職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

能力主義は人々の価値を破壊していないか

学校、会社、日本あるいは世界の市場など、どこでも能力主義がはびこり、競争が善であるという考えが行き渡っています。私は『学び直しで「リモート博士」』(アメージング出版、2023年)でもはっきりいいましたが、自分自身は新自由主義者ではなく、競争が善だと思っていません。

自分の経験からも、今までの日本の経済や、世界のグローバリゼーションをみても、能力主義や競争が価値を創造しているとは思っていません。むしろ価値を破壊しているといっても良いでしょう。理由は能力主義における勝者は一部で、あとは敗者ということで整理されると、多くの敗者はモチベーションを失い、社会全体は価値を創造する力を奪われるからです。これは社会として損失です。

アリの社会では、よく働くアリは3割程度で、残りの7割は働いていないというのは有名な話です。長谷川英祐『働かないアリに意義がある』(中経の文庫、2016年)によると、この働かないで何もしていないアリの中には、生まれてから死ぬまで働かないアリもいるといいます。ただ、その働かないアリにも存在意義があり、働いているアリが疲れて働けなくなると、その働いていなかったアリが巣の存続のために働きだすといいます。しかも、その働かないアリの無駄なように思える行動が、アリ社会にイノベーションをもたらすこともあるそうです。

人間社会をみると、まず学校では成績を基準に競争をさせられますが、学力のある生徒が、学力のない生徒よりも価値が高いように思わされます。しかし、学力があろうがなかろうが、すべての生徒が世の中に出てから活躍のチャンスがあるわけです。しかし、その大切なことは学校で教わりません。ダイバーシティとかサステイナビリティなどという美辞麗句ばかりが躍り、能力主義では説明できない人々の価値というものを教えません。成績が良いエリート層だけで世の中が回っているわけではないことをなぜ教えないのでしょう。

会社では、能力主義で限られたポストを獲得するための競争をさせられますが、ポストに就けなかった人は価値がないと思わされ、これまた彼らのやる気を奪います。役割や機能が異なるだけで、組織における役職など、飾りでしかないはずです。実際に大企業で出世したといわれる役員をみてください。実務を遂行する能力はほとんど失われており、組織で生き残る技術を駆使してい日々やり過ごしている人が多いと思いませんか。しかし彼らは権限と予算を与えられ、組織にいる間はパワーを付与されています。しかし、組織を離れると、そのパワーは組織に置いていかなければなりません。エリート層が作った能力主義の枠組みの中で出世しましたが、単に組織の内部における機能が違うだけだということを忘れがちです。

そして、日本や世界の市場で戦う企業も同じです。市場シェアや利益水準で競争し、より多くのシェアと利益を獲得した企業に価値があり、そうでない企業の価値は低いとみなされます。それは株価という数字になって端的に表されます。しかし、いずれも限られた市場を前提にパイの奪い合いをしているだけで、市場全体に価値を付与して市場を拡大させているわけではありません。人々の豊かさとも無関係で、むしろ貧富の格差は拡大します。さらに、勝ち負けのゲームによって、負けた企業の価値を破壊していることになっています。

私は能力主義で人々が幸せになるとは思えません。能力主義における目標は、成績であったり、数字であったり、市場シェアであったり、利益であったりします。しかし、それは世の中のエリート層が作った基準でしかありません。これは、一部の勝者以外の他者の価値を破壊し、やる気を奪うための仕組みになっています。本当に社会全体の価値を創造したいのであれば、能力主義ではなく、アリの社会のように、各自の役回りを認めて、それぞれの能力を使って、すべての人が価値を創造することに邁進することではないかと思います。能力主義実力主義、ひいては資本主義というものが価値の創造や人々の幸福とは無関係の幻であるということに気づかなければならない時かもしれません。