憲法の人権規定は、私人相互間の関係については、私的自治の原則を基本に考えるべきで、憲法上の人権そのものが関知しない領域と考えられていた。しかし、社会経済の発展の過程で、国家と同じように社会的権力を持つ組織団体が現れた。そして、これらの組織団体が人権侵害をするケースも散見されるようになった。この問題はパンデミックによる各企業や経済団体、学校等の対応で先鋭化している。企業や医療系学校におけるマスク着用義務や実質ワクチン接種強制、経済団体によるワクチンパスポートの提言等の問題として浮かび上がり、憲法問題の格好の素材を提供することになった。
企業と労働者の間の人権問題については、南野森「憲法と労働法-「働く人」の権利を守るために」法律時報81巻5号(2009年)によると、今までは憲法学が、労働法学の問題に深く関与することは差控えていた感はあるという。なぜなら、国家権力を構成し制限する法が憲法であり、企業と労働者という私人間の問題には立ち入らないということであったためである。しかし、これだけ多くの人権侵害が発生し、憲法的価値観が崩壊しかねない事態が生じている現状において、この問題は再検証が必要となっているはずである。
しかし通説・判例は、企業と労働者の間の人権問題等では、一般的に民法90条の公序良俗に反するということで違法であるという解釈をする。憲法の趣旨を民法の一般条項に取り込んで解釈するこの学説は間接適用説といわれている。これに対して、たとえば、圓谷勝男「私人相互間の人権保障」東洋法学37巻1号(1993年)は、各種の社会的権力が強大化した現代社会において、伝統的憲法観念を修正し、私人相互間にも適用する方向で法の解釈を進めることが望ましいともいい、このような説を直接適用説と呼んでいる。
ただし、国または地方公共団体と私人の間を規律する憲法が、私人相互間まで適用されると私的自治の原則あるいは契約自由の原則が広く害されるので、やはり企業と労働者、学校と生徒、医療機関と医療従事者のような私人間の権利義務関係に憲法が直接適用されるべきではないとする。憲法学の重鎮である芦部信喜の基本書『憲法〔第5版〕』(岩波書店、2011年)などもこの立場であろう。
このような通説的立場に立つ限り、日本政府は憲法を遵守しており人権侵害はないといい得る。ヨーロッパの一部の国のように、マスク義務化やワクチン義務化などしていない。ワクチンパスポートも国家としては導入していない。その点、憲法を遵守しているのは間違いない。ヨーロッパの一部の国は憲法違反となっている実態があり、政治家に遵法意識がないことに比べると、日本はまだ救われる。
しかし、直接手は下していないが、不作為の罪を犯していないだろうか。外出の自粛、営業の自粛、マスク着用のお願い、ワクチン職域接種等どれも任意としつつ、これらの施策の実行段階で、私人間に緊張関係をもたらすような圧力を利用したといえないだろうか。そして結果的に、社会の分断を引き起こし多くの混乱と損害を残した。本来であれば、もっと明確に、要請とは「お願い」であることや、予防接種法には努力義務規定しかなく、その意味するところは「任意」であることを強調すべきであったように思う。