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法科大学院が法学研究を衰退させるのか

日本の多くの大学で法科大学院ロースクール)が設立された。制度自体は2004年にはじまっているが、法科大学院に対する懐疑的な意見は多い。しかも、すでに閉鎖した法科大学院の数のほうが、存続している法科大学院の数よりも上回っている。存続している法科大学院といえども赤字経営のところが増えているのではないだろうか。普通の民間企業であればすぐに撤退すべき事業であろう。アメリカのロースクールを日本版ロースクールとしたわけだが、アメリカの真似をすればうまくいくということではないようだ。また、逆説的ではあるが、法科大学院を閉鎖し、法学研究科のみ残った大学院は、研究者を養成する研究機関として発展する最大のチャンスなのだと思う。

私が法科大学院の存在で問題だと思う点は、大学院における法学研究の活動が停滞してしまうのではないかということである。法学研究科と法科大学院は、同じ大学院でもまったく別である。法科大学院で学んだ経験がないので、正確なコメントはできないが、法科大学院の最終ゴールは、できるだけ多くの学生を司法試験に合格させることである。そうすると、基本書や重要判例を読むであろうが、さらに深く掘り下げた論文や裁判例までは読まないのではないだろうか。そんなことより、最短、最速で結論にたどり着く訓練が必要なのだと思う。余計な学説や裁判例よりも、正確な答案を書ける能力が問われているわけである。

一方、法学研究科は、かなり狭い領域を不必要と思われるぐらい深く調べることがある。ある意味で、遠回りも必要であるし、一見無意味と思われる隣接する学問を調べることもある。むしろ学際的なテーマは競合他者がいない最高の研究領域となる可能性もあり、そのような分野をみつけられれば、研究者としては優位性を確立できることになる。

さらに、法学研究科の特徴として明らかな点は、外国法をよく学ぶということがある。外国法を学んで日本法に役立つのか、という疑問があるかもしれない。たしかに、文化的、社会的背景も違うし、国の制度や経済、宗教、国の成り立ちも違うので外国法をそのまま持ち込んでも無理がある。しかし、ハッと驚くような着眼点をみつけることや、外国法を参考としつつ、日本法に応用してみること、あるいは自分がみえていない世界を垣間見て新しい論理の展開を試みるには、やはり外国法の研究は非常に有用である。

当然、法科大学院と法学研究科のカリキュラムは違う。おそらく教員の側も駆使する脳の部分は違うのではないだろうか。一人の教員が、法科大学院と法学研究科の授業を兼務するのは、相当大変なことだと思われる。民間企業でいうなら、営業部と法務部を兼務する、人事部と財務部を兼務するくらい、妙なことなのかもしれない。

そして学問としての法学について問題が生じると思われる点は、法科大学院に人的・物的リソースをとられて、法学研究科の体制が脆弱になっている大学院が相当数あるのではないかということである。授業の数は法科大学院のほうが多くなり、教員も授業の準備などで時間をとられる。また、法科大学院の学生は2年後あるいは3年後の司法試験を目指すので、5年や10年のスパンで研究などできない。おそらく法学研究科で一つのテーマについて一定の成果や結論に達するには最低でも5年は必要だと思うので、明らかに法科大学院とは研究手法は異なる。研究が本業の教員はこの事業計画の期間の違いのために疲弊してしまう可能性がないだろうか。

授業料も国立大学は少し安価であるものの、法科大学院の初年度納付金は100万円を超える。私立大学の初年度納付金は平均140万円くらいといわれている。こんなに高額な学費を支払える人というのは、ある程度の高収入でなければ無理であろう。多様なバックグランドをもった人が法曹にということにはならない。すべての人に開かれていない法曹になってしまう。昔は主婦が司法試験に挑戦するとか、10年司法浪人した人が合格するなど痛快な武勇伝がいっぱいあったはずである。そう考えると、法科大学院はあまり面白い制度ではないように思える。

そして、法学研究科の衰退は大いに懸念される。法科大学院のせいで10年かけて同じテーマを追いかけるような研究者が出てきにくい。おそらく、これは法科大学院の問題だけではなく、高等教育に自由競争を持ち込んだ結果でもある。企業で事業計画を経営陣に提出するときに、要求される利益水準を3年で出そうとする場合、当然、ストレッチした数字を出さざるを得ない。ある意味で、詐欺スレスレのことでもしなければ数字が作れないこともある。一方、5年から10年の事業計画であれば、腰を据えて持続性のあるプランを立てやすい。高等教育の世界にも短期的な成果主義がはびこり、学者がやっつけ仕事ばかりになってしまえば、それは研究の水準が低下するのは避けられないであろう。