阿部彩『子どもの貧困』(岩波新書、2008年)を再読してみた。貧困を扱う書籍としては古典といってもいいくらい有名ではないだろうか。その書籍から重要な気づきを得た。その本の中に、私あるいは世の中の多くの人が勘違いしているキーワードをみつけた。それは次のような一節に出てくる。
「すべての進学したい子どもが大学へ進学する必要はないと考える。すべての進学したい子どもができるようにするべきである。そして、それと同時に、進学を選ばない子どもたちにも、「まっとうな仕事」を獲得できるだけの「最低限の教育」を身につけさせるべきある。」
ここで、はたと思った。「まっとうな仕事」??? 何だろう。「まっとうではない仕事」はあるのだろうか。たしかに、殺し屋を職業とすることはできない。公序良俗に反するし法はそのようなことを許さない。しかし、世の中の職業のすべてはまっとうな仕事である。
手もとの辞書には、「本来正しいとされる方向に従うようす。まとも。まじめ」とある。ここでは「まとも」の意味がしっくりくると思われるが、「まともな仕事」とは何であろうか。もしこれを仕事の種類で使うのであれば、まともな仕事も、まともでない仕事も世の中には存在しない。なぜなら、世の中に存在する仕事は、すべて必要だからあるのであり、それは誰かが担わなければならないからである。端的に「職業に貴賤なし」である。
そもそも尊い仕事も、卑しい仕事もない。あらゆる仕事は必要にして不可欠なのである。しかし、私たちはどこかで勘違いしていないだろうか。阿部氏の文脈では、大学に進学し多くのことを学べば、よりよい仕事につけ、大学に進学しない人は、望ましくない仕事に就くことを暗示しているようにも思える。しかし、何度もいうがまっとうでない仕事は世の中に存在しない。
問題は、現実の社会において高学歴の人は大企業に入り高給をもらえ、高学歴ではない人は、非正規雇用やブルーカラーの仕事について、給与も大企業の人たちに比較して低いとい事実があることである。そして、先日、子どもたちと話しているときに気がついた。
子ども:「お父さんの仕事はどんなことなの?」
私:「会社の役員を守るための保険とかを買う仕事だね」
子ども:「それはどんなことなの?」
ここで考えて、ちょっと違う答え方をしてみようと思ったら、自然に次のようなことをいってしまった。
私: 「たいしたことはないよ。もしお父さんの仕事がなくなっても世の中の大半の人は困らないと思うな。でも、毎週ゴミを収集してくれる人やビルの清掃、トイレ掃除をしてくれる人が仕事をやめたら世の中大変なことになるよ。ヨーロッパの国の中には、それで街の機能が麻痺している地域もあるんだ」
なぜ、職業によってあるいは組織のポジションによって、こうも違うのだろうか。子どもの貧困を解消するために、教育を受ける機会の平等を確保することが望ましいのは百も承知である。しかし、そこに意識を集中している限り、問題の解決にはならないのではないだろうか。むしろ世の中の「公正」さを確保することに注力することのほうが近道ではないだろうか。
なぜ私たちは、いくつかの企業の社外取締役に就任し、好き勝手をいっている人が、複数の経路で収入を得て経済的に豊かになり、政治的にも影響力を行使して、さらに豊かさを得ようとしている事実を許しているのか。一方、毎日朝早くビルの前で待ち、ビルのシャッターが開いたらフロアの清掃をしている人、あるいは体力や精神力の限界を行き来しながら、高齢者の介護をしている人、このような人たちの給与が低く抑えられている事実を許しているのであろうか。正直わからない。
人は私にいうかもしれない。「そういうあなたは、なぜ2度も大学院に行き学び、何を得ようとしているのか。お金であろうか?」。
大学院に行ったところで収入が増えるわけではない。副次的効果として、定年後に非常勤講師の職があるかもしれない。あるいは、定年のない仕事に就くかもしれない。自分で事業をするかもしれない。いろいろ可能性はあるが、収入は副次的効果でしかない。
それでは何か? 情熱をもって探求したいテーマがあり、今の仕事を「まっとうな仕事」にしたいからである。この場面でこそ「まっとうな仕事」というフレーズが使える。多くの人は会社から、あるいは上司からいわれて仕事をやらされ、長時間労働やハラスメントに苦しみ、まっとうな仕事ができていない。それを少しでもまっとうな仕事にするため、付加価値を創造するつもりで学んでいる。
よって、世の中にまっとうな仕事とまっとうでない仕事があるのでなく、自分の担っている仕事がまっとうでないときに、まっとうな仕事にする、このようなときにこの言葉が使えるのだと思った。
ただ、世の中に「公正」さが欠如して、職業やポジションによって大きな所得格差が生じることの答えは見出せない。職業によって価値の差があるわけではない。なぜ格差が生じるのか。ある人たちがあるいはある特定の制度が、格差があるとみせかけているだけではないかと思えてきた。本当に自分の仕事は隣の人の仕事以上に価値があるのか。おそらく差はないのだと思う。