職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

文語の消滅にみる日本語の消滅の可能性

文語を学びたいと思い、過去にいろいろ挑戦しましたが、うまくいった試しがありません。英語は仕事に必要なので学びました。フランス語も妻の家族との対話で必要なので、今でも学び続けています。どちらも必要に迫られているので、努力が持続しているのでしょう。

そこで、日本近代史を学ぶために、ということであれば、文語を学び続けることが可能なのかと思い、古田島洋介『日本近代史を学ぶための文語文入門』(吉川弘文館、2013年)を読んでいるところです。

古田島氏によると、文語体の一つである漢文訓読体について、たとえ、大学の史学科で近代史を研究していても、漢文訓読体を体系的に学ぶことに時間を割くことはなく、国語教員免許状を取得する学生でも、お座なりに勉強するのが実態だそうです。強いていえば、大学の予備校の講師が、日本で最もまともな漢文教育をしているということ。

そういう私も、中学や高校で漢文の授業に身が入らないことが多く、先生の情熱的な授業にもついていけてなかったことを認めなければなりません。当時、漢文の先生は、授業を少しでも興味のある、楽しいもにしようと努力していたことは今でも記憶にあります。申し訳ないことをしました。

また、私の子どもたちも、漢文や古文を好んでいる様子はなく、大学受験の科目でも回避する傾向があるのは明らかです。このままでは、文語は死語になるのでしょう。

まだ、本を読み終わっていないので、何ともいえませんが、果たして読後に文語を学ぶモチベーションが上がるのかどうか。とりあえず、昔の民法や商法の条文が文語体だったことを思い出したので、自分が法学部2年生の昭和63年(1988年)の小六法を注文してみました。

現在は、民商法の条文が口語化されたので、法律条文から文語は消えたことになりますが、このように文語に触れる機会も減り、そもそも文語の存在も知らない世代も増えて、言葉が消滅していくのでしょう。

学校教育で英語が重視され、英語の公用語化が主張される時代に、日本語消滅の危機にも警戒しなければならない時期にきているのかもしれません。