スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

見知らぬ他人との口論からの学び

休日に近所のスーパーにある本屋に行った。どうも「氣」が悪かった。マスクをしていても呼吸が苦しいし、体の中が違和感でいっぱいだった。時折マスクを外さないと、居ても立ってもいられない不快感があった。10分もいられず、その場を立ち去ろうとしたとき、誰かが私の足を引っかけてきた。すねの上のほうまで相手の足が来ていたので、故意でなければ生じない現象であった。私はつまずき前のめりになるものの、転びはしなかった。相手は何事もなかったかのようにまっすぐ去っていってしまった。

私は心の中で「こんな男を世の中に野放しにしておくわけにはいかない」と思い、走り寄って「あなたは何をしたかったのですか?」と問い詰めた。「俺はまっすぐ歩いていた。お前えがよそみをしていたからだ」と抗弁してきた。「警察を呼ぼうか?」ともいった。

エスカレーター上で口論になるが、もちろんまともな議論になどならない。不毛なやり取りが続く。エスカレーターを降りた食品売り場の前では、「話をつけるから外に出ろ!」という。もちろん、目撃者を多く確保したいので、その場を動く気はなかった。彼は出口に向かって10メートルくらい歩き、私がとどまっているのをみて、戻ってきた。私は正義の剣を右手に「そんな態度で社会を生きているわけがないじゃないか。なんの意味があったんだ」と。彼は「俺はまっすぐ歩いていただけだ。失礼ないい方だ。外に出ろといっているだろ」と。私は「そんなにまっすぐ歩きたいなら、そのまま歩き続ければいい」というと、そのまま歩いて去ってしまった。

後で気が付いたが、彼は職を失ったホームレスだったかもしれない。30代後半か40代前半だと思われるが、上下防寒具を着て南京錠のかかった大きなリュックを背負っていた。そのほか小さなリュックももっていたので、ちょっと近所のスーパーに行くという出で立ちではなかった。マスクで顔全体はみえなかったが、目は充血してよく眠れていないのは明らかだった。しかし、口論になっているときには、そこまで思い至らない。彼と別れてから10分後くらいにその可能性に気がついた。

職を失い住むところも失い、時間を持て余して本屋を徘徊していた。自暴自棄になり、目の前を歩いていた私の足を引っかけたというだけかもしれない。「警察を呼ぼうか?」というのも、警察沙汰になれば食事は確保できるというのもあったのかもしれない。ただ、刑事事件になるにはどちらかがケガでもしなければならないのでハードルは高い。

もしその場で彼の背景がわかっていれば違う対応をしたであろう。たとえば、1万円だけあげるので、今晩なんとかしのいで明日から必死に仕事を探してみてよ、という対処もあったであろう。そんなの映画の中の話だ、ドラマじゃないんだから、といわれるかもしれないが、完全否定する理由もない。人は何かのきっかけで最悪の状況を脱することができるものである。

いずれにしても今回の事件で感じたことは、私の「正義論」などいい加減なものであるということ、平気で意味のない口論をして時間を無駄にする愚かさがあるということ、議論で何か問題を解決できると思っている馬鹿さ加減があること、問いかけ方を変えるだけでもっとポジティブな展開があり得たということ、マスクでまともな呼吸ができないため悪い氣を引き寄せることがあるということ、あるいは、せっかくのあの世からのメッセージをしっかり受け取れていないということなどである。

そもそも、最初に湧き起った「こんな男を世の中に野放しにしておくわけにはいかない」という感情は、自分のどこから来たのだろうか。今まで学んできたこと、あるいは社会で経験した規範意識であろうか。そうであれば、そんなものは必要なかった。私が「裁判官」になって彼を裁く必要性などない。どのみち彼はいずれ何かの大きな出来事で人生を軌道修正せざるを得ないときがくるかもしれないのだから。本来は私の出番などなかったのである。

これから失業者が増えて精神的にも肉体的にも追い詰められる人が増えてくる。私たちのすぐ隣にそのような危機的な状況の人がおり、まともな判断ができなくなっていることもある。このような荒廃した社会で今後数年すべての人が生きていくことになる。そこでは私たちの本質が問われているのであろう。このような社会で起きる様々な事象に対してどのように反応するのか、どのように対処するのか、一人ひとりが問われているようである。そういう意味でスーパーでの一件は、自分の愚かさを自分で垣間みることができた貴重な出来事であった。

翌日、同じ場所に行ってみたが彼はいない。あの格好で毎日スーパーに出没するわけもない。今日は別のスーパーで同じことをしているのだろうか。