スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

社会人大学院生は10年から20年後の成果を目指す

1990年代初めから大学では大学院重点化ということが行われています。大学における教員のポストが増えるわけでもないのに、なぜ研究者を養成する大学院を強化していったのでしょうか。いろいろな理由があるようですが、酒井敏『野蛮な大学論』(光文社新書、2021年)に興味深い見解がありました。

酒井氏によると、博士を増やしてもポストがあるわけではないので、研究者の養成が目的であったはずはないといいます。実際、文部科学省が掲げていた大義名分は国民の「生涯学習」の促進であったということです。生涯学習といっても大学院はあくまでも研究の場。社会人がカルチャーセンターに通って外国語や古典文学など趣味で学ぶレベルでは同列に語れません。

それでは、生涯学習として大学院を修了した人たちはどこに行くのでしょうか。それはやはり企業しかありません。アメリカ等では、博士号を持つ人たちが好待遇で企業に迎え入れられることがあり、文部科学省には、日本にもそういう企業文化が広まることへの期待があったのではないかといいます。

ただ、残念ながら日本企業にそのような発想と余力があるとは思えません。企業は、組織に特定分野の専門家を取り込み、未来のためのイノベーションを期待するなどという悠長なことは言っていられないからです。とにかく四半期ごとの決算で、すぐに役立つ人材が必要なわけで、組織内で自由に研究をして、いつ成果を出せるかわからない人材を採用する余裕はないわけです。

およそ社内で用意されている研修をみてもわかりますが、即効性があり、日々の業務に直結したものばかりではないでしょうか。本来はかなり余分な知識を学び、本業に関係のない情報も得て、10年後、20年後に成果が出るかもしれない研修があってもいいと思うのですが、企業にとっては、そんな研修などあり得ないとなるでしょう。

酒井氏は、福利厚生の一環で従業員を大学に送り込むことも提言します。ただしその場合、「会社の研究開発に役立つ知識を仕入れてこい」といった具体的な目的を決めないほうがよいといいます。比喩的表現を用いて、大学院で身につけるのは「筋肉」ではなく、「脂肪」であるといい、大学院を保養施設と同じように利用させるとよいと提言します。

たしかにその通りだと思います。しかし、前述したように企業にそのような発想や余裕はなく、視点はせいぜい3年、長くて5年で成果を期待します。たとえば、上場企業の場合、経営者の在任期間がその程度なので、視界がそこまでしか届かないのでしょう。最近は役員報酬に長期インセンティブも付与され、長期的視点も必要とされていますが、10年先、20年先ともなれば、そもそも経営者本人が生きているのか、ということすら微妙なケースもあるわけで、なかなか「10年後、20年後に成果を出してくれればいいよ」といえる人はいないのかもしれません。

いずれにしても、企業と大学のあり方は変わる必要がありますが、組織がなかなか変われないのはいつの時代も同じです。よって、企業で働き、大学院で学ぼうという人々が自分から変わっていく必要があるのだと思います。自分自身の人生について短期的視点だけではなく、長期的視点で戦略を策定することはできるわけなので。