職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

「恐怖」や「不安」を手放す大切さ

輪廻転生や生まれ変わりの科学を信じている人にとっては、このテーマを克服できたら、もうこの世に生まれ変わる必要がないというほどの重要なテーマかもしれない。それは「恐怖」や「不安」から自由になるということ。

自分の目の前で起きる現象に対して「怒り」を感じることはある。しかし、その現象の本質を理解したとき「怒り」が「許し」に変わることもある。怒りの対象あるいは対象となる人にもどうすることもできない力が働いていることもあるからであろう。仕方ないという感覚に至るケース。結局、100人いれば100通りの真実があるので、その考えにも行動にも良し悪しがなく、正解もないので仕方がないと思える段階がある。

一方で「怒り」が「許し」に変わっても、どうしても残るのが「恐怖」と「不安」ではないだろうか。これはなかなか振り切れない。振り切ろうとして成功したかと思うと、また自分の思考に戻ってくる。逃げれば逃げるほど追いかけてくるものである。よってここは、振り切ることも、逃げることもせず、幻想であると思えるまでみつめることも必要なのかもしれない。

それにしても、実際には存在していないのに、あたかも自分の目の前に存在しているように思い、自分の思考や行動を抑制してしまうこの「恐怖」と「不安」はやっかいだ。ここから逃れるために、焦って自分の外に答えを求めて情報を集めれば集めるほど、まだ存在していない恐れが大きくなる。だから、情報収集をやめるということも必要なのかもしれない。

そして、外から情報をとることやめたあと、何をすべきか。まず自分の内面に深く入っていくことが推奨される。深く深く入り、もう行き止まりというところまで進んでみる。瞑想の時間を増やす、あるいは、トイレ掃除や風呂掃除も含めて部屋の掃除をするのも効果的かもしれない。あとは緑の中を散歩する。焦るときこそ実践してみると意外に効果がある。

また、共時性シンクロニシティ)も大切にしたい。自分の内面をみつめていると、共時性は起きやすくなる。私にはひらめきの体験とか、直感とか、インスピレーションという体験にあまり縁がない。それでも、無意識のレベルで何かメッセージを受け取っていることはあると思う。日々の意思決定や行動が顕在意識だけで決められているとは思えない。何か潜在意識の積み重ねで判断したり、行動をしたりしていることもあるであろう。

残念ながら世の中には「恐怖」や「不安」をビジネスとしている、あるいは、他人の恐れをエネルギーとしている生きている人たちもいるようである。しかし「恐怖」や「不安」を感じなくなった人たちは無敵である。自分は「自由」であることを自覚できるので、どんな行動も躊躇なくできるようになる。正直、自分が実践できているとは言い難いが、徐々に自分の内面をみつめることに重きを置いて「自由」を手に入れたいと思う。もし、人々から「恐怖」や「不安」を少しでも取り除くコンサルティングがあるのであれば、これからの時代に上手くいくビジネスの一つになるのではないだろうか。

全体主義からバランスを取り戻す

パンデミックの対応について、国によってかなり異なる状況がある。なぜこのような現象が生じるのであろうか。国よって歴史、法律、政治、文化などが異なるのはわかるが、これだけ濃淡が生じることにどのような意味があるのだろう。

すでにパンデミック前の状況に戻りつつあるスウェーデンという国もあれば、全ての労働者にワクチン接種義務化をするイタリアという国もある。一方、わが国は、その中間に位置する国であろうか。国によって果たす役割が違うのか、世界に影響を与える方法が違うのか、それぞれの国が役割を演じているような感じである。

とくにイタリアの政治的決定はどうして可能なのだろう。イタリアの憲法はどうなったのか。反ファシズム的な内容と聞いたことがあるが、これでは、イタリアの政治自体がファシズム以外の何ものでもないように思える。

世界の国々はそれぞれ影響し合っているのは事実であるが、イタリアの現状をみて、他国の人々が学びを得るということはあるのかもしれない。この状況から他国の人が学ぶ、いやそうではなく、イタリア自身が学ぶのかもしれない。同じ人類としてイタリアの人々に同情するしかなく、自分がしてあげられることは何もない。かつてのローマ帝国の繁栄は遥か昔の出来事であり、イタリアあるいはヨーロッパ地域の文明が衰退していくのは避けられないのかもしれない。ガイアの法則が思い出される。

ここで自分が反省しなければならないのは、今回のイタリアに限らず、世界には全体主義的な国家が存在し、市民の人権が蹂躙されている国は多くあるが、自分自身がそれらに無関心であったということ。そして、自分のこととして痛みを感じていなかったこと、そこから学べることがあったにもかかわらず、その事実にさえ気がつかなったことである。

また、イタリアにおける人権侵害のようにみえる政治的決定にEUは何もしない。世界の警察であるはずのアメリカも干渉することもない。自分たちも同じ方向に向かっているので当然である。結局、利害関係がないことには干渉しないが、自らの利害があるところには、危険を顧みず喜び勇んで参上することになる。損益で行動を起こすときには「正義」という言葉は非常に便利なのかもしれない。

しかし、今は少し理解できるようになった。世界が同じ方向に向かいつつあるようにみえ、そこから多くの学びがあるということを。人類は全体主義共産主義ファシズムという言葉を生み出してネガティブな印象を作っておきながら、実はそちらに向かっている可能性があること。そして、今起きている現象に多くの人が気がつきだしていること。しかも、直感で。学校で学ぶようなレベルでもなく、書籍で得られるような知識でもなく、何か感じるものがあるのだと思う。

このように、世界の人々が社会の構造や流れについて、直感で感じることができたとき、今度は「自由」を求める流れができるのだと思う。ある程度の分離や分断は想定されるが、着実に「自由」という価値観に重きが置かれる世界が、今の二極性から生まれてくるのではないか。リンクを貼ったジョージ・オーウェル1984年』の解説の最後に、私たちの一人ひとりの運命はバランスにかかっています、とある。

Is 1984 Becoming a Reality? - George Orwell's Warning to the World - YouTube

まさに、バランスを取り戻すタイミングが始まっているのではないかと感じる。すでに10年くらい前から始まっていたのか、自分が気がつかなかっただけなのかもしれない。

カナダ人倫理学教授の最後の授業

ウェスタン・オンタリオ大学の倫理学の教授が2021年9月7日に解雇された。理由はコロナワクチンの予防接種をしなかったからということ。そして、リンクの動画のとおり最後の授業として彼女は問題提起をする。雇用主は従業員に対して、医療行為を強要できるのか、そして、20年間評価してきた従業員をその一点で解雇できるのか、選択肢のない状況が正しいのか誤っているのかと。

Dr. Julie Ponesse, professor of Ethics at the University of Western Ontario, (odysee.com)

ここで、彼女の主張が正しいあるいは誤っている、善であるあるいは悪である、というような価値判断は一切放棄する。どれが真実であるのかわからないので、まずは留保する。

今ここで自問したいことは、私は選択肢があり自己決定権のある世界を選びたいのか、選択肢がなく自己決定権のない世界を選びたいのか、ということである。もちろん、私も含めて多くの人は選択肢があり、自己決定権が尊重される世界を選ぶと思うがどうであろうか。それは当然のように日本国憲法で保障されてきた権利であったと考える。

一方で、コロナウイルスは殺人的な感染症で、そのような自己決定権が許されないほど、公衆衛生の観点で脅威であるという見解が正当化されるのであれば、自己決定権のない世界もあり得るのかもしれない。

しかし、コロナウイルスが人類を絶滅させるほどの激烈な感染症であるということが証明されたであろうか。いろいろな学術論文や研究成果を参照するかぎり「わからない」というのが、今のポジションのように思われる。政府や一部の専門家、マスメディアのいうことだけ聞いていれば、そのようなポジションは誤りであると断定する人もいるかもしれない。そう考えるのであれば、それも正しいのであろう。しかし、反対意見をいう人たちが見ている世界が、まったく異なるかもしれない。その点は考慮しなくていいのだろうか。この点、今まで国民的な議論や対話はほとんどなされていない。

カナダのトロントに10か月ほど住んだことがある。当時、カナダは人種差別や性差別のない素晴らしい国であるとの印象を持っていた。アメリカに比べれば、はるかに寛容であるし、オーストラリアと比較しても、差別は非常に少ない。移民として住みたい国のナンバー1であり続けていた。それが簡単に変わってしまった。過去に積み上げてきたものは、リセットされたように。

フランスも同じで、フランス革命以来尊重されてきた「自由、平等、友愛(Liberté, Égalité, Fraternité)」は一瞬で消え去った。衛生パスが導入され、連日デモが発生し、暴力的なデモに発展する場合もある。警察は崔流ガスを使い暴力的に市民を追い散らす。どれもこれも幻想だったかのように自由は消えた。

これらの国に比較すると、日本は緩やかな規制の中にある。これからカナダやフランスのように規制が強化されていくのであろうか。ある意味、これがレッスンだとするなら、すでにカナダやフランスの人々は、かなり難度の高いレッスンを受講していることになる。意識の向上、魂の成長、目覚めや気づきなど、読み手によってどの表現が適合するのかわからないが、人々の内面の成長に大きな影響があったであろうことが推察される。

それでは、日本は相対的に緩いまま進むのであろうか。たとえ穏やかな規制であっても日本に住む人々の内面の成長は促されるのか。国ごとに難度が異なるレッスンに、どのような意味があるのかわからないし、単なるタイムラグの問題なのか。まるでカリキュラムが違うかのようだ。

もしかしたら、善悪や正しい誤り、あるいは真実と嘘、というような価値判断は不毛なのかもしれない。100人いれば、その数だけ真実があるのかもしれない。今まで平行線をたどっている議論をみるとそのような予感もする。コロナとの戦いはあと2-3年かかるという声も、予防接種3回目のブースター接種といのも聴こえてくるが、100通りの真実があるのかもしれない。それが正しいと思う人と、もういい加減にしてくれと思う人、その中間の人など。あるいは「ああ、そうですか、、、」と単に漏らす人。

これからますます自分が望む世界を選ぶ機会が増えるのだろうか。どのような社会が好きか嫌いか、あるいは、心地よいか心地悪いか、というような感情で、自己決定していくのかもしれない。一人ひとりの選択が世界を創造するのだろう。その選択はいつでも「選び直す」ことも可能だと思う。分断や分裂を望みたいのか、統合や調和を望みたいのか、少なくとも私は統合や調和を望んで選択すると思う。その具体的な選択がそれぞれの場面でどのようなことなのか、どのような効果をもたらすかはまったく想像できないが。

 

自分の外側に答えを求める時間を減らす

少し自分の中で変化が起きている気がする。自分の外側の現象に振り回されるだけの人間になりたいのか、それとも自分の内面に奥深く入っていき本当の自分とつながる人間になりたいのか。この問いに対して、少しずつ自分の内面にある感情、直感、意識などに重きを置き、本当の自分につながろうという気持ちが芽生えている。

片岡ジョージ『コロナは概念』(ヒカルランド、2021年)という漫画を読み終えた。そして、後半にある用語解説やコラムを読んで、単なる漫画ではなく、非常に深淵な哲学書であることを理解した。自分の内面に入っていくには一つのきっかけを作ってくれる書籍かもしれない。

片岡氏がいう。もし世界の平和を願うのならば、それよりも先に自身の心の平安が必要だとのこと。マスクや自粛の強要、ワクチン、監視社会などに対する怒りや、未来への不安、恐怖も全て自分の反応で拒否しようがなく、そこにあるから味わうほかないと。

そして、世界を変えるんだと力まなくても、自分が等身大で心地よくそこに存在していることが世界平和そのものではないだろうかという。手の届かないことや、どうしようもないことはあきらめて、できることをやったらいい。どんなに悪人とされる人も、この社会の中で影響し合って育ち、そのような人間が育つ土壌が社会にもあったのだと。

そのとおりだと思った。人類が長い歴史の中で培ってきたものが、今の現象として現れているだけなので、今の人類だけが、この社会を作っているわけではない。

自分自身が今の社会現象について、ある可能性に気づきが生じたのは2021年7月。フランスが衛生パスを導入したときである。それが自分にとってブチ切れたポイントであった。一方、漫画の校正や出版スケジュールから推察するに、片岡氏は、1年以上前からそのポイントを通過済みだったように思う。しっかりとネガティブを味わい、それでいてポジティブなポジションに踏みとどまり、風刺的でユニークな漫画を描き上げた。非常に良い作品だと思う。ご本人の中の葛藤はいかほどのものか想像はできないが、比較的楽しめる動画のリンクを貼っておく。

公演会・セミナー動画 (nomaskshop.com)

いかに冷静に泰然として生きていくのか、とても重要な時期なのかもしれない。自分の外側で起きる事象に対して影響されず、前向きに淡々と生活していくことがカギなのか。もしこれがゲームだとするなら、かなり自分の魂や波動、周波数を上げるには利用価値のあるゲームともいいうる。無理をせずに少しずつでもいいので、自分の外側に答えをみつけようと努力する時間は減らしたほうが良いのかもしれない。

最後に、興味深いたとえ話に接したので紹介する。飛行機に乗っていると目の前に酸素マスクが落ちてきた。酸素が薄くなり、あなたは他の人たちにマスクをつけてあげようと走り回るが、自分が失神してしまう。最初に自分のことを助けなかったので、他人を助けられなかった。だから、最初に自分が酸素マスクをつけるべきだった。これは利己主義ではなく論理的な行動である。自分を助ければ、他人を助けるエネルギーも出てくるのだから。

一人ひとりは誠実に行動している

第4回医薬品行政評価・監視委員会における、佐藤嗣道准教授よるリンクの事前質問を読んだ。

000798077.pdf (mhlw.go.jp)

2021年6月13日までに報告されている277件のワクチン接種後の死亡例を接種人数の1,714万人で割った頻度は、16.2件/100万人であり、1億人が接種すれば1,620人が死亡することになる。この死亡リスクは、ベネフィットに照らして許容できるのかと問いただしている。また、死亡リスクが低い小児や若年者では、相当な低リスクでなければ許容し得ないはずであるが、どの程度であれば許容できるかなど確認している。

これに関する質疑のリンクの動画を視聴したが、厚生労働省の職員の回答は、論理的ではなく、文字に起こすとほとんど佐藤氏の質問の答えになっていないことがわかる。そもそも日本語として意味が通らない、あるいは非常にわかりにくい答弁になっている。それに対して、佐藤氏も「それでは答えになっていません。端的にお答えください!」と詰め寄る。

第4回医薬品等行政評価・監視委員会より佐藤嗣道委員の質問① - YouTube

この委員会のやり取りを聴いて思ったことは、厚生労働省の職員も答えを持っていないのではないかということ。ワクチン政策に関して効果の検証方法、リスクとベネフィットを比較しての判断基準、被害が拡大した場合の撤退基準などが議論されていない、あるいは検討されていないのではないだろうか。そうでなければ、このような回答が出てくるとは思えない。しかも佐藤氏が提出した資料は事前質問なので、質疑応答の前に読んでいるはずである。それでもこの回答なわけで、本質的な議論や論点整理がなされていないように思われた。

おそらく、厚生労働省の職員一人ひとりも、自分の持ち場のことについては真剣に取り組み、精一杯仕事をしているはず。よって、動画のような乱れた回答をしている状況をみても非難する気にはなれない。あるいは、製薬会社の研究者一人ひとりも、自分の知見や専門性を使って真剣に仕事をしているはずであり、何とか感染症を克服しようとしているのであろう。よって、一人ひとりの研究者を非難する気にもなれない。結局、一人ひとりは誠実に課題に対して取り組み全力で業務遂行しているのだと思う。

問題は、その小さな努力が全て積みあがった結果に、どこか不可解な点があるということ、不透明な点が残っているのではないかということ、どこか合理性に欠けているのではないかということである。それにもかかわらず、全くブレーキがかからない、あるいは方針の変更や修正すらなされない状況がとても不思議である。

リンクの副反応データベースは、厚生労働省のウェブサイトから副反応のデータを取り込んで、個人が作成したもの。フィルターをかけるといろいろな切り口でデータを整理できるが、現時点で10代で重い副反応が22件出ている。

コロナワクチン 副反応データベース検索(ファイザー) (covid-vaccine.jp)

一人ひとりの症状をみると痛々しい限りであるが、このような結果が出ていれば、すぐにでも対策を講じるものではないだろうか。おそらく、一人ひとりがそう思っても、組織の中で動かしようがない力が働いているのだろうと推察する。そもそも、一個人がこのようなデータベースを作成しなければならない状況も変である。政府が作成して、国民に開示すべきことのように思われる。

9月3日の読売新聞朝刊に問題提起の意見広告が掲載された。読売新聞という巨大な組織の中で、どのようなやり取りがあったのか想像できないが、とにかくいろいろな方向のベクトルがぶつかり合った結果、このような広告掲載に至っているわけで、少なからず人々の考えに影響を与えていることであろう。

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大切な決断を他者に移譲していいのか

日本における新型コロナワクチンの接種者もかなり増えてきている。どこまでが自分の判断によるものか、どこまでが周りの雰囲気に影響されたものか、どこまでがウイルスに対する恐怖心によるものか、各人の判断の拠り所となったものは本人でなければわからない。あるいは同調圧力ということで、本人の望みではなかった場合もあるのかもしれない。

しかし、本当に自分の頭で考えて、自分で調べて意思決定している人がどれほどいるのだろうか。國部克彦「新型コロナウイルスをめぐる責任と判断-ワクチンの倫理をめぐって」神戸大学大学院経営学研究科(2021年)では、次のとおり問題提起する。

新型コロナウイルスをめぐる責任と判断―ワクチンの倫理をめぐって | 神戸大学大学院経営学研究科 (kobe-u.ac.jp)

未知のウイルスに対するワクチン接種の状況から、本来であれば全ての人が自己の責任を自覚してして、真剣に議論しなければならないのに、多くの人が思考停止して判断を他者に移譲してしまっている。しかもその判断を移譲された他者が正しいかどうかの根拠も十分確かめている形跡がない。

ワクチンのメリットとリスクに関する国民的議論は、ほとんどなされることのないまま、ワクチン接種が当然のように進められ、政府が予定通りワクチンを供給できない状況も生じている。多数派はワクチン接種が当然のこととし、少数派がそれに異議を唱える構図はあるものの、ほとんど建設的な議論はなされていない。マスメディアには多数派の意見しか出てこないし、SNSにおいても少数派の意見や動画は削除されており、およそ議論というものは成り立っていない。

そして、國部氏は、人類にとっての未知の脅威に対するこのような一方的な対処法や、それを無批判に受け入れて判断を移譲してしまう人間の行動に倫理的な問題はないのかと問う。そして、一例としてワクチン接種担当大臣のワクチンデマについて、なぜデマと断言できるのか疑問を呈する。ワクチンデマとして掲げたのは次の7項目。

①ワクチン接種された実験用のネズミが2年で死んだ

②ワクチン接種により不妊が起きる

③卵巣にコロナワクチンの成分が大量に蓄積する

④ワクチン接種で遺伝子が組み換えられる

⑤治験が終わっていないので安全性が確認されていない

⑥長期的な安全性がわからない

⑦ADE(抗体依存性増強現象)が起きる

そして、これまでデータが示すのは、短期的な安全性のみで、少なくとも③と④には、それを証明する科学的証拠はないかもしれないが、それを否定する証拠もない。⑤と⑥に至ってはデマではなく、完全な事実であるとする。

まさしくそのとおりであり、このことに対して真剣な議論が起きないこと自体、思考停止状態ということであろう。少なくとも素人の私でさえも、ウイルスや免疫を長年研究してきた大橋眞氏の『新型コロナワクチンの闇』(知玄舎、2021年)を読む限り、卵巣にワクチンの成分が蓄積する可能性があることぐらいわかる。大事な点は、薬は病人が飲むもので副作用があることを承知しているが、ワクチンは健常者が打つわけで、薬のように副作用があってもよいという単純なものではない。わずかでもリスクがあるのであれば、警戒するのが当然のスタンスのはずである。しかし、多くの人はそうではない。それどころか、ワクチン接種者同士の副反応自慢まで出てきている状態は、何か悪い夢でもみているようである。

私が懸念することは、重要な判断を他者に委ねてしまっている人がいかに多いか、ということ。なぜ自分で考えて調べないのか。何となくリスクがあるかもしれないが、社会の流れに乗らないといけないと思うのだろうか。その気持ちはわからないでもない。社会全体がある一つの方向に向かっているのに、自分だけ逆走することに対する不自然さや違和感は誰でも持つ。しかし、ワクチンの安全性は命にかかわることのはずである。それなのに社会の全体感を感じとって、決断してもよいものだろうか。いつまで眠り続けるのかと問いたくなる。しかも、12歳の子どもまでがワクチン接種できる現状で。

今後、ワクチンによる被害がどのように拡大するのかわからない。ただ、すでに現れている事象をみるだけでも、それなりの被害がでている。製薬会社が製造物責任は免責されているが、そのこと一つとっても不可思議である。レストランの店主は食中毒を出さないように、細心の注意を払って料理をする。それは何かあれば製造物責任を問われるからである。製造物責任法が、事業者に注意深くなるようインセンティブを与えているわけである。

ところが、今の製薬会社には、安全なワクチンを開発しようというインセンティブすらない。そのような状況で開発されたワクチンをなぜ安全と信じることができるだろうか。あらゆる論理が破綻しているのに、誰も疑問に感じないこの状況には、大きな何かが横たわっているとしか思えない。短期間でできることではない。長年かけて築いてきた洗脳であったり教育かもしれない。ここまで多くの人を眠ったままにすることができるものは何なのか。

仮にワクチンによる被害が隠し切れないほど拡大したとすると、被害者たちはどのような行動を起こすだろうか。政府に責任追及する、政府に補償請求する、ワクチン接種担当大臣に責任を押し付ける、ワクチンを推奨していた専門家の責任追及をするなどかもしれない。ただ、製造物責任を免除されている製薬会社の責任追及および損害賠償請求はできないことを忘れないでおくべきである。そして、最も忘れてはいけないことは、人生の重要な判断を他者に移譲したということである。大切な意思決定を他者に委ねておきながら、仮にワクチン接種担当大臣を責めたとしても、そこに倫理的な問題があるのではないかということかもしれない。

暗い話になってしまったが、ワクチンのデトックス法はあるはずだし、私の懸念も杞憂かもしれないので、引き続き明るい未来を描き続けたいと思う。

先端的科学にも限界があるはずなのに

自然科学、社会科学、人文科学、どれでも科学と呼ばれるものには常に限界があるはず。しかし、今のパンデミックの状況で、あまりに科学を過信しすぎている専門家がいるように思える。少なくとも断定できる結論など存在しないのになぜであろう。「絶対」という言葉が使える場面は「人は絶対に死ぬ」というときくらいではないか。

自分の専門は「先端的D&O保険」。ここで難しい理論を説明することはできないが、要約すると、会社が保険契約者となって、会社役員を被保険者として、損害賠償請求や規制当局の調査等から役員を守る保険になる。日本では「会社役員賠償責任保険」といっており、英語では、"Directors' and Officers' Liability Insurance"なので「D&O保険」となる。事案によっては、会社と役員の間に利益相反が生じることもある保険である。

典型的な利益相反事例は、役員が不祥事を起こした場合に、会社が役員を訴えざるを得ないことがある。この場合、会社が当該役員に対して、損害賠償請求をすると、その役員の弁護士費用等がD&O保険で補償されてしまう。そうなると、役員が不祥事を起こしているにもかかわらず、会社が当該役員を訴えることを躊躇せざるを得ないことも生じる。

なぜ、このような理不尽な保険約款が世の中に存在するのだろうと思う人もいるかもしれない。しかし、現実社会で起きることは複雑で微妙なことが山ほどある。たとえば、不祥事を起こした役員がいたとしても、それが立証されていないことがある。不祥事があったかどうか不明な段階では、その役員が自分を防御するための弁護士費用等をD&O保険で補償されることに合理性があるわけである。この場合のD&O保険は、役員が自分は無実であることを立証するための、正当な防御活動への財政的な支援になる。ただし、裁判における確定判決で有罪等が確定した場合には、支払われた保険金は保険会社に払い戻すことになる。

このような保険は、訴訟社会のアメリカで生まれている。数えきれないほどの訴訟事案を経験して、徹底的に揉まれた先端的な保険約款といえる。しかし、私自身が論文を書いたり、専門書を出版したり、学会で賞をいただいたりしても、自分にいえることは「正しい答えはない」としかいいようがない。あるいは、企業によって答えは違うということかもしれない。

保険約款作成時に現実社会のあらゆる事象を想定することは不可能であるし、実際に生じた複雑系の事象を、完璧に規整する保険約款等はそんなに考えつくものではない。結局、実際に保険事故が生じてみて、はじめてこんな機能があるのかと気がつくこともある。加入している保険契約者も、保険を提供している当の保険会社でさえ、保険がこんな機能をしてしまうの! と驚くことがあるわけである。

よって、先端的といって、その分野を探求しても、ただ自分の目の前に未知の世界が広がるだけになる。保険約款なので契約法の一種であり、学問的カテゴリーとしては、保険法であり法学であり、社会科学である。このように科学というものは限界があるのだと思う。これは、自然科学も人文科学も同じであろう。

今、コロナの問題で様々な対立軸ができ、議論が展開され、誹謗中傷に発展するケースまでみられる。もちろん、科学の発展には健全な議論は欠かせない。ただ、人の命にかかわるテーマで、しかも未知の世界、人類初のテーマにおいて、あまりにも安易に結論づけてしまう研究者がいることが不思議でならない。自らが生きている80年程度で何がわかるというのだろう。

私たちができることは、せいぜい自分でできることを学び探求し、次の世代にバトンタッチすることくらいではないかと思う。自分が生きている間だけと思えば、断定的な物言いも可能なのかもしれないが、私はどうしても次の世代のことを考えると、一人の人間として躊躇してしまう。