職人的生き方の時代

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基本的人権をもう一度考える

PCR検査を受けたときに医師から受け取る書面がある。題は「新型コロナウイルスの検査とご自宅での注意事項(○○市保健所からのお願い)」とあり、「新型コロナウイルスの検査結果が判明するまでは、外出を控え、人との接触を避け、ご自宅での療養をお願いいたします」「十分な休養をとり、バランスのよい食事をとってください」と記載されている。

もし家族がいない一人暮らしの方であれば、自宅で療養していれば買い物にも行けないのでバランスのよい食事など取れないのにと単純に思った。「お願い」とあるが、その書面の通りに従うのであれば行動の制限を伴い、憲法で保障されている身体的自由権がかなり制約される内容である。

この機会に私たちは基本的人権というものをもう一度検証するときだと思われる。こんなに良い素材はない。当該書面には「新型コロナウイルスの検査は、感染症法に基づいて行われています」ともある。しっかり特別法に根拠があることを強調している。

このようなときわれわれは検査を拒否する権利はあるのだろうか。もし強制入院や隔離となった場合に抵抗する術はあるのだろうか。この特別法は基本的人権を規定する憲法に違反していなのであろうか。このような素朴な問いに対する答えは、実は誰も議論していないからわからないということではないだろうか。法律の専門家ですらも、現下の状況で「表現の自由」が奪われて発言できないということだとすると、日本社会は致命的な過ちを犯す可能性すらある。

緊急事態宣言というものに基づき、飲食店の営業時間は短縮され、不要不急の外出も控え、午後8時以降の外出も制限される。さらに、時差通勤や在宅勤務の要請も出ているが、これらの要請に従えば、われわれの行動は極度に制限されることになる。このような制限する根拠法はあるのだろうか。実際には何もなく、ただのお願いになる。

今、感染症法の改正も検討され、入院を拒否したものには罰則も想定されているようである。このような流れのなかで基本的人権に関する憲法議論がほとんど出てこないのが不思議である。こんなことをしていいのかという意見をほとんど聞かないがなぜだろうか。おそらく、法学者も声を上げにくいのではないか。憲法9条であれだけ激論を交わせる憲法学者も今回ばかりはなぜかおとなしい。

私は憲法の知見がそれほどなく、学生時代も基本書を通読したこともない。条文を読み通したことはあるが、憲法の素晴らしさを感じるほど解釈には通じていない。しかし、このようなときだからこそ、もう一度基本的人権の意味を考える良い機会である。このようなことがなければ憲法に関する書籍も論文も手に取ることはなかったかもしれない。

まず、憲法18条において「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」として身体的自由権(人身の自由)が保障されている。また、憲法31条において「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」とし適正手続の保障について規定している。ここでも明らかになるが、緊急事態宣言は法律の定める手続きによっていないので、緊急事態宣言によって人々の行動の自由を制限できないことになる。よって、少なくとも前述の保健所からのお願いには何も拘束力がないので、家の中に閉じこもる必要はない。

PCR検査をして陽性者を隔離するというのはどうだろうか。なんの根拠もなく強制入院や隔離をすれば間違いなく違憲である。

一方、感染症法という特別法があり、1999年に施行されている。そして、感染症法46条1項において「都道府県知事は、新感染症のまん延を防止するため必要があると認めるときは、新感染症の所見がある者に対し十日以内の期間を定めて特定感染症指定医療機関に入院し、又はその保護者に対し当該新感染症の所見がある者を入院させるべきことを勧告することができる」とある。意外にも都道府県知事の判断で入院勧告ができてしまう。

また、2項においては、「都道府県知事は、前項の規定による勧告を受けた者が当該勧告に従わないときは、十日以内の期間を定めて、当該勧告に係る新感染症の所見がある者を特定感染症指定医療機関に入院させることができる」となっており、新感染症の所見があるものに勧告し、それに従わない場合は命令することができることになっている。

ここでいう「新感染症」の定義は、感染症法6条9項にあり、「「新感染症」とは、人から人に伝染すると認められる疾病であって、既に知られている感染性の疾病とその病状又は治療の結果が明らかに異なるもので、当該疾病にかかった場合の病状の程度が重篤であり、かつ、当該疾病のまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがあると認められるものをいう」と定義される。

ここで、偶然インターネットから入手できた、1998年5月1日付けの日本弁護士連合会「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する不立案に対する意見書」があったので読んでみて驚いた。感染症法の立法の不備は法律の専門家の目からみると相当数あることがわかる。

意見書にそって問題点を指摘すると、まず「新感染症」の定義に「感染力が強いこと」の要件が欠落しており、感染力が弱くても「新感染症」の定義に含めることが可能である。次に厚生労働大臣ではなく、身体を拘束するという重大事由であるにもかかわらず、都道府県知事が患者に対して入院勧告および命令ができる。そして、新感染症患者であるか否かの判断は誰がするのか明らかでない。さらに、いきなり10日以内という長期間の拘束が可能であるが、新感染症は医学的知見の蓄積がないのであるから、72時間以内とすべきであるという。そして、強制入院等の規制が本来は必要なかったことが後で判明した場合の当該患者に対する適正な補償の規定が存在していない。また、健康診断・入院を勧告するに際して、十分な説明と同意が当然の前提であるが、その旨の記載が法律に欠落している等、かなりの数に上る改善提言がなされている。

法律もしょせん人間が作るものなので完璧ではないし、立法の実務を担当する官僚も忙しく限られた時間の中で条文を作成するので、どうしても不備はでてきてしまう。しかし、感染症法を冷静に読めば、日本弁護士連合会が指摘するように、定義に曖昧さがあったり患者の人権や適正な手続きが保障されていなかったり、運用次第では相当危険な法律であるともいえる。

それでは、成立してしまった法律に対してわれわれは無力なのかというと、そのようなこともない。憲法81条には違憲審査権が規定されており、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」として、既存の法律が違憲であることを主張する機会は確保されている。そして、過去にハンセン病患者の隔離規定の違法性が認められたり、改正前民法733条に規定する再婚禁止期間が男女平等に反するということで違憲判決が出されたりしている。そして、「処分」には行政機関の行為のみならず、立法機関や司法機関の行為、裁判所の判決についても処分にあたるので、われわれができることは意外にあるはずだ。

しかし、残念ながらわが国では、フランスのように次々と行政訴訟の提起がなされるような法文化がない。司法へのアクセスが悪いということもあるが、そのような訴訟にエネルギーを使いたくないということもあると思う。よって、多くの人は沈黙を守ることになっている。

しかし、法律の専門家が沈黙を守り続けているのは残念ではないか。憲法はわかるが感染症法については不備を指摘できるまで熟知していない、ということかもしれない。このままでは、勝手に検査をして不当に拘束されるようなことが起きかねない。しかも、後で検査結果が間違っていました、あるいは新型コロナウイルスの感染力は想定されていたものより弱かったです、というようなことが起きても補償される規定がないのである。

このような背景を踏まえると、われわれ一市民としてもう一度基本的人権というものの大切さを認識し、検証したほうがよいであろう。おそらく将来生じるであろう別の論点、たとえば憲法9条改正議論などでも応用が効いて役立つこともあると思われる。このような素材を提供してくれる感染症にも感謝し、転んでもただでは起き上がらない精神で、人権というものを考えてみるのも必要であろう。