スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

文系と理系で人生を選択しない

大学受験のシーズンですが、日本では高校生の段階から文系と理系に分けて大学受験に挑みます。私の場合も高校3年生のときに、それまでの国立理系から私立文系という脈略がない選択をしました。それだけ深い考えなどなかったのでしょう。最初に理系を選んだのは、当時の数学の先生が、「文系は就職がなく理系は就職がいい」という発言を聞いたためでした。1985年当時の話ですが、ただそれだけです。真剣に考えてなどいませんでした。

しかし、文系か理系かの選択は意外に重要で、その後の人生に大きな影響を与えます。私の場合ですと、当時は代数幾何、基礎解析などといっていましたが、そこまで学ぶものの、その後、微分積分や確率統計というものを学んでいません。学習指導要領の変更で、今でいえば数学Ⅲというのでしょうか。義務教育ではないので、仕方がありませんが、教育を受ける機会を奪われたともいえます。その後、社会人になっても学ぶ機会はやってきませんでした。だからといって仕事で大きく損をしたとか、やりたい仕事に就けなかったということはなかったと思います。ただ、50歳を過ぎた今、学び直そうという気になっています。

それは、自分の専門の保険分野でサイバー保険というのがあるのですが、そこで、情報セキュリティの理解が欠かせなく、プログラミングやネットワーク、そして数学の知識もある程度必要になっているからです。過去にサイバー保険に関する論文も5本ほど出しましたが、自分で納得できるもの、あるいは社会に還元できる良質なものは書けていません。結局、現実の社会では文系と理系という分類で対処できる物事ばかりではないということでしょう。

そのような現実世界への適応や対処を考えると、高校生の段階で文系と理系のどちらかを選択させるのは、どうなのだろうと疑問が生じます。かといって、アメリカのように大学2年生まで教養を学び、大学3年で専門を選択するといっても、日本の場合は大学3年の夏頃から就職活動もはじまるので、専門性も身につかないことになります。そう考えると、日本の教育システムも企業の人材採用システムも、どこか破綻しているように思えます。せめて、企業に就職してからも、学び直せる社会システムが必要なのでしょう。

隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社新書、2018年)によると、日本は明治以降、より効率的に近代化を推し進める前提で、高度な官僚制度を構築し運営するために法学を修得した人材を輩出し、高度な軍事技術を取り入れるために工学を修得した人材を輩出する必要があったから、きれいに文系と理系に分かれたのではないかとと推論しています。それまでは文系と理系の区分けはなかったものの、ヨーロッパから人文科学、社会科学、自然科学という分類が日本に導入されるきっかけになったのは、明治以降の近代化だったわけです。

それは国家として効率的だったかもしれません。しかし、個人の興味や人生の選択から考えたときに、効率だけでは割り切れないものがあるはずです。フランスのルネ・デカルトは哲学者であり数学者でした。ドイツの偉大な哲学者であるイマヌエル・カントニュートンの活躍に影響を受けて自然学を研究しています。もっと古くは、古代ギリシャヒッポクラテスも医者であり哲学者といっていいでしょう。

結局、学問の分類というのは、大した意味がないのかもしれません。その人の興味の赴くままに学ばせておけば、偉大な業績が出てくる。そのように考えると、高校生の段階で文系か理系かの選択をさせていることは、多くの可能性を摘みとっていることともいえます。

しかし、この弊害を解消するのは容易なことではありません。日本の教育および大学受験システムや企業の人材採用システムなど変更する必要があるものがいっぱいあるからです。そう簡単には変わらないだろうという前提で、子どもから大人まで、自分の人生を選択していく必要があるのでしょう。その時、文系と理系という区分を使わないほうが、多くの可能性を潰さないで済むと思います。