職人的生き方の時代

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社会変革運動の「ポリティカル・コレクトネス」

ポリティカル・コレクトネス(political correctness)という言葉を聞いたのは、2011年にカナダに住んでいたときだ。英語の授業の教材を読んでいるときに、このテーマが出てきて英語の先生が説明してくれた。文字通り表現が「政治的正しさ」や「政治的妥当性」を持っているかという意味である。英語の先生は、ジャマイカにルーツを持つカナダ人女性だったので、人々の発言や記述において、ポリティカル・コレクトネスを意識することが重要であることを教えてくれた。彼女がカナダ社会でマイノリティであることも、彼女の認識に影響していたのは間違いない。

そして、ポリティカル・コレクトネスの身近な例では「ビジネスマン」はいつしか「ビジネスパーソン」と言い換えられたのがわかりやすい。また、「チェアマン」は「チェアパーソン」に、「スチュワーデス」は「フライトアテンダント」に、「ファイヤーマン」は「ファイヤーファイター」にと修正されていった。意識するとしないとにかかわらず、いつの間にか表現が変わっており、私たちはその理由を深く考えることもなかったと思う。

馬渕睦夫『日本を蝕む新・共産主義』(徳間書店、2022年)によると、このようなポリティカル・コレクトネスの活動は社会を変革するための道具であるという。すなわち、政治文化の変革によって社会変革を達成するための文化闘争あるいは文化革命であり、暴力ではなく政治的・社会的な強制力によって変革は実現されるということのようだ。SDG'sの17のゴールの中にある、「5.ジェンダー平等を実現しよう」も、男女平等をはるかに超えた、男女の性差をなくすというおそろしい思想であり、既存の社会秩序を破壊するための施策であるという。

たしかに、ポリティカル・コレクトネスなどといわなくても、人々の寛大さやマナーのレベルで実現できることを、わざわざ伝統的な表現を修正してまで実践する意味は何なのであろうかと疑いたくなる。

「私はサラリーマンである」という表現は、「私はサラリーパーソンである」という表現に変えるべきなのか。「マン」を人類と解釈するなら「サラリーマン」で十分であろう。日本の会社員を表現した「サラリーマン」は文脈の中で適切に会社員の性質を表わしている言葉として大切にされていい造語だと思う。そこで、これはポリティカル・コレクトネスの視点で正しいのであろうか、などと考えていたら何も発言できなくなるし、そもそも既存の文化が壊され、まともな文学も育たなくなるのではないか。馬渕氏は、共産主義革命の一手法であることを指摘するが、そうなのかもしれない。

また、類似のテーマとして、キャンセル・カルチャー(cancel culture)がある。これも社会変革の道具と考えてよいであろう。著名人のSNSでの発言の不適切さを取り上げて、徹底的に糾弾し、社会的地位を失わせる行為。

Anna I. Krylov et. al., Scientists must resit cancel culture, Nachrichten aus der Chemie, (2022). によると、現代のキャンセル・カルチャーの問題点は、政府主導で行われる検閲ではなく、SNS等において私的制裁を加える人々の出現であるという。冷静に考えると、彼ら(彼女らと加えないといけないのか)の基準は公正であるのか、あるいは適切であるのかの検証はほぼ不可能である。

記憶に残る最近の事例としては、東京オリンピック会長だった森喜朗氏が失脚したが、80歳を過ぎた彼の発言を言葉狩りのように取り上げ、表舞台から葬り去ったあの出来事に、冷静な検証はなされたのであろうか。表現の自由として、政治的ではなく法的な正しさの視点からの議論が出たであろうか。キャンセル・カルチャーという道具を使い、正義を振りかざした世直し活動は、社会をどのように変革していくのか興味深い。私たち一人ひとりは、このような運動の背後にある動機や目的に少しでも注意を向けて警戒しておく必要があるのではないかと思った。