会い、いくつか興味深いヒントをいただきました。

まず、縄文時代の人々は、狩猟生活だったので定住はしていませんでした。よって、他者と争いが起きそうになると、その場から避難することができたということです。非常に機動性が高い人たちだったことが幸いし、殺し合いの戦争に至るまで他者と対峙することがなかったわけです。

ところが、狩猟生活から農耕生活になると、ある土地に定住する必要が出てきます。また、農耕に適した土地は限られているので、多くの人が同じ地域に一緒に暮らさざるを得なくなります。そこでは都市が形成され、文化も醸成されることになります。しかしその反面、騒音の問題や排水・排泄の問題、土地の境界線の問題など、現代社会にも存在する様々な課題が出てきます。

その結果、決まり事、すなわち法律が必要になります。そして特に、土地に代表されるように、モノの所有権の概念が構成されていきます。日本の民法にも物権法といい、不動産や動産などの概念を規定して、権利義務関係を整理し、紛争が生じた場合の処理方法なども決められています。農耕生活のせいで、争いごとを処理する様々なルールが必要になったわけです。

しかし、このような法律が縄文時代に必要だったでしょうか。農耕生活をしていなかった縄文人には、所有という概念がなく、土地・建物に代表されるような不動産の定義なども必要なかったのでしょう。もし他者が、自分たちの領域に侵入してきた場合は、自分たちが移動して、別の狩場を探せばよいだけです。

しかし、農耕生活をしていれば、そのようにはいきません。自分が耕し、タネを植え、穀物を育てて収穫をする。ある程度の期間を要するプロジェクトが毎年走るわけなので、途中で引っ越しできないわけです。よって、一つの土地に執着して留まる必要があります。

このようなことを考えると、私たちは一見、農耕生活の方が、狩猟生活より高度な生活形態だと思いがちですが、かなり疑わしくなります。「日本人は農耕民族だ」という台詞もよく聞くことが多いわけですが、本当に農耕生活のほうが賢い生活術なのでしょうか。場合によっては、農耕民族は平和な人々で、狩猟民族が野蛮な人々という思い込みもないでしょうか。

現代の生活でいえば、「いつかはマイホーム」といわれるように、住宅ローンを借りてまで、家やマンションを買う人が多いわけですが、想定される数々のトラブルを考えるだけでも、もしかしたらかなり不合理な生き方なのかもしれません。

どれが正しいかはわかりませんが、歴史的に人々が定住することで、戦争が起きたわけですし、複雑で高度な法律やルールも考案しなければなりませんでした。一方、すべては天が与えてくれた恵と考え、魚を採ったり、小動物を捕獲したり、ドングリやクルミなどを食べて、その日その日を感謝して生きる生活が劣っているとは思えなくなります。かつてのアイヌ民族もそのような生活をしていたといわれますが、明治政府の同化政策によってすべて壊されました。

現代人の私たちが、縄文時代の生活に戻ることは難しいですが、縄文人の考え方を参考に現代社会を生きていくことは可能だと思います。それは、かなり軽くて快適な生活スタイルなのではないでしょうか。それこそ、宇宙とつながる合理的な生活というものなのかもしれません。

10兆円ファンドの認定大学から「学問の自由」が消える

10兆円規模の大学ファンドを創設し、運用益を大学支援に充てるという、国際卓越研究大学制度といものがあります。文部科学省が発表した基本方針によると、2024年度から認定大学に対して利益が分配されることになります。この制度に対しては、すでに1,700名もの大学の教職員が反対の署名を提出しています。理由は、学問の自由や大学の自治が脅かされるからということのようです。この点、私も同感です。

まず、ある一部大学の支援を厚くすることで、日本の学術が振興されるとか、科学技術立国を実現できるという考え自体が疑わしいです。たとえば、ある企業の一部署に優秀な人材を集めて、予算を多く配賦しても、その企業の業績は上がりません。組織全体の実力を底上げしなければ、業績向上の実現はおぼつかないでしょう。

地方の大学では、研究施設や設備の更新もままならず、研究体制が明らかに首都圏の大学より劣っているところがあります。そのような大学も徹底的に支援し、研究予算も配分していかなければ、日本の大学間の格差は広がり、全体的な実力は地盤沈下してしまうと思います。

文部科学省は、そのような実態を知らないのでしょうか。また、日本全体の研究力の底上げに「選択と集中」が有効だと信じているのでしょうか。おそらく彼らは地方の大学の実態も知っているし、選択と集中に実効性があるとはいえないことも知っていると思います。それでは、なぜ大学の10兆円ファンドなどという話が出てきたのでしょう。おそらく、国家による大学の管理強化と御用学者の養成、そしておまけとして官僚の天下り先の確保というような狙いがあるのではないでしょうか。

卓越大学に認定されると、産学連携や寄付などで年3%の事業成長の達成や、大学の最高意思決定機関として過半数の学外出身者からなる合議体の新設が求められます。そして、認定大学の選考は、首相が議長を務める内閣府総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)の意見を踏まえて行われます。これだけの条件を課せば、時の政権による認定大学への介入は容易になることでしょう。

中央公論二月号の特集で、大学10兆円ファンドについて各大学の学長の見解が出ていました。電気通信大学の学長は、「大学の多様性や自由を奪う危うい制約である。この前提条件が見直されない限り申請しない」といいます。金沢大学の学長も、「いわゆる『稼げる』研究分野が重宝されることは明白である。基礎研究分野や、人文科学分野に代表されるような、中長期的な視点を持つことが重要な研究分野が存在することも忘れてはならない」と指摘します。

その通りだと思います。日本の学術研究の裾野が広がらない限り、全体の実力向上にはつながりません。また、短期的な業績だけ追い求めると、次世代への基礎研究の継承が成り立ちません。さらに、大学単位で利益を配布されると、その大学に勤務しているというだけで受益者となり得る研究者が出てきて、インセンティブにならないということもあるでしょう。研究者個人あるいは研究室に配分されるわけではないのであれば、タダ乗りする研究者が出てきてもおかしくありません。

以上のように、10兆円ファンドに申請する大学は、学問の自由や、大学の自治への国家による介入のおそれがあることを踏まえる必要があるかもしれません。パンデミックの3年間でも、まるで政府の広報担当のような役割を果たした御用学者が何人かいまたが、そのような非科学的な発言を臆面もなくできる研究者を増やす施策になるのではないかという懸念があります。

別の観点では、本当にやりたい研究を自由にやらせてもらいたいと思う研究者は、認定大学をあえて避け、非認定大学において自力で外部研究資金を獲得していく、あるいは少額な資金でも十分研究が成り立つ分野を選ぶ工夫も必要なのかもしれません。いずれにしても手放しで賛同できるファンドではないことは確かなようです。

文系・理系の発想をやめ仕事を「おもしろい」に変える

日本では高校生のときに、文系と理系という分け方で進路を決めます。大学の受験科目がそのような分類になっているので仕方がないのかもしれません。しかし、人生のその後の可能性を考えた場合、そんなに簡単に決めてもいいものでしょうか。大学に入学してから、どうもカリキュラムは自分に合わない、職業を選択してから、やりたいこととは違いそうだということはよくあることだと思います。

江勝弘『理系・文系「ハイブリッド」型人生のすすめ』(言視舎、2019年)によると、高校における文理選択の弊害を次のように指摘します。

① 将来の職業選択の幅を狭める

② 教養不足の社会人を生み出す懸念がある

③ 特定科目に苦手意識を持ったままになる

④ 選択しなかった特定科目の学習機会を奪われる

大学は専門知識を身につける場所と考えた場合、たしかに、文系・理系に分けてカリキュラムを構成するほうが効率的なことは理解できます。しかし、そのような効率性を追及することと引き換えに、前述の弊害を受け入れる価値があるのかは疑問です。

特に日本の大学4年間で得られる専門知などある程度限りがあります。それは、日本の大学の教育制度が悪いのではありません。社会のシステムがそうなっている。すなわち、大学3年生の後半からは、「就活」がはじまり、専門分野を深く学ぶ時間が確保できないからです。

ある程度、専門的な知識を企業側から期待されている理系は、大学4年の後に、大学院の修士課程で学ぶことが多いことを考えると、そもそも4年では専門性は修得できないことの証左ではないでしょうか。その結果、文系の学生に対して専門知識など企業側も期待しなくなるわけです。

そのわりには、これからはジョブ型雇用だといい、専門性が期待されます。世の中がいっていることとやっていることに整合性がないので、学生も戸惑います。そのような混沌とした状況に身を置きながら、バタバタと就職予備校化した大学で時間を過ごす学生は気の毒な気がいたします。

一般教養科目は、「般教/パンキョー」などといわれ、専門科目より軽く見られがちですが、人生に幅を持たせる、あるいは、前述の江氏の指摘の逆で、職業選択の幅を広げることにとても意味があると思います。

そして、私が最も大切だと思う点は、職業選択の幅を広げる以上に、今、目の前の仕事の幅を広げることに絶大な力を発揮するのが、文理融合の発想ではないかということです。どんなに専門性を深めても、どこかで行き詰ることがあります。さらに深く深く、誰も追随できないような専門性で徹底的に特化していく。ところがある時に、どうしても専門性だけでは突破できない壁があることに気がつくわけです。

私の場合は文系ですが、現在の仕事でも行き詰まり感があるとすれば、数学の知識やプログラミングの知識、情報ネットワークの知識が不足しているからです。それらの武器があれば、もっと仕事の幅は広がり、「おもしろい」のにと思います。そうです。文系・理系の区分けをしないでいると、自分の中でイノベーションが起きて、目の前の仕事で「おもしろい」ことができるのです。

その点、文系・理系と勝手に分けてしまい、自分をどちらかに押し込めることはナンセンスです。現実の仕事は複雑で、文系・理系でわけることができるほど単純ではないと思います。よって、自分は文系だと思う人は理系のことを、自分は理系だと思う人は文系のことを学んだほうが、単調でつまらない仕事を、「おもしろい」仕事に変えることができると思います。一度、自分の目の前の仕事をじっくり観察し、別の分野の知見を使ってできることはないか考えてみるのもいいと思います。

文系と理系で人生を選択しない

大学受験のシーズンですが、日本では高校生の段階から文系と理系に分けて大学受験に挑みます。私の場合も高校3年生のときに、それまでの国立理系から私立文系という脈略がない選択をしました。それだけ深い考えなどなかったのでしょう。最初に理系を選んだのは、当時の数学の先生が、「文系は就職がなく理系は就職がいい」という発言を聞いたためでした。1985年当時の話ですが、ただそれだけです。真剣に考えてなどいませんでした。

しかし、文系か理系かの選択は意外に重要で、その後の人生に大きな影響を与えます。私の場合ですと、当時は代数幾何、基礎解析などといっていましたが、そこまで学ぶものの、その後、微分積分や確率統計というものを学んでいません。学習指導要領の変更で、今でいえば数学Ⅲというのでしょうか。義務教育ではないので、仕方がありませんが、教育を受ける機会を奪われたともいえます。その後、社会人になっても学ぶ機会はやってきませんでした。だからといって仕事で大きく損をしたとか、やりたい仕事に就けなかったということはなかったと思います。ただ、50歳を過ぎた今、学び直そうという気になっています。

それは、自分の専門の保険分野でサイバー保険というのがあるのですが、そこで、情報セキュリティの理解が欠かせなく、プログラミングやネットワーク、そして数学の知識もある程度必要になっているからです。過去にサイバー保険に関する論文も5本ほど出しましたが、自分で納得できるもの、あるいは社会に還元できる良質なものは書けていません。結局、現実の社会では文系と理系という分類で対処できる物事ばかりではないということでしょう。

そのような現実世界への適応や対処を考えると、高校生の段階で文系と理系のどちらかを選択させるのは、どうなのだろうと疑問が生じます。かといって、アメリカのように大学2年生まで教養を学び、大学3年で専門を選択するといっても、日本の場合は大学3年の夏頃から就職活動もはじまるので、専門性も身につかないことになります。そう考えると、日本の教育システムも企業の人材採用システムも、どこか破綻しているように思えます。せめて、企業に就職してからも、学び直せる社会システムが必要なのでしょう。

隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社新書、2018年)によると、日本は明治以降、より効率的に近代化を推し進める前提で、高度な官僚制度を構築し運営するために法学を修得した人材を輩出し、高度な軍事技術を取り入れるために工学を修得した人材を輩出する必要があったから、きれいに文系と理系に分かれたのではないかとと推論しています。それまでは文系と理系の区分けはなかったものの、ヨーロッパから人文科学、社会科学、自然科学という分類が日本に導入されるきっかけになったのは、明治以降の近代化だったわけです。

それは国家として効率的だったかもしれません。しかし、個人の興味や人生の選択から考えたときに、効率だけでは割り切れないものがあるはずです。フランスのルネ・デカルトは哲学者であり数学者でした。ドイツの偉大な哲学者であるイマヌエル・カントニュートンの活躍に影響を受けて自然学を研究しています。もっと古くは、古代ギリシャヒッポクラテスも医者であり哲学者といっていいでしょう。

結局、学問の分類というのは、大した意味がないのかもしれません。その人の興味の赴くままに学ばせておけば、偉大な業績が出てくる。そのように考えると、高校生の段階で文系か理系かの選択をさせていることは、多くの可能性を摘みとっていることともいえます。

しかし、この弊害を解消するのは容易なことではありません。日本の教育および大学受験システムや企業の人材採用システムなど変更する必要があるものがいっぱいあるからです。そう簡単には変わらないだろうという前提で、子どもから大人まで、自分の人生を選択していく必要があるのでしょう。その時、文系と理系という区分を使わないほうが、多くの可能性を潰さないで済むと思います。