スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

人は生きているだけで迷惑だ

新型コロナウイルスに感染し、周りに迷惑をかけたということで自殺した女性がでた。結局、この感染症を特別扱いしすぎた結果の副次的被害ではないだろうか。なぜ、このウイルスを日本で特別視し続けなければならないのであろう。死者数が飛びぬけて多いというのであれば理解できるが、そうではない。

おそらく、政治家は自分の過去の発言や政策が正しくあり続けるには、新型コロナは強力なウイルスであってもらわないと困る。感染症の研究者も、今までは学問としては傍流だったが、これからは本流であり、研究予算もしっかりつくように新型コロナは特別であってもらう必要がある。マスメディアはさんざん煽ってきたのだから、もう後戻りはできない。このようなところではないだろうか。みんなどこまで突き進めば気が済むのであろうか。感染しただけで自責の念にかられた自殺者まで出しておきながら。

ところで、なぜ新型コロナに感染したことで、周りに迷惑をかけたと思ったのだろうか。どうしたらこのような自殺者が出ない社会になるのだろうか。「恥の文化」や「罪の文化」などで説明しきれない、日本の独特の考えが潜んでいるようである。

まず、フランスで感染者がメディアに出るときに、顔を隠すことはない。麻薬の運び屋、移民の不法滞在者など違法行為をしているものが顔を隠してインタビューされることはあるが、たかが感染症に罹患しただけで顔を隠すことは皆無といってよい。FRANCE 24やTV5MONDEなどのニュースがネットでみられるので確認しても、そのようなケースはない。

どうも日本では感染することは罪である、という解釈が出来上がっている。有給休暇をとるときでさえ、ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします、という人は多い。有給休暇など権利なのだから、謝らなくてもいいのに。なんとも日本社会が窮屈な感じがする。

このような発想を壊すには、まず生まれた時点で人は周りに迷惑をかけていることを思い出す必要がある。また、その後生き続けているだけで、周りに迷惑をかけている。植物は二酸化炭素そして水と太陽の光で光合成を行い、栄養素を作れる。しかし、人は植物を食べるか他の動物を食べないと生きていけない。他の命を頂かないと生きられないのだから、年中迷惑かけていることになる。日本の道徳教育や修身教育も人々の思想によい影響を与える部分が多いが、どこか自己責任や努力、礼儀というものを強調しすぎる点があることも否めない。

ルース・ベネディクト菊と刀』(講談社学術文庫、2005年)によると、日本は、人がみているから恥ずかしいということで行動に規律が働くという。一方、欧米人は、神がみているので罪を犯せないと考えるという。それに対して、長野晃子『「恥の文化」という神話』(草思社、2009年)は、日本が恥の文化だけではなく罪の文化もあるから、すぐに「申し訳ない」という謝罪が入ることを指摘している。それは神の存在ではなく、日本人が普段意識していない心の奥底にある倫理観や自責の念からくるもののようだ。

日本は治安がよく、他者への配慮もあり、人に迷惑をかけないように慎重に生きている。ただ、そろそろそのような行儀の良さは、少々忘れてもいいのではないかと思う。生きているだけで、他者や世間に迷惑をかけているのだから、もっと気楽にお互い様で生きていくことでいい。自分を責めることなどなに一つない。そして、日本の文化が世界で一番などということもない。世界のあらゆる文化が尊ばれるべきだし、どちらが優れているかなど順番は存在しない。日本礼賛など不要であり、それぞれの国や文化には役割があり、お互いに影響しあっているのだから。

特別措置法の改正案も出ているが、刑事罰も提案されており、それこそ、「新型コロナ感染=犯罪」のイメージすら作られてきている。世の中にいくつもある感染症の一つでしかないのに。

日本人も真面目でいいところもあるが、その真面目な日本人をやめることも必要である。そうしないと、死者数の比較ではヨーロッパやアメリカのほうが被害は甚大であるが、精神的なダメージに限っていうと、日本のほうがはるかに大きいということになる。実被害がないのに自傷行為で被害を拡大させている様子は、なんとも残念に思う。もっと破天荒に振る舞う日本人をみてみたい。新しい時代は、新しい日本のあり方を示すよい機会なのだから。「コロナになっちゃった!」「それで???」で十分であろう。