職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

DXのおかげで働かなくてもいい時代の到来

デジタル・トランスフォーメーション(以下「DX」)に対応するためにリスキリングが必要という話を前回しました。DXは私たちにとって脅威なのか、それとも福音なのでしょうか。「AIに仕事が奪われる」とか、「10年後になくなる仕事」などの見出しで多くの言説がみられますが、私は多くの人にとってDXは喜ばしい知らせという意味で福音だと思っています。一般的に恐怖や不安を振りまくことでビジネスが創造できるので、そのことを踏まえていれば、世間でいわれていることについて過度に恐れる必要はないと思います。もちろん、私たち労働者の仕事の中身ややり方は大きく転換するのは間違いありませんが、どんなにDXが進んでも人間のためのDXである限り、私たちの活躍の場はあります。

リクルートワークス研究所「リスキリング ー デジタル時代の人材戦略-」(2020年)のレポートがリスキリングをもとに良い素材を提供しているので、DXが労働者にとって脅威にならないであろうという視点で再検討してみます。本レポートは、リスキリングが絶対に必要という前提で書かれており、どこか読み手を煽るところがありますので、注意深く批判的に読んでいく必要があると思います。リンクからどなたでも入手できますので、参考にしてください。

リスキリング~デジタル時代の人材戦略 (works-i.com)

本レポートでは、DXのような大戦略転換期に必要とされるリスキリングは、「非連続系」の人材開発であることを強調します。いまだに「ない」事業・業務・職務のために必要なスキルを獲得してもらうのが目的ということです。

この非連続系という言葉の意味ですが、おそらく過去からの延長線上にないという意味で使っていると思います。表現としてはもっともなのですが、多くの企業は新しいことをはじめるときに、現在の事業領域の隣の分野や関連する分野でシナジーがある事業をはじめることが多いので、突然今までにない事業や業務が出現することはないでしょう。あり得るとするなら企業買収で新規事業というのはあるでしょうが、買収される側に人材はいるので、非連続系の業務が急に自分の目の前に発生することはないと思います。レポートの内容は、いまだ存在していない脅威が必ず到来するような表現になっており、脅しのように思えてきます。

また、OJTを超えて、将来組織が必要とする能力を洗い出し、現在組織にない能力とのギャップを短期間で一気に埋めるプログラムと、それを可能にする相応額の投資をする覚悟が必要といいます。獲得すべきスキルをすでに保有している経験者や上位者が社内にいないので、社外のリソースも使いながらリスキリング戦略を立てる必要があるということです。

しかし、短期間で身につけた技能で、顧客に喜んでもらう、あるいは市場に価値提供できるほど事業というのは単純なのでしょうか。たとえば、私が今から料理人になりたいといっても、1年や2年の修行でお客様に喜んでもらえる料理は提供できません。価値ある仕事を提供できるようになるためには、やはり長い期間をかけて同じ仕事を繰り返して熟練していかなければならないという現実を、リスキリングの提言者は忘れているようにも思えます。

そして結局、DXを推進するために、ロボットのためのプログラムの作り方、データベースの触り方、初歩的なコードの書き方など、このようなスキルを習得できる講座やプログラムは、すでに世の中にあふれているので、素直に外部にあるものは活用すべきといいます。そして、さらにそのスキルを使って価値創出するには、現場でのOJTと試行錯誤は欠かせないといいます。

どうでしょうか。リスキリングといっても外部の講座やプログラムの受講と現場のOJTの組合せでDX時代を乗り切るということのようです。それは今までも日本企業はやってきたことではないでしょうか。それを「リスキリング」という言葉を使うので、なにか新規性のある取組みのように感じますが、それほど大げさなことではないということだと思います。

むしろ、私がDXで注目したいのは、DXのおかげで多くの労働者が自由な時間をより多く獲得できるのではないかという点です。日々の業務が効率化され、丸一にかかっていた仕事がAIのおかけで1時間で終了するというのであれば、その残された時間はほかのことに使えます。それこそリカレント教育にこそ使われるべきであり、リスキリングで大騒ぎするよりも豊かな人生を送れると思います。

もっと極端な言い方をするなら、DXのおかげで人は働かなくてもいい時代がくるということです。お金を稼ぐとか、儲けるための知識を習得するとか、競争に勝ち抜くための手法を学ぶとか、そういうことの重要性が低下しだすのではないかということです。

それでは、DXのおかげで創出された時間は何に使うのかというと、自分の人生を豊かにする学びや経験のためではないでしょうか。実務に直結しなくても人生を豊かにする教養などもあるでしょう。あるいは精神性を陶冶するということもあるかもしれません。金儲けとまったく関係ない学びや経験をするために時間を使えるというのは、今までの価値観とは異なる新しい豊かさにつながると思います。よって、DXを脅威と捉えるよりは、労働から解放されるための道具であるという前提で考え、人生を再構築していく方が快適なはずです。どちらを選ぶかは人それぞれですが、私は稼ぐことに四苦八苦しなくてもいい時代を予感しておきたいと思いますし、それを実感しています。

「リスキリング」で得をするのは誰か

リスキリング(reskilling)という言葉が注目されるようになりました。和訳するなら技能再教育という意味ですが、リカレント(recurrent)教育と何が違うのでしょう。リカレントは回帰教育などと訳され、社会人の継続的な学び直しの文脈で使われることが多いと思います。

一方、リスキリングは、経済産業省リクルートワークス研究所「リスキリングとは - DX時代の人材戦略と世界の潮流 -」(2021年)によると「新しい職業に就くために、あるいは、今の職業で必要とされるスキルの大幅な変化に適応するために、必要なスキルを獲得する/させること」と定義されています。そして、リカレント教育とは違うと断言しています。少々上から目線的な定義ですが、リカレント教育は労働者が自発的に学び直すのに対して、リスキリングは企業が労働者のスキル構築のために教育プログラムを提供することになり、労働者からすると「やらされ感」のある受け身的な印象がないでしょうか。

私はリスキリングに対して距離を置き、労働者として使えるところは大いに活用するとしても、やはり自発的なリカレント教育を重視していくべきではないかと思っています。まず、リカレント教育は自分で自身のキャリアを考えて、何を学ぶべきかを自発的に見出していきます。しかし、リスキリングが、会社が必要と思う技能を労働者に身につけさせるわけで、会社主導になります。もしリスキリングのゴールが誤っていた、あるいは当人に合致しなかったとしても、おそらく会社は責任を取らない、あるいは責任を取れないでしょう。

一方、リカレントは、自己責任で学ぶべきテーマを決めて、それに投資していくことになります。結果に対しても自分で責任を取らなければなりません。どちらが、効果的な学習で、より成果を出せるかは、おそらく想像がつくのではないでしょうか。よって、リカレント重視という結論になりました。

また、リクルートワークス研究所「リスキリング ー デジタル時代の人材戦略 -」(2020年)には、もっと詳しい説明と事例があります。たとえば、リスキリングなくしてDX(デジタルトランスフォーメーション)の成功はないとか、リスキリングは生き残りのための重要戦略などと説明されます。

そして、世界経済フォーラムの発行したレポート "Towards a Reskilling Revolution" (2018)を紹介し、組織的にリスキリングに取り組めば、失職するおそれのある人々の95%が新しいキャリアに就け、何もしなければ2%の人しか新しいキャリアに就けないなどとも解説されます。まるで脅しのようにリスキリングを押し付けてきます。さらに、2020年1月の世界経済フォーラムの年次総会では、「2030年までに世界で10億人をリスキルする」ことを目標に、政府、ビジネス界、教育界の垣根を越えて様々な国の政策実験や企業の取組みを連携させるといいます。

さて、ここで利を得るのは誰でしょうか? これらのレポートを作成したエリートたちではないでしょうか。コンサルティング業界にも価値があるのか不確かながら、多くのビジネスが創出されると思います。教育界でも新しい教育機関の設立など、良いビジネスチャンスは増えることでしょう。よって、本当に利を得るのは、労働者なのか、会社なのか、と考えたときに、実はその裏にいるエリート層ではないかということが読み取れるわけです。深く読みすぎでしょうか?

リスキリングは、デジタル時代に適応するために必要な能力を身につけさせることが目的であることは理解できます。たしかに、DXは重要なテーマなので、あらゆる労働者にとって適応しなければならない課題であることもわかります。しかし、それは自分で必要な技能は何かを見出して、どのように対処すべきなのか、自身で考えていかなければならないのではないでしょうか。

その点、リスキリングに対して私自身は警戒感をもっています。たとえ会社が提供する教育プログラムをすべて受けるとしても、その会社の外で通用するスキルが身につくかは保証されません。前出のリクルートワークス研究所のレポートには、アメリカのAmazon社の事例が紹介されています。従業員一人当たり、約75万円投資し、データマッピングスペシャリスト、データサイエンティストやビジネスアナリストなど高度なスキルを持つ人材を養成するということのようです。それは会社として立派なことだと思いますが、労働者の自立あるいは自律につながるでしょうか。結局、会社に従属的な労働者をつくることになってしまうようにも思えます。そして、世界のエリート層の思惑のまま、労働者層はリスキルされてしまうということなのかもしれません。

人工知能時代の大学教育の役割

学びながら働き、自己実現と社会貢献をと提言するのは、社会人教授の宮武久佳氏です。著書『「社会人教授」の大学論』(青土社、2020年)の終章に掲げられた六つの提言の一つに、大学は「在学期間10年を標準に」というのがあります。大学は高校を卒業した子どもが4年間学ぶところではなく、いろいろなバックグラウンドの人が10年かけて学べるところとします。

私は宮武氏の提言に賛成です。一般的な大学が4年間で124単位とれば卒業できるとしているところを、10年間で124単位としてもよいと思います。そもそも年間授業料という制度をやめて、単位ごとに授業料を支払う制度にしておけば、在学期間が10年である必要すらありません。20年かけて124単位をとって学士号を取得するというのはあってもよいと思います。

経済的な理由で高校卒業後に大学に行けなかった人などは、働きながら単位を取得していくことができます。働いて経済的な余裕ができた年は、多めに単位をとる。あるいは、子育てで忙しい時期であれば、単位数を減らしておくというのも想定されると思います。

また、会社側も自社の従業員のスキルが上がれば、自社の業務の生産性が上がるわけなので、働く環境を整えて、学びの機会を提供していくとよいと思います。大学側も一部でオンライン授業も導入しながら、社会人学生が学びやすい環境を整える必要があるでしょう。そうすることで、地方の大学も首都圏や大阪を中心とする関西圏の社会人も取り込むことができると思います。

たとえば、私自身も次が情報セキュリティを学ぶ必要があると考えました。そのとき、全国の大学を調べると、岡山大学長崎県立大学などで研究が盛んであることを知りました。横浜在住の私が普通に通うのは難しいでしょうが、オンライン授業であれば可能です。情報学というのが、オンライン授業に馴染むのかは検証が必要でしょうが、検討の価値はあります。また、学士と修士と博士では、それぞれ、どれがリモート授業にふさわいかの検証も必要だと思います。しかしいずれの場合も、自分の実体験で「できない」と結論付ける必要はありません。とりあえずやってみるということでもいいと思います。

1992年に18歳人口は205万人いましたが、文部科学省の分析によると、2030年には約100万人にまで減少します。そして、2030年の大学進学率を60%と仮定するのであれば、60万人なので、ちょうど現在の国公私立大学の募集人員の60万人と整合します。理論上は希望者全員が大学に行けるといのは良いことですが、貧富の格差がさらに進めば、経済的な理由で大学進学を断念する人は増加すると思われます。

これからの大学は、18歳人口をみて経営を考えていては手詰まり感でいっぱいだと思います。あらゆる年齢層をターゲットに、システムを作り変えていく必要があるでしょう。ある大学で学士号を取得した学生が良い大学であったと思えたなら、修士号で戻ってくる。あるいは、博士号で戻ってくるという発想が必要だと思います。リピーターをどれだけ作れるかという、ビジネスにおけるマーケティングと同じ理論です。18歳人口という基準を捨てて、「実人数」ではなく「延べ人数」で考えるということです。英会話学校等の経営者であれば、そのような視点を持っていると思います。

人生の18歳から22歳の間の1回切りしか高等教育を受ける機会がないというのは無理があります。これからますます人工知能やロボットが仕事の現場に導入されて、一時的には多くの人が職を失うでしょう。しかし、そのような人工知能やロボットとうまく付き合いながら、自らは創造的な仕事をしていくために、さらに技術を磨くことで、その悲劇は回避できます。

稲葉振一郎『AI時代の労働の哲学』(講談社、2019年)によると、人工知能が産業の現場に導入されると、長期的には生産性が上昇して、一人当たりの所得は増えるといいます。しかし、人工知能は誰かが所有する財産なので、それが生み出す富は、その所有者に多く還元されてしまうということです。放っておけば資産を持たない労働者は、人工知能による生産力の上昇による恩恵を受けられないことになるので、創造的な仕事にコミットできるようにならなければならないといいます。これは、社会に出てからも、自分の技術を磨き続ける必要があることを意味します。場合によっては、自分の専門分野を成長分野にシフトしていく必要があります。そのように考えると、大学が再教育の場を提供するというシナリオは十分あり得ると思います。

縄文時代の食生活は「糖質制限」

縄文人の食生活を考えてみると、糖質というものを摂る機会はほとんどなかったといえます。当時を考えると、現代のように「主食」として穀物を多く摂る食生活のほうがむしろめずらしいといえます。

この日本食における「主食」という言葉が厄介ですが、フランス料理などにはありません。フランス料理では、プラ・プリンシパル(plat principal)というのはあります。これはいわゆる英語でいうところの、メイン・ディッシュ(main dish)です。そして、通常は肉料理か魚料理です。もちろん、パンはありますが、それは「主食」ではなく、プラ・プリンシパルに添えられるものという程度の位置づけです。この点、日本食におけるお米のポジションとは大きく異なります。

京都市にある高雄病院は、糖質制限食を実践して、すばらしい成果を出している有名な病院になります。理事長の江部康二氏の著作『主食を抜けば糖尿病は良くなる!〔新版〕』(東洋経済新報社、2014年)に詳しい実績は述べられていますが、とにかく糖質制限食を実践した糖尿病患者は、みな劇的に改善しているという事実があります。

糖質制限食がどうして効果があるのか、江部医師が縄文時代の食生活を例示してユニークな説明をしてくれます。

人類が誕生してから約700万年といわれていますが、農耕により穀物の栽培がはじまったのは1万年ほど前であり、それが定着したのが4千年から5千年前です。つまり、二足歩行を開始した人類が、穀物を常食していのは人類の歴史の1000分の1程度の期間ということになります。縄文時代の人は狩猟と採取を基本に生きており、このような状況では、糖質の多いものを食べて血糖値を上昇させることはほとんどなかったと想定されます。

人の体は糖質を摂ると、すい臓からインスリンを分泌して、それをすばやく体脂肪として蓄えようとします。これは、糖質を摂るということがエネルギーの貯蔵のための、めったにない好機だったからです。言い換えれば、人体にとって糖質代謝の回路はそのようなチャンスにのみ発動する特別な回路であり、本来的には働くようなものではなかったということです。ところが穀物を常食するようになると、糖質代謝の回路が頻繁に働かなければならず、すい臓の機能も常に稼働するようになったといことでしょう。

江部医師は、このような背景をもとに、現代社会で糖尿病が急増していったのは、人体が本来備えている能力以上に糖質代謝の機能を酷使したためではないかと指摘します。そして、糖質や脂質などを摂ると、人はそれをブドウ糖と体脂肪という形で蓄えます。ブドウ糖は糖質の一種で、体脂肪は脂質ですが、主にエネルギー源として活用されるのは脂質だということがわかっています。ブドウ糖はサブにすぎないそうです。補完的な機能です。

それなのに、現代人はサブの機能ばかり使って、メインのエネルギーを使っていないことになります。糖質を制限するという治療法は、本来サブ機能だったブドウ糖代謝を休息させて、メインである脂質代謝の回路を活用しようとするもので、理にかなっているといいます。そのことを考慮すれば、糖質制限という食事療法は、人体にとって縄文時代のような自然な食生活へと回帰するだけだともいえます。特別なことではないということです。現代医学の常識からすると、糖尿病にはカロリー制限や低脂質が対処法でしょうが、実は誤っている可能性も十分あるということが、江部医師の研究や臨床から示唆されることになります。ブドウ糖は脳の唯一のエネルギー源だという説も怪しくなってきます。

「自由」を獲得するための大学生活

そろそろ大学受験シーズンが到来します。今まで一生懸命に勉強してきた成果を出す場面です。それが終われば、人生で最も自由度が高い学生生活が待っています。この「自由度が高い」というのが大学におけるカギとなる要素だと思いますが、「自律」が要求されることになり、「自立」を手に入れる機会でもあります。

宮武久佳『「社会人教授」の大学論』(青土社、2020年)に、大学生の素朴な意見が出ていました。大学とは何かという問いに対する回答として、「人生の夏休み」というのがあったそうです。たしかに、大学時代が人生で最も好きなことができるし、自由度が高いので、「人生の夏休み」というのは言い得て妙です。しかし、本当に夏休みにしてしまうと、その後の人生の自由度を失います。それは奴隷制への道のりになります。

なぜ、そのようなことを思うかというと、日本の小中高の教育は、とにかく与えられた問題を機械的に回答していく作業を身につける場となっています。自分で考えることができるようになる教育などといいますが、自分で課題を発見し、自分で分析方法を見つけ出し、自分で答えをみつける、ということを学べる機会はほとんどないでしょう。

そのような機会は大学教育において、はじめてやってきます。しかし、ここで夏休みを取ってしまえば、そのチャンスを逸します。結局、小中高までの与えられた課題に対して回答をみつける技術だけが学生の拠り所、あるいはノウハウになります。そして、そのまま就職して会社の指示・命令に従い業務遂行するのにはとても有効です。疑問を差しはさまずに、とにかくやる。これは会社にとっても便利でしょうし、社会の効率からいっても有用なのだと思います。

たとえば、海外と比較すれば、明らかに日本人は従順です。上の指示には従うし、社会のマナーやルールを尊重します。中学生の二男がフランスに一人旅をしていますが、電話で話したときに印象的なことをいいました。

「お父さん、日本のトイレはすごいね。フランスのトイレはどこも汚いし、壊れていることも多いよ」

その通りです。日本人が誇れる世界一きれいなトイレは、このような日本の教育がもたらした産物かもしれません。世界の人がやめたマスクを、いまだに感染対策として着用して、私たちは正しいことをしているのだと信じている社会も、日本の教育がなければ実現しないことでしょう。

しかし、長い社会人としての道のりを、指示待ちの兵隊として過ごすのは、とても苦痛ではないかと思います。それでも、多くの大学生は、社会に出てから会社の管理下に置かれて、社畜として働くことが一般的なことだと信じ込まされているので、あまり疑問を持たないのかもしれません。いい大学に入り、いい会社に就職することができれば、それなりの幸福が待っている。それを信じるのであれば、それでよいと思います。人生の最期まで、その信念が持続することを祈ります。

一方で、この自由度の高い大学生活において、自分で課題をみつけて、自分で学び、自分で解を導き出す時間に費やした場合、おそらく人とは違う人生を歩むことが可能になると思います。この「人生の夏休み」といわれる期間に、学ぶクセを身につけ、自分で考える訓練をし、何をもって社会に貢献していくのか、ということを考えた人が、型にはまらない生き方をすることが可能になるのだと思うのです。すなわち、自由を手に入れることができるのです。また、あらゆる課題に、回答は一つしかない、ということはないということを学ぶのも大学かもしれません。正しい答えが一つしかないほど世界は単純ではないということに気がつくということでしょうか。

自分の長男もこれから大学受験です。志望校に合格するかどうか以上に、どの大学でもいいので、本当に自律するための学ぶクセを身につけて、自由度の高い人生を歩んでもらえたらいいと思います。最近、人生の本当の豊かさは「自由」なのではないかと思うからです。

大手メディアを避けて世界観をつくる

自分の世界観やものの考え方というものは、どのようにつくられていくのでしょうか。かなりの部分を大手メディアに依存している人もいるかもしれません。大手新聞、地上波テレビ、近年ではインターネットのYahoo! ニュースなども含まれるでしょう。しかし、これらに頼ると明らかに「自分」の世界観ではなく、大手メディアが創作した世界観に引きずられてしまいます。

私の場合、学生時代に就職活動のために日経新聞を読みましたが、その後、著名な経営コンサルタント船井幸雄氏が新聞は読まなくても、またニュースを観なくても、時流は読めるので大手メディアの情報は不要である、という趣旨のことを提言しているのを知り、ほとんど新聞もニュースも参考にしなくなりました。仕事で困ることはなかったかというと、まったくありませんでした。ビジネス上の会話で話題が出ても、知っているかのようにうなづき、後で確認するだけでも問題は生じませでした。ということは、新聞やニュースの情報に本質的で重要な内容はないということかもしれません。

大手メディアのすべてとはいいません、あるいはそこで働いている人すべてとはいいませんが、みんなお金のためならある程度のことはやり遂げます。それが仕事だからです。真実を伝えるというのは、独立系のフリーのジャーナリストやメディアでなければできないことでしょう。いくつか代表的な例を拾ってみましょう。

アメリカの「ライナの証言」は有名です。ライナというクウェート人少女に、イラク兵がいかに残酷かをアメリカの議会で証言させて世論を動かし、アメリカを戦争に導いた例があります。このライナというクウェート人少女は、そもそも母国のクウェートに行ったこともないということです。このお芝居によって、イラク兵およびイラク民間人、そしてアメリカ自国兵も含めてどれだけの人が亡くなったことでしょうか。リンクの動画における伊勢崎賢治教授の解説を聞けば、このような情報操作の動機がどこからくるのかわかります。

(9) 嘘から始まった湾岸戦争!自作自演の議会証言とPR操作! - YouTube

また、イラクで捕虜となり救出された女性アメリカ兵士のジェシカ・リンチの話も有名です。彼女はイラク兵に抵抗するために、最後まで銃を撃ち続けた、まるで女性版ランボーのような印象で報道されました。しかしその後、ジェシカ・リンチ自信の証言によって、それは戦争を正当化したいアメリカ国防総省による自作自演の情報操作であったことがわかります。リンクの動画では、ご本人が意図的に作られた誤った情報には慎重にならなければならないことを警告しています。

(9) ジェシカ・リンチとの会話、パート 1/2 - YouTube

「9.11は自作自演、は常識」というのは、ここまでくると「陰謀論でしょう!」という人もいるかもしれません。たしかに、以前の私であれば笑い飛ばしたと思います。しかし、現在進行中の一連の新型コロナウイルスによるパンデミックの報道、およそ有効性がほとんど証明されないコロナワクチンに関する報道、PCR検査の有用性やマスクの効果などに関する報道を見聞きするにつけ、さもありなん、という立場に変わってしまいました。リンクの馬渕睦夫氏や今は亡き西部邁氏の深遠な解説を聞いてから判断してもよいと思いました。

9.11は自作自演、は常識 (odysee.com)

これらメディアの情報操作や印象操作の背景に誰が存在し、どのような意図があるのか突き止めるのは困難です。しかし、少なくとも距離を置く、無視する、関知しない、という態度で挑めば、かなり人生は軽くなります。大手メディア企業も、そこで働く役職員も、使命感を持ってやっていることでしょう。それがお金のためかもしれませんが、それを私が批判できる立場にありません。

よって、できるだけ大手メディアの情報は避けて、自分自身で考え調べる態度を維持して、世界観をつくっていけば、失望や怒り、落胆などのネガティブな感情はわいてきません。どうせなら日々楽しく軽快に生きていきたいので、メディアの挑発や扇動に乗らないことかと思いました。端的に無視を決め込むことです。そうすれば、いずれ彼らも力を失っていくことでしょう。

社会を分断する日本の高等教育制度

最近、長男が大学受験をするということで、いろいろな角度から大学を調べる機会がありました。やはり驚くことは学費です。情報系学部を志望する長男の場合は、文理融合学部ということで、文系学部よりも学費が高く、理系学部よりも学費が低いという中間に位置しています。初年度納付金と二年目以降の学費をみて意外に高額だと思うものの、4年間の合計額を出したらさらに驚きました。550万円です。

もちろん、大学に支払う金額以外に、本人の生活費も別途かかります。しかも本人が大学在学中に正規の雇用に従事することはないので、大学4年間の逸失利益も考えると、大学に進学することは膨大な投資ということになります。もちろん、投資というからには、リターンが必要になりますが、たしかに生涯賃金で考えれば、大卒者と非大卒者で異なることでしょう。

労働政策研究・研修機構によって2020年に行われた調査によると、大卒者と非大卒者では、大卒者の生涯賃金が約6,000万円高いと考えられます。この点、親として経済的余力があるのであれば、子どもを大学に行かせてあげたいと思うでしょう。しかし、経済的な理由やその他何らかの要因で子どもの大学進学を断念せざるを得ない家庭というのはあるはずです。この私立大学進学のための総コストをみれば明らかです。

一方、国立大学であれば、文系も理系も、あるいは文理融合であろうと総コストは同じで、4年間で約240万円になります。まだ可能性は高まりますが、「国立」というわりには、240万円も家庭の支出というのは、何とも違和感があります。なぜ国は、未来への投資として、この240万円を無償にしないのでしょう。また、私立大学に対する公的支援をもっと充実させないのでしょう。私の知る限りフランスやドイツでは学費というものはなく、登録料の数万円を支払って終わりです。国が人材を育てるという意識があり、日本のように各家庭に支出を負担させるようにはなっていません。

アメリカの高等教育制度を模倣したからなのかわかりませんが、明らかに日本の高等教育に関する制度設計は、貧富の格差を拡大して、社会を分断していると思われます。世間では「学歴」によって貧富の格差が生じるというとき、超難関大学難関大学あるいは中堅大学、その他大学で差が生じるという文脈で「学歴」ということもありますが、ここでいう「学歴」は、大卒であるか非大卒であるかです。

結局、どこの大学出身者であろうと、少なくとも社会に出てしまえば、他人から見えるところに超難関大学の出身者であるなどというレッテルが貼られているわけではないので、仕事の成果次第で評価され、給与も変わってくるでしょう。しかし、日本の場合、大卒と高卒では選べる仕事が異なり、また、知識や技能あるいは人脈などで、その後の人生で差が出てくる可能性が明らかに高まります。

冷静に自分自身を考えても、1987年に大学進学しましたが、当時の4年制大学の進学率は約25%でした。短大も含めると約36%です。そして、自分が入社した会社のほとんどの人は、大卒か短大卒だったので、残りの64%の人々との社内での交流はなかったことになります。この時点で社会は分断されているといえそうです。

誰がこのような社会制度が望ましいと考えて制度設計したのかわかりません。日本という国が冷静に社会全体のことを考えていれば、教育にもっと投資をして、優秀な人材を育て、そしてその人材が稼いで税金を支払ってもらうとい循環をつくらなければ未来はないとわかりそうなものです。しかし、現実はそうなっていません。

せめて、社会人になってから大学に進学したい、自分の稼いだお金で学び直したいという意欲がある人には、学費は無償でもいいのではないかと思いました。親に行けといわれて仕方なく大学に行くわけではないので。私には日本の高等教育のあり方を語れるほど専門性も知識も経験もありませんが、自分の子どものために支払わなければならないかもしれない金額を目にして、社会を分断する日本の高等教育制度に対して、大きな疑問を抱きました。