職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

輪廻転生の概念からの解放

25年前に J・L・ホイットン=J・フィッシャー『輪廻転生』(人文書院、1989年)を読み、世界観が大きく変わったことを覚えている。トロント大学の精神科主任教授とライターの共著で原題は、"Life Between Life"である。人生と人生の間という意味。今世と前世の間に中間生があり、前世と前前世の間にも中間生がある。もちろんその先にも。

いつものとおり、ホイットン博士が自分の患者である、ポーラという女性に退行催眠を施していた。今世のポーラが19世紀に生きたマーサという女性から、18世紀のマーガレットだった頃を調べようと「あなたがマーサになる前に戻ってください」と指示した。本来であれば「あなたがマーサになる前の人物に戻ってください」というべきところを「マーサになる前に」といってしまったのである。

その結果、どうなったか。ポーラは「空の上にいる」と言い出した。驚き途方に暮れた博士は、空の上で何をしているのかを聞くと「私は生まれるのを待っています。母のすることをみているところです」という。すなわち、前世と前前世の中間地点である中間生にいるときの記憶がよみがえってしまったのである。

この事例を契機に、ホイットン博士は多くの臨床事例を整理し、書籍にまとめたのが、"Life Between Life"である。当時、自分には真実をみつけたと思うほど、影響力を持った書籍であった。

ところがこの数年で、この伝統的な輪廻転生の考えはもう古いということに気がついた。地球における輪廻転生に加えて、他の惑星における転生もわれわれは経験しているのではないかというもの。ニューエイジの概念がもとになっているが、われわれの多くは、スターピープル(starpeople)やスターシード(starseed)であるといわれる。日本ではスターシードのほうが通りがよいようであるが、文字通り宇宙由来の人々ということである。前述の輪廻転生でいうのであれば、中間生のときに別の惑星に生きていて、そこであえて地球を選んで転生してきているようなイメージであろうか。

そして、いったん地球に生まれると、地球の重い波動にとらわれて、なかなか宇宙すなわち地球より遥かに高度な文明とテクノロジーを持つ惑星には戻れず、何度も地球に生まれ変わってしまうことになる。すなわち解脱ができない。しかし、多くの魂はそれを経験したくて地球を選んでいる。地球は相対的に波動が低く、宇宙由来のスターシードにとっては生きにくい惑星のようである。

現実社会に照らしてみると、誰でも経験があると思うが、みんなが宴会やコンパで楽しんでいるとき、自分だけなぜか楽しめないといことがある。あるいは、学生であれば夜更かしして遊ぶのが楽しいという仲間の中にいながら、まったく楽しめないので先に寝てしまうなど経験がないだろうか。また、企業社会のようなピラミッド構造の組織では居心地が悪い、あるいは、部活動の上下のヒエラルキーに対して馴染めないなど。とにかくこの世のルールが快適と感じられない人は多いのではないか。その場合、自分がスターシードなのではないかと考えるとよいことになる。

そうはいっても、左脳過多な自分としては、できるだけ論理的に説明できるものはないのかと探していた。そして、その一つにグレゴリー・サリバン『宇宙人として生きる』(キラジェンヌ、2021年)という書籍に接する機会があった。著者は日本在住のアメリカ人でUFOや地球外生命体に関する専門家。その書籍によるとスターシードは宇宙における経験が豊富な分、地球における生きずらさを感じるという。本の内容は、人の認識や意識レベルで理解できる部分は異なると思うが、宇宙とこの地球の関係や構造を知るのにはユニークな内容かもしれない。

とくに左脳優位の人にとってありがたいのは、情報が氾濫しているこの世界で疑うべき情報の見分け方を示唆していること。かなりはっきりと明示しているので、せっかく意識改革できた人でも、ミスリードされて適切な方向へ進めていないのではないかというときには、有用な方向性を示してくれる。

たとえば、今の混沌とした時期に、どうしても自分の外側に救世主を求めがちである。そして、偽ヒーローのパターンは、突然現れて目を引く、不正な情報を流して拡散する、無責任な行動を極め、ダメージを片付けることなく消えるので、それを見抜く必要があるという。また、若者の文化やメディアには、意図的にネガティブな意識が入り込んでおり、映画、音楽、ファッションなどにも注意喚起をしている。

しかし、基本的に世界を支配する古いシステムはすでに消えかけており、私たちがみえているのは過去の宇宙のテンプレートが現実世界に転写されているだけなので、世界は着実に新しい明るい時代に移行しているというポジティブな点が強調される。そして、CIAなどの暗躍によって、情報操作はますます巧妙になっているので、より宇宙的なつながりによる直感を鍛えて未来を確信に満ちたものにする必要があるとする。情報に振り回されるだけの人間をやめる、しっかりと高次元からの情報を受け取るということであろう。

以上のように伝統的な輪廻転生に宇宙次元の視点を加えると、はるかに異なる視覚を獲得できることになる。宗教は人間が創作した概念であり、本来知るべき真実が隠されていると考えると、われわれが宇宙由来の人類であるという考えによって、古い概念から解放されることは多い。実利的にも私たちの生き方が楽になるのではないかと思った。

予防接種と自閉症に関する認識の違い

ある著名な憲法学者のA氏の「表現の自由」に関する論文を読んでいて、興味深いくだりに接した。フェイク・ニュースと表現の自由についての論文であるが、その憲法学者のA氏がフェイク・ニュースの一例として、予防接種と自閉症の関係について指摘し、それが虚偽の表現あるいはフェイク・ニュースという前提で論述が展開されていく。

もちろん、論文の主題は表現の自由であり、予防接種と自閉症の因果関係の議論はあくまでも事例にすぎない。当該論文のテーマは、虚偽の表現が、表現の自由のもとに保護される価値があるのかということであり、予防接種と自閉症の因果関係の解明ではないが、事例として次のような流れで紹介されている。

予防接種が自閉症の増加の原因となっているという論文が、アメリカの医学雑誌に掲載されて以降、予防接種の危険性を確信する人が増加し、子どもに予防接種を受けさせない保護者が増加した。この論文は、その後方法論に問題があったということで撤回され、医学界の支配的な立場では虚偽の表現となっているとする。

そして、A氏の表現の自由に関する憲法学的見解は、医学界で常識とされてきたものが、その後医学の発展で覆されたという事例は少なくないので、現時点で間違いなく虚偽だと思われたとしても表現そのものは禁止すべきではない、ということになっており、その点では妥当な結論となっている。

A社は、この論文の展開を筋の通ったものにするため、予防接種と自閉症に因果関係があるという説は「虚偽」であるという前提を置いているだけである。よって、憲法学における表現の自由についての論文としては問題ないし、そもそも予防接種と自閉症の因果関係は論点ではない。

しかし、仮に憲法学の議論とは別に予防接種と自閉症に因果関係について興味をもった場合、私が調べるだけでもそれなりに論文が出てくることに気がつく。入手が容易な書籍で、医学が専門ではない人向けに、400本以上の論文を要約した、Neil Z. Miller, Miller's Review of Critical Vaccine Studies (2016) でも複数の論文が紹介されている。予防接種と自閉症の因果関係を論じた論文は複数存在し、自閉症に限らず予防接種が様々な病気を引き起こすという論文は多い。また、これも入手が容易であるが、Suzanne Humphries & Roman Bystrianyk, Dissolving Illusions (2013)では、今世紀に入り、公衆衛生や栄養の改善によって多くの感染症は1950年頃までに激減しているにもかかわらず、その後、多くのワクチンが強制されていることを各種データや文献の引用で論証している。それによると、ワクチンは「遅れてやってきた援軍」どころか「遅れてやってきた偽の援軍(敵軍)」だったということになる。

ここで、憲法学者のA氏が、これらの医学論文や文献を調べなかったことを非難するためにこのような例を紹介したのではない。ここでの論点は、どんなに優秀な研究者でも、自分が見えている世界しか認識できないし、興味がない分野あるいは自分にとって必要がないと思う分野にまで情報を取りに行くことはないということである。よって、至極当然のことであるが、自分の知らない世界のことは認識しようがないということ。

あまりにも当然過ぎる道理であるが、このような事実に対して、私たちがとり得る態度がある。それは、単純であるが自分の知らない世界があるということを頭の片隅に置いておくこと。つまり、答えは一つしかないなどと考えないことである。おそらく100人いれば100通りの真実があるくらいの態度が必要なのではないだろうか。

また今、ワクチン推進派とワクチン懐疑派の人たちが日々情報に接するが、目にした情報を脳で処理するときに、それぞれ自動的に取捨選択しているであろうということ。たとえば、ワクチン懐疑派の人には、10月以降情報の質や内容が変わってきていることを感じることができると思うが、ワクチン推進派の人には、その情報が目に入っても、自分にとって不要なもの、確率的に自分とは関係ないものとして処理されている思われる。だから情報に肯定的なものと否定的なものがあっても、自分も含めて結論に合わせてあらかじめ情報処理してしまっているのだと思う。よって、議論は平行線をたどることになる。

最後に、本間真二郎『新型コロナワクチンよりも大切なこと』(講談社ビーシー、2021年)で紹介されていたワクチンに関する興味深い論文 James Lyons-Weiler & Paul Thomas, Relative Incidence of Office Visits and Cumulative Rates of Billed Diagnoses Along the Axis of Vaccination, International Journal of Environmental Research and Public Health (2020) があったのリンクで紹介しておく(無料で購読可能)。

IJERPH | Free Full-Text | Relative Incidence of Office Visits and Cumulative Rates of Billed Diagnoses Along the Axis of Vaccination | HTML (mdpi.com)

10年以上の期間で、ある小児病院の患者でワクチンを接種していない561名の子どものうち、注意欠如・多動症ADHD)の患者は0名であったのに対し、ワクチンを接種した2,763名の子どもでは5.3%もいた。また、その他アレルギー、喘息、湿疹、結膜炎などの症状が顕著に増加しているとする。これらのデータに基づくと、製薬業界から独立した研究機関においてさらなる研究が望まれるとする。

しかし、このような情報に接しても、人は自分の脳で情報を取捨選択してしまうので、結局、自分で調べる人と素通りする人が出てきてしまうことになる。きっと今は、人によって見えている世界は大いに異なることが推察できる。何か悪い夢でもみているのではないかと思う人と、過去とそれほど変わらないと見えている人。同じ空間に生きていながら、別世界に生きているのが私たちなのかもしれない。

以上の論点から感じることは、自分が認識していない世界が存在し、わからないことが山ほどあるという事実。そして、わからないことには「わからない」と整理するスペースを自分の中に持っておきたいということかもしれない。

共産主義=資本主義=全体主義

アメリカの教育システムに共産主義が浸透している事象をもとに、子どもたちを洗脳するのはやめてくれと教育委員会に主張する保護者の動画がある。当初、問題の本質が理解できなかったが、「共産化=全体主義」ということや、人をカテゴライズすることで対立を生み出し、多様性の掛け声のもとに人々を均一化することが要点なのかと思った。リンクの動画は100万回以上再生されている。
Mom Goes Nuclear On School Board Over Critical Race Theory - YouTube

日本語字幕を付けた人もおりその動画のリンクも貼っておく。

(日本語字幕)100万回以上再生されたアメリカの親の叫び!子供を奪うな!子供を壊すな!最後まで戦う! - YouTube

当初、資本主義国家の代表と思われるアメリカがなぜ共産主義化しているのか理解できなかった。しかし、「共産主義=資本主義」でもあることを前提に考えると納得がいく。資本主義を徹底的に推し進めるとグローバリズムまでたどり着く。世界を一つの共同体とみなして、世界の一体化を実現することがグローバリズムであるのなら、同一の価値観や基準で世界を覆うということは、共産主義と何ら変わらないことになる。中国、北朝鮮、かつてのソ連など共産主義国の価値観とグローバリズムに本質的なところで大きな違いをみいだせないことになる。

自分の身近なところでは、日本の金融自由化や保険自由化などで、金融機関の数は減らされ大手数社だけが生き残った現象がある。これから就職する学生にとっても、そこですでに働いている労働者にとっても、30年前に比べると選択肢は恐ろしく減っている。顧客側の選択肢も減っており、受けられる商品・サービスも限定的になった。支配する側としても中小の金融機関まで管理しきれないので、大手に集約すると簡便である。金融システムも、それを利用する顧客も、そこで働く労働者も容易に管理できる。

当時、そして現在も各社が世界的な競争で生き残るために合併が必要であったということであるが、本当であろうか。資本主義からグローバル資本主義、そして知らない間に共産主義、すなわち全体主義に至っているのであり、世界が進んでいる本来の方向を、私たちは勘違いして見定めていなかっただろうか。気がつかないうちに全体主義は進んでいたのである。「共産主義 vs. 資本主義」という対立の構図は、全体主義を隠すための巧妙なカモフラージュだったのかもしれない。

教育制度も全体主義の象徴かもしれない。とくに小中高教育は一方向の講義型で、教科書検定制度を通過した同じテキストで学ぶ。みんなが円になって議論することはなく、生徒側が疑いを差しはさむ余地のない授業が行われる。歴史の教科書一つとっても書かれてあることは真実であることが前提に授業は進む。そして、自分の子どもたちもそうであるが、気がついたらある意味で上手く洗脳されているのではないかと思えるほど、観念が固定されてしまっている。

「三つ子の魂百まで」と思い、子どもが小さなころはいろいろ対話をし、毎日一緒にお風呂に入り会話をしながら遊んだ。自分の中に子育てに対する後悔はなかった。しかし、学校教育がはじまると、自分の役目が終わったとでも思ったのか、教育制度に子ども委ねてしまった。そして、気がついてみると、必要以上に従順で全体に流される人間になっているのではないかというのがある。さらに、大学のような高等教育機関では、その全体主義教育からバランスを取り戻すチャンスであるはずなのに、そこで必死に学び突拍子もない研究をする日本の学生はほとんどいない。日本の教育制度に上手くやられてしまったのではないか。

もう一つ気づきである差別問題も、多様性やダイバシティという美しい響きを持たせた表現を使いながら、人々の間にしっかりと対立を誘発している。まず人々を区別するところからはじまるが、われわれは「人類」であると一括りで済むものを、アジア人、ヨーロッパ人、アメリカ人、アフリカ人などと区別する。男性、女性、LGBTなどと区別し、わざわざ統計をとって、多様性のある組織の生産性は高いなどという研究結果を発信する。自分もそのような研究成果に納得して、多様性は大切だなどと思っていたので、いえる立場ではないが、そもそも人々を区別することにいかほどの意味があるのか。「だからどうしました」で済む話であるのに。

動画に出てくる保護者の主張のとおり、子どもたちはクリスチャンだろうが、ムスリムであろうが、仏教徒であろうが関係ない。白人だろうが黒人だろうがアジア人だろうが関係ない。そのような区別はなく、仲良く遊んでいる。そこに違いをもたらし対立を誘発しているのは、実は私たちが受けてきた教育制度そのものなのではないだろうか。差別はいけない、というのも至極当然のような響きであるが、違うものは違うと受け入れることも大切であり、違うものを無理に均一化するのも共産主義に通じるものがある。

私たちは、このまま選択肢のない世界で、ある意図をもった教育制度の中で生きていくのか、それともそこから抜け出すことができるのか。私はまだ軌道修正する時間はあると思う。どのタイミングでも気がついたら行動を起こせばよく、気がついた時点が、その人にとってのタイミングである。よって、いつからでも引き返すことが誰にでもできるはずである。

縄文ルーツを持つアイヌの生き方

アイヌ縄文人の形質的な特徴をよく残し、縄文人の末裔であるともいわれている。そのため狩猟採集の暮らしをおくっていた近世のアイヌ社会は、縄文時代から大きく変わらなかったと考える説もあるそうである。

瀬川拓郎『アイヌ学入門』(講談社現代新書、2015年)においても、アイヌ文化の中に1万年以上前の縄文文化の伝統がうかがえるのは驚くべきことで、現代の民族集団で、そこまで長期の連続性がたどれる例は世界的にみてもめずらしいという。また、アイヌ語と日本語の影響関係もかなり希薄であり、日本の周縁に縄文文化の伝統を残す独自の文化が保たれてきたことは奇跡だという。

それでは、アイヌ文化とはどのようなものか、本質的な点をみると「カムイ」の存在がある。「カムイ」とは「神」と訳されることがあるが、そうではない。中川裕『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』(集英社新書、2019年)には、カムイは、犬、猫、スズメ、カラスなど全てがカムイであると説明される。それだけではなく、木も草も、その辺を飛び回っている虫もカムイになる。家も船も人間を取り巻く全てがカムイということ。当然、火や水もカムイで、カムイを「自然」といえるかもしれないが、むしろ「環境」と置き換えると考えやすいかもしれないという。

アイヌと環境はお互いなくてはならないパートナーであり、環境から与えられた恵を基にアイヌは生きていくことができ、アイヌが環境から与えられたものに手を加えて、カムイに贈り物として捧げる関係ともいえる。そして、全てのものには魂があると考えられているので、西洋哲学でいうならスピノザの汎神論に似ているのか、あるいはバラモン教ヴェーダにある梵我一如(ぼんがいちにょ)にも通じるのだろうか。宇宙を支配する原理と個人を支配する原理が同一である、というようなことになる。人間もこの世で肉体を去ると魂だけになるが、魂のみではこの世にいられないので「あの世」に行く。そのとき「あの世の入口」を通って向こう側の世界に行くことになる。

このように考えると、アイヌが土地を所有しないということも納得できる。土地はカムイの借り物なのだろう。人口減少社会の影響だと思うが、私の住んでいる住宅街の一軒家でも、住人が亡くなり、子どももその家に住まなかったために、解体されていく家をよくみかけるようになった。そのとき、人間が生きている間の所有権といものにいかほどの意味があるのかと思うことがある。本質的に大地は借り物と考えると、家や土地を所有するという発想が崩れ去ってしまう。

そして、もっと根本的な問題提起は、人間はどこまで富を集めれば幸せを感じられるのか、あるいは、人が人を支配する場合、どこまで支配すると自分の欲求は満たされるのかということになる。縄文人の末裔といわれるアイヌ文化をベースに考えると、そんなところに幸せは存在しないということかもしれないが、現代社会に生きるわれわれは、富と支配する快感に大きな力を与えているように思われる。

最近知った理学博士の保江邦夫氏の『願いをかなえる「縄文ゲート」の開き方』(ビオ・マガジン、2019年)には、縄文人は宇宙とつながる霊体として存在し、あの世とこの世を壁を越えて自由に行き来していたとある。しかし、徐々に肉体化して、あの世とつながるための縄文ゲートが閉じてしまい、物やお金さえあれば幸せだなどと思い込むようになったという。何とも飛んでいる説ではあるが、保江氏は量子力学の専門家なので、霊体や肉体、あの世とこの世を物理学の理論で説明できる科学者なのかもしれない。

私自身もアイヌ人や縄文人のように宇宙とつながる生き方というものを探求する意味はあると思うようになった。もちろん、日々目の前の世俗的な仕事や作業というものも大切であるし、夢中になれるものをみつけて取り組むことも重要である。あの世とこの世のバランスをとりながら充実した生き方というのを思い出したいところである。

争うことのない縄文人の生き方

縄文時代のことを知ろうと思い、子どもに日本史の教科書をみせてもらったものの、重要な記述はみられなかった。学校の教科書というのはこういうものかと思った。しかし、以前購入していた河合敦『スーパービジュアル版 早わかり日本史』(日本実業出版、2005年)を確認すると興味深いことが書かれていた。

まず、縄文時代を1万年以上続いた平和な時代と整理する。そして、日本人はその昔、少人数で洞窟や穴蔵を転々としながら狩猟中心の生活をして過ごしていたとのこと。非常い重要な点は、この時代に人間同士が互いに武器をとって殺し合う戦争はなく、まことにのどかで平和な時代であったことである。実際に当時の人骨に争って殺された形跡はみられないというのを何かで読んだことがある。

しかしその後、この安定した生活を破壊したものは、なんと縄文晩期に導入された稲作技術であった。良い田を持つ者と持たざる者、高い稲作技術を有する者とそうでない者との間に貧富の差が生まれ、他人の収穫物や土地、富や労働力を奪う人間が現れた。こうして戦争がはじまり、弱肉強食の弥生時代がはじまったということである。日本人はお米だ、という思いがあるが、稲作が争いの原因になったというのは意外であった。稲作以前は、サケ、マス、クルミ、ドングリ、山菜などを食していたようである。地球の恵を素直に受けとり生活していたということだろう。

そして、縄文人には所有という概念もないので、土地も所有しなかった。土地は神から借りている、あるいは地球から借りているということであろう。この所有権という概念もやっかいで、争いのもとになる。

冷静に考えると、今は縄文時代ではなく、弥生時代の性質を色濃く残す時代である。競争は人間を進化させて、経済を成長させる。成長を続けるためにも、自分が生き残るためにも競争しなければならないという強い刷り込みがある。しかし、すでに時代は変わったのではないだろうか。確信もないし科学的な根拠もないが、いくつか考えるところがある。

たとえば、地球は歳差運動をしているという。地軸は公転面に垂直な方向に対して半径約23.4度の円を描くように移動し、約2万6,000年の周期で一回りしている。そして、千賀一生『ガイアの法則Ⅱ』(ヒカルランド、2020年)によると、この約2万6,000年を半分の約1万3,000年ずつ二つの時期に分けることができる。一つは分離性優位、二元性、父なる周期の時代と、もう一つは統合性優位、一元性、母なる周期の時代があるという。そして、1995年以降は母なる周期に入っているということである。他の説では、2021年12月21日頃から新しい周期に入ったというのも聞くところであろう。いずれしても、すでに新しい周期に入っている。

偶然にも縄文時代のスタートは、1万3,000年前であるが、それ以降、分離性優位の時代に徐々に入っていったのかもしれない。考えようによっては、縄文時代以前の旧石器時代は、何か宇宙とつながるような生き方もあったのではないか。その名残が、不思議な縄文土偶に現れていると想像するとロマンをかきたてるものがある。

たしかに、今は世界の変革期であるのは間違いなさそうであるが、次の時代をどう生きるのかというのは、それぞれしっかりと考えて、自分で決めていく必要がありそうである。縄文時代に戻ることを退化と考えるか、むしろ人類としての進化と考えるかは人によって異なるかもしれない。しかし、私は統合性優位、一元性、母なる周期を意識して生きていきたいと思った。

対立を誘発する洗脳から距離をおく

パンデミックのおかげで、光と影の世界がありそうだ、どうも国家をしのぐ力を持つ存在がありそうだ、自分たちの見せられている情報は中立ではなさそうだ、ということを感じはじめている人が増えているのではないだろうか。世の中の構造が何となくみえてきたが、確たる証拠はないという人々。これからさらに増えると思う。

ここで注目したいのは、私も含めてこのような世界のあり様や社会の仕組みに気がついた人々も、二極性の価値判断に陥りやすいことである。光と影、善と悪、右と左など、どうしても二つの極に整理したくなる。たしかに二つの社会や勢力、組織、人々と分けるのは便利かもしれないが、現実の世界はもう少し多様なのではないか。

この世界のあり様の本質に気がついた人にも意識や認識に違いがある。そして、マスメディアや情報提供のプラットフォーマーも圧倒的な情報量で、その人たちを混乱させる。真実と思われる情報にも受信者を攪乱する要素が入っている。ただ、残念ながら裏付けをとろうとしてもとれない。証拠はつかめないのである。

私が不思議に思うのは、このような情報を作り上げるには、相当な資金力が必要ではないかということ。大手マスメディアが情報操作ができるということは当然である一方で、一個人と思われる人がそのような情報を流すことがなぜ可能なのだろうか。意図的に人々を思考停止させる、あるいは混乱させる情報を作っている人たちがいることが奇異に思われる。金儲けがっ目的か、二重スパイ行為なのかわからないが、本質的なことを無力化するカウンター・インテリジェンスのような活動をしている人たちがいることが不思議に思える。

このような洗脳(brainwashing) によってもたらさるものは、二極性による対立である。社会に相反する情報の流して対立をもたらす。今であればワクチン推進派とワクチン否定派の対立である。どちらも基になった情報が単に対立の構図を作り出すことが目的で、本質的な論点を隠すためのものであったらどうであろうか。私たちは大切なことえを見逃すことになる。

戦争もそうである。苫米地英人戦争論』(フォレスト出版、2015年)でも、ヘイトスピーチを行う集団がなぜ潤沢な資金を持ち、NHKなどが中国の脅威をあおるのは、戦争への誘いでもあるという。もっと大きな絵を基に戦争を眺めると、戦争から莫大な利益を獲得できる「国際金融資本」が存在しているので、洗脳された人々が対立の構図を作り出してしまい、戦争に突き進むことになるという。

また環境問題でも、高島康司『グレート・リセット前夜』(徳間書店、2021年)によると、スウェーデンの環境運動家のグレタ・トゥーンベリの突然の出現も、背後にダボス会議の勢力が支援して、計画的に一人の少女が世界的に注目されるシナリオが存在していいるのではないかという。一例でしかないが、そういう視点で考えると、今流行りのSDG'sなども金儲けの道具でしかない可能性もある。

私には、パンデミックの次が戦争か自然災害なのかわからない。あるいは、それらは、もう始まっているのかもしれないが、そのような社会的な混乱から利益を獲得できる勢力がいることは想定できる。でも庶民としては、その混乱から得るものは多くはない。むしろ失うもののほうが多い。一市民としてできることは限られているものの、もうこれ以上、パンデミックにも戦争にも環境問題にも「いち抜けた!」といいたい。対立をあおることには「もう結構です」とはっきりいいたい。

ただ、最後に二極性から学べることもあることを付言しておきたい。影があるから光の存在も感じとれるということ。悪があるから善の存在にも気がつくということ。そういう視点に立つとあらゆることに感謝できることになる。また、自分自身の中にも両方の性質が備わっているということ。よって、前向きな思いで心を満たし、自分の光の部分にフォーカスすることを大切にしたいと思う。

アメリカ大統領も近づけない極秘情報

ティーブン・グリア博士というアメリカの元医師でUFO研究家がいる。日本語訳の書籍としてはスティーブン・グリア『ディスクロージャー』(ナチュラルスピリット、2017年)が有名で、軍や政府関係者、民間パイロット経験者などの膨大な証言をまとめて、UFOの真相に迫っている。とにかく証言のボリュームが多すぎて読み切るには、相当のモチベーションと忍耐が必要である。

グリア博士の活動はディスクロージャー・プロジェクトと呼ばれ、UFO関連の情報の開示を促すものである。開示を促すということは、開示されていない情報が膨大にあるということであり、数々のUFO目撃情報を含めて、それらの情報は機密事項にされている。UFOを目撃した人たちは、見えない闇の組織から圧力がかかり、その事実を口外できないし、軍の関係者であれば、機密保持の誓約をさせられる。とにかく何もなかった、何も見なかったことにされる。そうでないと命の危険もあるという。

このディスクロージャー・プロジェクトは、単に興味本位のUFO目撃情報収集や地球外生命体の存在証明を探すことを目的としているわけではない。そこで勘違いしてしまうと、事の本質を見失ってしまう。それでは、このプロジェクトの真の目的は何か。それは、UFOや地球外生命体の存在を必死になって隠そうとしている闇の組織の活動にヒントがある。実は、その情報が公開されることで、人類が抱えているあらゆる環境、貧困、紛争、医療、食料などの問題を10年から20年で一挙に解決することができることを示すことが目的になる。一方で、その事実を隠そうという動きもあるわけである。つまり、それにより不利益を被る人たちも存在することになる。

すなわち、それらの情報が公開されることで、高度なテクノロジー、たとえば、新しいエネルギーシステム等のため、化石燃料は不要になり、人類が直面しているあらゆる環境問題からも解放される。化石燃料の争奪がもたらす地政学的な緊張も終わる。あらゆる輸送システムは汚染もなく、無音かつ効率的になる。無限のエネルギーが公開されれば、欠乏も貧困も環境破壊もない新しい文明が人類にもたらされるという。問題なのは、これらの高度なテクノロジーに関する情報が公になることで困る人々あるいは産業があり、その存在が隠ぺいされ続けているということ。既得権益を握っている軍事産業、石油産業、そこに投資している金融業界も含めて、ある一握りのグループによって、その事実が隠されてきた。

このグループは何なのだろうか。もちろん公的な組織ではない。公の組織図には載っていない非公式の組織で、長い間着実に活動を続けている。その正確な組織名はわからない。しかし、人によっては、そのような組織が存在していることがわかっているし、隠ぺい工作も続いている事実もあるという。

とくにアイゼンハワー大統領の時代から、大統領さえもアクセスできなかった極秘情報があり、アイゼンハワーによって軍産複合体に対する警告を含んだ発言もなされていた。その後、ケネディ大統領、カーター大統領、クリントン大統領が、その極秘情報に立入ろうとするができなかったという。アメリカ大統領もアクセスできない極秘情報が存在しているということになる。

軍事産業一つとっても、第二次世界大戦後にソ連が脅威とされ、何の前触れもなく突然、サダム・フセインカダフィ大佐ビンラディン等のテロリストが登場し、北朝鮮等の危険な敵国が想定される。そして、最後は危険な地球外生命体で、それに対抗するためにも宇宙兵器が必要になるというシナリオが作られるが、それらは嘘であるとのこと。地球外生命体は友好的であり、人類にとって危険な存在ではないという。

グリア博士の活動がわかる最近の映画は、英語になるがリンクの "The Cosmic Hoax: An Exposé"(2021/07/05)がある。

The Cosmic Hoax: An Exposé - YouTube

日本語字幕のある短い動画ではリンクの「映画「非認可の世界」予告編:スティーブン・グリア博士(US版)」(2018/06/01)があり、同じタイトルの書籍『非認可の世界』(VOICE、2021年)も出版されたばかりである。
映画「非認可の世界」予告編:スティーブン・グリア博士(US版) - YouTube

ティーブン・グリア『ディスクロージャー』(ナチュラルスピリット、2017年)の翻訳者である廣瀬保雄氏のウェブサイトには日本語による翻訳情報がある。あまりにも膨大な量なので、気になったときに興味のあるものを参照するしかないが、廣瀬氏の気力には驚く。

ディスクロージャー・プロジェクト摘要書全訳 (peopleknow.org)

これらの情報に接することで感じることは、今のコロナ騒動に通じるものがあるのではないかということ。問題の本質は同根で、本当の情報が隠され続けることで、ある人たちを利することになるのではないか。何が真実か理解するために、世の中の現象を政治、経済、医療、思想、科学技術など多面的に考察していくことの大切さを感じる。