職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

人間が死ぬことを忘れた超エリート

人間はいつか死ぬのに、多くの野心的な行動をとり、意欲的な意思決定をする。非常に不思議である。身近な例であれば、会社に入り出世したいと考える。最終ゴールが代表取締役だとして、その先に何があるだろうか。あるいは、学問の世界では教授になり、より優れた業績を残すことだとして、その先に何があるだろうか。「向上心」といえば、聞こえがいいが、あきらめが悪いとも言い得る。結局、その先は死というゴールでしかないのに。

一方で輪廻転生の考えを受け入れると、来世において今生の努力が実ることもあるので、努力し続けることに意味を見出せる。私は輪廻転生肯定派なので、そのような思考もあり得るわけだが、今の努力は来世のためと思うよりも、やはり近い将来のためと考える傾向がある。よってあきらめが悪いことになる。また、多くの人は輪廻転生を受け入れていないようなので、やはり今の努力は、向上心を原動力とした近い将来の果実を期待してのことであろう。

一方、私たちは死ぬという前提を忘れていることが多いが、それを受け入れると行動や認識が変化するであろう。なぜなら向上心や努力の先には今生での成功があるかもしれないが、それも大したものではないと気づくからである。おそらく、あることを達成した後には、すぐに欠乏感が現れることを誰もが経験しているのではないだろうか。よって際限のない向上心など、快適な人生にとってかえって邪魔なくらいである。そして、人間は死ぬという前提を受け入れたくない人々の中でも力をもった超エリートは奇想天外な挑戦に出ることになる。

たとえば「超人間主義」と訳されるトランスヒューマニズムがそうである。日本トランスヒューマニスト協会によると、トランスヒューマニズムについて、高度な科学技術によってもたらされる不老・不死・不労の社会は、トランスヒューマニストがめざす理想のユートピアだと。

また、人工知能が人類の知能を超える転換点を2045年だと予想する未来学者のレイ・カーツワイル氏のシンギュラリティの仮説もある。人工知能が進化すると、何でもできる、何でも解決できるという万能感が生まれて、あらゆることがポジティブに捉えることができるようになるという。

さらには、ダボス会議の会長であるクラウス・シュワブ氏が声高に提唱するグレートリセットも、近い未来に社会秩序や構造は大きく転換して、新しい社会に生まれ変わるという。一部の超エリートが考える世界像を全世界に押し付けることで理想的な社会ができ上げるわけである。

しかし、どの思想も哲学も構想も人間の向上心や野心から出てきた理想像かもしれないが、その根本には自我、すなわち強いエゴがあることがわかる。西垣通氏は「人間が神になる未来を阻止しよう」こころの未来25号(2019年)において、超人間主義者が考える「賢明さ」は何かというと、どうやらデータ処理能力のことだという。今後、AIとバイオ技術が融合したアルゴリズムで万事を決定できるようになる。そして、アルゴリズムを操作できるのは、一部のエリートであり、大多数の民衆はサイボーグに転落する。まさに人間が神になるわけだ。

しかし、西垣氏が懸念するような、社会変革の動きを阻止しようとしなくても、一部のエリートはその傲慢さや自我のために行き詰るのではないだろうか。なぜなら、人類は、権力者の横暴を許すほど寛大ではないと思うからである。自由を愛する人々にしてみると、超エリートが考える世界は、滑稽なほどに暗黒世界として映っているはずだからである。

食の安全よりも生産性なのか

以前から食べたものが体を作るとは考えていたので、明らかに体に悪そうなものは避ける努力はしていた。パンデミックの前から食と免疫の関係にも興味があった。加工食品の表示をみればおそろしい数の添加物の名前が表示されており、一つひとつに意味があるのか疑問でもあった。

最近、明らかに日本の食は危険なのだということが理解できる書籍に接した。山田正彦『売り渡される食の安全』(角川新書、2019年)である。この書籍に登場する有名企業としてモンサント社がある。モンサント社が製造する除草剤は「ラウンドアップ」というそうである。日本ではホームセンターなどで簡単に入手できる。このラウンドアップには、グリホサートという成分が入っており、どのような植物でも枯らしてしまうことができる。

しかし、農作物を育てるのに除草が必要であるが、ラウンドアップを使うと、当然農作物もダメージを受ける。そこで、1996年には遺伝子組換え技術によって、ラウンドアップに耐性を持つ新しい大豆が開発された。つまりラウンドアップを使うことで、雑草のみ枯れ、大豆は育つというわけである。この話を読んだ瞬間に、生産性を上げるために、我々の健康を引き換えにしているのだろうかという不安がよぎった。そして、その不安が当たっている可能性もわかった。

アメリカ環境医学会は、遺伝子組換え食品と健康被害の間には、偶然を超えた関連性があると指摘している。特にアレルギーや免疫機能、妊娠や出産に関する生理学的、遺伝学的な分野で問題があるという。何とも本末転倒な話で、ラウンドアップという便利な除草剤を使うために、遺伝子組換え食品が作られる。その遺伝子組換え大豆やトウモロコシは、健康に悪影響があるという事例や研究結果が多数存在している。しかも、アメリカではラウンドアップなどのグリホサート製剤の暴露によってガンを発症したとるす訴訟が1万件以上も起こっており、そのうち何件かで原告側が勝訴して、モンサント社に数百億円の損害賠償責任も認められている。

黒田純子「除草剤グリホサート/「ラウンドアップ」のヒトへの発がん性と多様な毒性〈上〉」科学89巻11号(2019年)では、ラウンドアップなどグリホサート製剤の使用量と自閉症の増加が相関していることを紹介している。発がん性、生殖系への影響、皮膚炎、肺炎、血管炎なども挙げられる。そして、サウジアラビアクウェート、フランス、ドイツなど次々にグリホサートの使用を禁止する国が増えているという。一方で、日本は逆に2017年にグリホサートの残留基準を大幅緩和して、使用量が増えているそうである。モンサント社にとっては、是非とも開拓したい市場が日本なのかもしれない。

このように、遺伝子組換え食品や除草剤に対して警告を発する識者がいる一方で、それを否定する研究者も多い。しかし、食品は人が口にするものなので、あらゆる視点から分析して、危険性であるのであれば、その消費を中止すべきなのかもしれない。健康と引き換えに生産性を優先するという発想にはなれない。

つまり、予防原則に従って判断してもいいのではないだろうか。費用便益分析という経済優先の考え方は排除され、科学的確実性が欠如していても、人体への危険についてかなりの蓋然性があるのであれば、使用を中止するという判断があってもよい。そうしないと、また巨大企業が莫大な予算を使ってロビー活動や政治家への働きかけができてしまう。そして、危険な食品や除草剤が市場に流通し続け、一消費者としては抵抗しようがない。

しかし、政治や行政が一般消費者を守れないのであれば、個々人が学習して、自分で判断する必要がある。危険な食物は購入しないということも意思表示の一つのはずだ。遺伝子組換え食品にしても、遺伝子組換えワクチンにしても、まだまだ未知のことが多い。まずは、そこがスタート地点だと思う。我々人類は何もわかっていないということ。

緊急事態条項は不要 - 憲法と法律のバランス

5月3日の憲法記念日に、岸田首相が憲法改正や緊急事態条項の新設についてメッセージを発し、それに対して反発の声が上がった。そもそもなぜ憲法改正や緊急事態条項が必要であるかの議論は十分なされているとは思われないが、そこに注意を払ってこなかった国民にも責任の一端はある。特に緊急事態条項については、昨今の中国の強権的なロックダウンの施策をみていると、その危険性について懸念を抱く人が多いようである。

まず他国との比較で、日本だけに緊急事態条項がないと主張するのは、西修氏である。「国家緊急事態条項の比較憲法的考察」日本法学82巻3号(2016年)では、103か国の憲法を調べ、すべての国の憲法に国家緊急事態条項が設定されていることが判明し、OECD加盟諸国の中で日本だけがその条項が存在していないと指摘する。ただ、他国がやっているから日本もということでは、その必要性についての説明にはならない。

また、百地章氏はコロナ禍によって現行法で対応できる部分と対応できない部分が明らかになったとし、検疫法や感染症法が感染者を検査や強制入院させることはできても、発症していない感染者は対象外であり、一時的な隔離すら強制できないという問題が露見したとする。百地章『増補改訂版 緊急事態条項Q&A』(明成社、2020年)でも、憲法に緊急事態条項が定められていなければ、いざという時に、国民の生命と安全が保障されない。特別法など法律で対処すればよいという主張に対しては、憲法違反を懸念して大胆な施策が打てないことがあるので、やはり憲法を改正すべきであるという。

一方、大林啓吾編『感染症憲法』(青林書院、2021年)においては、緊急事態条項を設定するデメリットとして、①憲法改正は法律改正と比べてエネルギーと時間、そしてコストがかかる、②憲法的効力を一時停止したり行政に権力を集中させたりすると著しい権利侵害が行われ、回復困難な損害をもたらす可能性がある、③感染症以外の問題にも緊急事態条項が利用されて権利濫用のおそれがあることが指摘されている。私も特に②の弊害が懸念される。感染症に限らず、戦争でも自然災害においてもどの対策が望ましいのかは、そんなに簡単に判断できるものではない。

さらに大林氏は、国の代表たる内閣総理大臣が緊急事態宣言を出すときに、再選事情などの私益を考慮して判断する懸念を表明する。2001年9月1日の同時多発テロを戦争と捉えて、テロとの戦いに挑んだジョージ・W・ブッシュの支持率はテロ後に9割近くまで上昇した。今回のパンデミックでも台湾、ニュージーランド、イタリア、フランス、ドイツなど積極的な対策をとった国のリーダーが一時的に支持率を上げている。一方、アメリカのトランプ大統領の支持率は40%台であり、緊急事態宣言を出すのが遅れた安部政権の支持率も下がった。

しかし、各国の強制的なロックダウンなどの対策が本当に効果があったのか、その後、正式に検証されることもない。いまだに違和感を感じるのは、たとえば、北海道の鈴木直道知事がいち早く小中高の学校を臨時休校としたが、それが正しい判断であったのか誰も検証していないことである。素早い判断で賞賛されるのかもしれないが、その判断が正しかったのであろうか。

R. F. Savaris et al., Stayathome policy is a case of exception fallacy: an internetbased ecological study, Nature, scientific reports (2021) によると、世界87地域を調査した結果、外出せずに自宅に留まることが、死亡率を低下させるということがほとんどなかったとする。

Stay-at-home policy is a case of exception fallacy: an internet-based ecological study (nature.com)

世界的にも多くの学術論文で、ロックダウンの効果は限定的であった、あるいはほとんど無意味であったことや、PCRテストの欠陥およびワクチンの効果や副作用に関するネガティブな情報が発表されていても、各国の政権は都合な悪い情報は無視を決め込むことになる。このように考えると、緊急事態条項を新設し、内閣総理大臣に強力な権限を与えるよりも、特措法や感染症法などの特別法で対応しつつ、憲法による牽制も効かせながらバランスを取るほうが望ましいのではないだろうか。

緊急事態条項により、時の権力者に全権委任してしまえば、その時の判断が間違っていれば取り返しがつかないことになる。西氏も百地氏も、緊急事態を判断するリーダーが大きな過ちを犯したり、私的な利益を追求する可能性は前提として考えていないと思われる。いずれにしても、もっと憲法学者も含めた各分野の専門家が意見を表明して、議論を尽くしてもらう必要があるテーマであろう。十分な議論がなく先走ると、また取り返しのつかない過ちを犯すことになる。

本の出版から恥をかき学ぶ

二冊目の単著の専門書となる『先端的賠償責任保険-ファイナンシャル・ラインの機能と役割』(保険毎日新聞社、2022年)を上梓した。正直、一冊目の時より情熱が薄らいでいたかもしれない。そうなるのが当たり前だろうか。そして先日、自分の著書のページを開くと、違和感のある表現が目に入った。「実態にそぐっている」という記述が妙に引っかかる。そもそも、こんな日本語表現があるのか。その違和感は、声に出して読む時に感じるというより、視覚的なもののほうが強かった。

国語辞典で調べてみると、「そぐう」は「ふさわしい。似合う。つり合う。調和する。」という意味で、普通は打消しの形で使うとあった。すなわち、「そぐわない」という表現である。「葬儀の場にそぐわない服装」というように。

そこでさらに、グーグルで "そぐっていない” と検索してみると、いくつかそのような使い方をしている文章が出てきたい。そして、イーロン・マスク氏のおかげで話題のツイッターのコメントがいくつかヒットした。

三省堂国語辞典編集委員飯間浩明氏によると「「そぐう」という動詞は、一般に「そぐわない」と否定形で使われますが、肯定形もあります。『角川外来語辞典 第二版』1967.7.18 p.1「序」に〈この精密・精厳な研究を得て,この研究にそぐうばかりの,国語の内側の研究が要求される〉という金田一京助大先生のことばが載っています。」

文筆業の栗原裕一郎氏は、「「そぐってない」って日本語としてヘンなのかな? 「そぐう」は打ち消しの「そぐわない」で用いられることが多いけどそもそもはワ行五段だから、連用形+接続助詞「て」+ない=「そぐいてない」はありだよね。音便化すれば「そぐってない」になるから理屈は合ってるよね?」とコメントする。

いろいろ調べるものの明確な答えは出てこない。ただ、自分の文章をみたときの視覚的な違和感はとても強かった。自分の書いた文章なのに、なぜもこんなに不自然な印象をもったのかわからない。たしかに、あわてて追記した段落であり、検証が不十分であったのは事実である。ワード原稿で違和感を感じず、ゲラになっても気がつかず、書籍として完成して、ページを開いたら、何ともいえない違和感。普通はゲラになると、いろいろ誤字脱字や表記の誤りがあぶり出されるように気がつくことが多いが、今回は素通りした。

おそらく今後、この表現を使うことはないと思う。日本語として正しいか正しくないか答えは出ていないが、自分の中に感じた違和感は大切にしようと思う。言葉は生きているともいえるが、何となく間違えたという感情がわいた。読者のどれだけの方が気がつくかわからないが、「実態にそぐっている」を「実態に合っている」と書けばよかっただけのことである。

出版後にこのようなことが発覚すると、内容についても、2020年に改正された民法との整合性がない記述もあるのではないかとか、労働法の解釈に間違いがあるのではないかとか、いくらでも懸念点は出てくる。本を出版した人が、どれだけ自分の本を読み返すのかわからないが、私は必要がなければあまり読み返さない。誤りを知るのが怖いからであろうか。そもそも燃え尽きているので、読む気が起きないのだろう。

そして、自分の人生で専門書の出版も二冊で終わりかと思ったものの、自分の未熟さを実感して、三冊目もいつか書きたいと思うようになった。10年はかかるだろうか。次のテーマはまったく見えていない。

文系の「論文博士」から「早期修了プログラム」へ

将来、論文博士の制度が廃止されるのかどうか、という議論がある。私見は存続させてよい制度だと思うが、文系に関してはほとんど利用されていないか、各大学で受け付けていないのではないかと思う。自分も経験者としていえるが、どこの大学もほとんど門前払いといった感じであった。

一方、筑波大学大学院に法学と経営学で早期修了プログラムがあり、最短1年で博士号を取得できる制度があった。また、名古屋市立大学大学院にも経済学で同じく早期修了プログラムが存在する。これらの制度は、論文博士を断念した人にとっては試してみる価値がある制度ではないかと思う。

トップページ - 筑波大学 早期修了プログラム (tsukuba.ac.jp)

博士課程早期修了プログラムについて - 名古屋市立大学経済学研究科/経済学部 (nagoya-cu.ac.jp)

筑波大学大学院の法学のケースだと、早期修了プログラムに入学できる要件の学術論文数について、「2編以上の査読付き論文相当。ただし、うち1編は10万字程度の分量があること」とある。この場合、10万字程度の論文を掲載してもらえる学術雑誌が少ないので、分割して掲載していただくのか、書籍として出版していることになるのだろうか。いずれにしても、この10万字の論文をベースに博士論文を完成させるのであれば、論文作成作業の流れとしては理想的である。

次に筑波大学大学院の経営学については、「学術誌に掲載された査読付き論文2編以上」とある。法学が「査読付き論文相当」となっているのと比較して、「査読付き論文2編以上」とあるのでハードルが高いが、これはその学問の世界の慣習が影響しているのだろうか。法学分野で、あまり査読付き論文というのをみかけないが、経営学の場合は一般的なのであろう。

最後に名古屋市立大学大学院の経済学のケースは、「査読付学術論文1編以上」とある。これも経済学の世界のことは詳しくないが、査読付き論文を提出できる学術誌が多く、その機会があるのであろう。

いずれにしても、このような博士課程の早期修了プログラムを活用する人は、入学前にほぼ論文を書き上げている人で、入学後は、追加論点の加筆や誤りの訂正、日本語表記の統一など、最終の仕上げを1年かけて実行するというような人に向いていると思う。すなわち、すでに論文博士を試みた人にとっては最適な制度で、敗者復活の機会となるわけである。

ただ、問題は二点あり、一点目は大学院に入学するわけなので、論文博士のように審査料が10万円や20万円で済みますというわけにはいかない。国立の筑波大学大学院であれば、通常通り初年度納付金は817,800円である。公立の名古屋市立大学大学院の場合、名古屋市民でなければ、初年度納付金は867,800円となる。もちろん、それに加えて入学検定料も必要である。

二点目は、自分の専門分野の論文を審査してくれる教授がいるのかどうかということである。これが一番大切なポイントではないだろうか。自分の書いた内容の分野に知見があり、興味を持ってもらえる方なのかどうかということ。たとえば、私の専門分野は大きな括りでは商事法であるが、その中の保険法であり、さらには責任保険であり、そして会社役員賠償責任保険(D&O保険)ということになる。もちろん、会社法が専門の方でも、保険法を知っている人はいるであろうが、保険法が主というのは少ないかもしれない。自分の経験からすると、自分の興味と合致する教授をみつけられるのが一番のカギになるハードルだと思われる。

このような前提で考えると、日本全国の大学院から、自分の論文を審査してくれる教授を探せることが理想であり、筑波大学大学院と名古屋市立大学大学院ではまだ数が少なすぎると思われる。自分が知らないだけで、他にもあるのかもしれないが、早期修了プログラムを採用する大学院が増えることで、社会人でも文系の博士号をめざせる環境が整うことが望まれる。

子どもが多くてすいません?

一年以上前に渡辺由美子『子どもの貧困』(水曜社、2018年)を読んで、貧困層にいる子どもたちを支援しようと決めておきながら、そのことを忘れていたことを思い出した。当時、NGOを通じて海外の二人の子ども支援していたが、一人減らして、もっと身近な日本の子どもをと思ったのである。NGOを通じての支援は25年以上続いていたので、何となく惰性もあり、子どもに対する思いも、当初に比べると希薄になっていたので、少し状況を変えようと考えた。

なぜ、一年以上経って日本の子どもの支援を忘れていたことを思い出したかというと、長男の大学受験のために塾代がかかり、私立理系を希望しているので、学費などを調べると、初年度納付金が180万円というのが一般的ということで驚いたからである。自分はある種のおそれを感じた。欠乏のおそれである。日本で大学に行くことがそんなにお金のかかることだったのだということが、自分の目の前の現実によって、あらためて気づかされたというところであろう。以前からおおむね知っていたのに、いざとなるとこれは大変なことになったと感じた。

一方、渡辺氏は、貧困層の子どもに対して無料の塾を運営している。ある時、中学三年生の子どもから彼女のところに、自分がその塾で学んでもよいか問い合わせのメールが入る。そして、塾に通えるなら保護者と相談してぜひ参加してと返信する。数日して、その子の保護者からメールが届く。

「先日、子どもの〇〇が問い合わせした母です。恥ずかしながら、貧乏子だくさんで5人の子どもがおります。夫婦二人で一生懸命働いてもなかなか充分な収入が得られません。○○は一番上で、友達がみな塾にいくから、自分もいきたいと言われました。できることなら、私たちも塾にいかせてやりたいのですが、下の子もいるのでどうしても塾にいかせることができません。「塾にいかせて欲しい」、「塾になんかいかなくても、きちんと自分で勉強すれば受験はできる」と毎晩親子喧嘩をしていました。今回、こちらの無料塾のことを子どもから聞き、本当に涙が流れました。兄弟が多いばかりに、子どもたちに十分にしてやれずにいつも申し訳なく思っているのですが、、、、」

ということである。兄弟が多くて申し訳ない。このようなことを親に思わせる日本の教育システムはどうなってしまったのだろう。何ともいいようがない。

わが家は五人ではないが、三人の子どもがいる。長男の大学受験のための塾には数十万かかった。大学に入るためにすでに数十万で、入学したら180万円である。この無料の塾に通う子どもは、大学に行きたいと思ったらどうするのだろうか。奨学金とかもあるだろうがいばらの道である。

とりあえず、自分は三人の子どもと、このような現実があることをしっかり話し合い、家族として、毎月無料の塾への支援をはじめることにしたいと思う。自分には無料塾で教える時間もないし、できることといえば、毎月のささやかな財政支援しかない。そして自分に対する最大の便益は、そのことを通じて、当初感じた欠乏に対するおそれを払拭することにある。欠乏のおそれは、自分が勝手に感じていることであり、本当は十分にあるということを思い出す必要がある。お金というのは誰にでも必要なだけ十分あるということ。それは精神論ではなく、真実なのではないだろうか。お金は川の流れのように、常によどみなく流れていくものなのだと。

ジョブ型もメンバーシップ型も選択肢にすぎない

ジョブ型かメンバーシップ型か、どちらがよいかというのは不毛な議論かもしれない。どちらを心地よいと思うかは人によって異なるし、人の一生の間で最初はメンバーシップ型がよいと思っても、年齢を重ねるとジョブ型がよいと考える人もいるかもしれない。

ある国立大学の学生に、ジョブ型雇用についてお話させていただく機会があった。しかし意外にも、聴講者の方はメンバーシップ型を望んでいるようで、私の話は響かなかった。もしかしたら、私の話は心地悪かったのかもしれない。国立大学の学生なので、それなりの大手企業に就職して、安定した仕事を得ることができる人たちだったのだろうか。別の機会に人事部の同僚に、同じ学生に対してメンバーシップ型についての話をしてもらったら、そちらの方が喜ばれたようである。学生にとっては心地よかったのかもしれない。

よく、日本社会では、あるいは当社でジョブ型は馴染まないという人がいるが、それはその人がメンバーシップ型を心地よいと思っているので、そのような表現が言い訳として使えるということだと思う。一方、メンバーシップ型は崩壊し、ジョブ型に移行するという人は、メンバーシップ型優位の従来型組織で行き詰り、次の打開策を探しているのかもしれない。どちらも、自分の都合のよいようにストーリーを想定しているだけなのだろうか。

私は今から20年前に自分の中でジョブ型に移行した。20代は典型的な日本企業で働き、労働組合もユニオン・ショップ制であったので、間違いなく退職年齢まで同じ会社で働くと信じていた。当時は55歳で役職定年で、60歳まで定年延長ができていた。考えてみると、自分もあと数年で当時の役職定年の年齢になる。

それではなぜ、30代前半でジョブ型に移行したのか。決して深く考えてのことではない。笑われるかもしれないが、いくつかの占星術師に将来は自分で事業をするといわれたので、これは大変だということで、自立することを急いだという単純な理由になる。そんないいかげんな動機で、と思われるかもしれないが、人生の選択はその程度のきっかけで行われるこもある。

今振り返っても、ジョブ型の利点はいくつかみつけることができる。たしかにある程度自立しているので、所属組織に依存しようとする気持ちは希薄である。別の組織へ横に移動しても、かなり早い段階で順応して即戦力になれる。強い運も必要だと思うが、自分で事業をする可能性も残されているので、定年のない生き方もあり得る。これらのことはメンバーシップ型でいる限りはなかなか可能性として出てこないであろう。

一方、自分自身も二冊目の専門書『先端的賠償責任保険:ファイナンシャル・ラインの機能と役割』(保険毎日新聞社、2020年)を上梓できたので、当該分野では専門性があるといえるが、あまりにもニッチなために、自分が組織や社会に貢献できているのかという不安も常につきまとう。どこかで深く掘り下げることをやめて、もう少し一般の人や組織、あるいは一般社会にも受け入れられるように、自分の専門性を横に広げたほうがいいのではないかという考えも浮かんでくる。結局、メンバーシップ型でいようとジョブ型でいようと悩むのである。

ただ、私にはメンバーシップ型の人の悩みはわからなくなった。肌で感じることができなくなった。定年という期限を設定されて焦るのか、あるいは希望すれば定年までは組織に所属できるので安心だと思うのか、どうなのだろう。

いずれにしても、ジョブ型もメンバーシップ型もどちらが良いということよりも、その選択がその人の人生そのものということかもしれない。私の当面の迷いは、占星術がいうようには、いまだに自分の事業はスタートしていないということ。もし、今の雇用契約業務委託契約と考えれば、自分で事業をしているともいい得るのではあるが。